【文化祭編】第7話 約束
文化祭本番を翌日に控えた金曜日の早朝。俺、雪村恒成は、人生でこれほどまでに誰かとの約束のために早起きしたことがあっただろうか、というくらいの時間に目を覚ました。瞼は重く、体は鉛のようにだるいが、昨夜の西井加奈との「特製スポーツドリンク持参でバレー部の朝練見学」という、半ば脅迫めいた、しかしどこか期待してしまう約束を果たすため、俺はキッチンに立っていた。ネットで必死に検索したレシピを元に、レモンと蜂蜜、そして少量の塩をブレンドした、見た目はそれなりに本格的なスポーツドリンクを、水筒に詰める。味の保証は、ない。
まだ薄暗い道を自転車で走り、学校の体育館に到着すると、中からは既にボールの弾む音と、気合の入った掛け声が聞こえてきた。バレー部専用の入り口からそっと中を覗くと、そこには普段の教室での姿とは全く違う、アスリートとしての加奈がいた。
引き締まった表情でボールを追いかけ、鋭いスパイクを相手コートに叩き込む。その姿は、俺が知っている西井加奈とはまるで別人だ。額に汗を光らせ、息を切らしながらも、その瞳は勝利への執念で爛々と輝いている。俺は、その迫力と美しさに、ただただ息をのむばかりだった。
練習の合間、給水のためにベンチに戻ってきた加奈が、体育館の隅で壁に寄りかかっている俺の姿に気づいた。一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐにニヤリと口角を上げる。 「ありがとう、恒成。ドリンク作ってくれたの? 置いといて欲しい」 汗を拭いながら、加奈は少しだけ息を切らしてそう言った。その声は、どこか運動後の心地よい疲労感が混じっている。
「お前が作って欲しいって言うから作ったの〜 バレー上手いんだね」 俺は、思ったことを素直に口にしてしまい、すぐに後悔した。 「へえー? 恒成が、この私のことを褒めるなんて、明日は槍でも降るんじゃない?」 加奈はそう言って、俺が差し出した水筒を取ると、チームメイトの元へと戻っていった。その背中は、いつもより少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。
「あれー? 加奈の彼氏じゃーん!」 「わざわざ朝練に差し入れなんて、ラブラブだねー!」 他のバレー部員(特に女子)たちが、俺の存在に気づき、冷やかしの声を上げてくる。俺は顔から火が出るほど赤面し、加奈も「あははっ…」と、普段は見せないような慌てぶりで仲間たちを窘めていた。その姿が、なんだか新鮮で、そして少しだけ可愛く見えてしまったのは、ここだけの秘密だ。
その日の授業は、クラス全体がどこか上の空だった。無理もない。明日はいよいよ文化祭本番なのだから。午後のゲネプロと呼ばれる最終通し稽古に向けて、各々が最後の確認に余念がない。 栗谷快斗も、落ち着かない様子で何度もスマホをチェックしていた。昨日、美波先輩に文化祭の招待状と演劇のチケットを渡したのだが、まだ先輩からのmineか何かで来るはず明確な返事がないらしい。 「おい快斗、まだ佐々木先輩から連絡ないのかよー。大丈夫だって、絶対来てくれるって!」 隣の席の遼が、快斗の肩を叩いて励ます。 「…ああ。俺は、先輩が見てくれてると信じて、最高の舞台にするだけだ」 快斗はそう言って、ぎゅっと拳を握りしめた。その目には、不安と、しかしそれ以上の強い決意が宿っていた。
そして午後。ついに、俺たちの演劇「秋風のプレリュード」のゲネプロが、体育館の特設ステージで始まった。客席には、顧問の美玖先生や、他のクラスの文化祭実行委員、そして噂を聞きつけた一部の生徒たちの姿もある。本番さながらの緊張感が、体育館全体を包み込んでいた。
俺は監督席から、舞台全体に鋭い視線を送る。数週間前、初めて演出プランを口にした時の自信なさげな俺はもういない。今は、この作品を最高の形で観客に届けたいという強い想いと、仲間たちへの信頼がある。
「幸誠、そこ、もう少し間を取って。ヒロインへの募る想いと、未来への不安が交錯する、主人公の葛藤を表現してくれ!」 「美沙希さん、今のヒロインの涙、素晴らしかったです! その感情のまま、クライマックスまで突っ走ってください!」 「加奈、お前の役は親友としての明るさだけじゃなく、ヒロインを心の底から心配する優しさも、もっと前面に出していいぞ!」
俺の指示は、以前よりも具体的で、そして熱を帯びていた。役者たちも、その熱意に応えるように、魂のこもった演技で舞台を駆け巡る。 主演の斎藤幸誠は、クールな見た目とは裏腹に、内に秘めた情熱と葛藤を見事に表現し、観客の心を掴む。ヒロイン役の西条美沙希は、その圧倒的な存在感と繊細な感情表現で、物語の悲劇性を際立たせる。彼女が涙を流すシーンでは、客席からすすり泣く声も聞こえてくるほどだ。 そして、西井加奈。ヒロインの親友という、決して目立つ役ではないかもしれないが、彼女の明るく歯切れの良いセリフと、コロコロと変わる豊かな表情は、シリアスな物語の中で唯一の救いとなり、観客をホッとさせる。そして何より、脚本家としての彼女の想いが、役を通じて舞台全体に生命力を与えているのが分かった。
ゲネプロの途中、舞台装置の一部である「時空ゲート」が、回転する際に少しギクシャクとした動きを見せるという小さなハプニングがあった。一瞬、舞台上の空気が凍りつき、客席からも心配そうな声が漏れる。 しかし、大道具係のリーダーである謙介が、舞台袖から飛び出してきて、他のスタッフと連携を取りながら、瞬く間にその不具合を修正した。その迅速かつ的確な対応に、客席からは自然と拍手が起こる。 俺も、慌てることなく冷静に「大丈夫だ、続けてくれ!」と指示を出し、舞台は滞りなく進行した。クラス全体が一つの目標に向かって努力してきた成果が、こういう場面で発揮されるのだと、改めて実感した。
そして、ついにクライマックスシーン。主人公が、時空を超えて愛するヒロインを助けに来る、最も感動的な場面だ。俺が選曲した、あのマイナーだが最高にエモーショナルなアニメ劇伴のオーケストラアレンジ版が、効果的なタイミングで流れ始める。 幸誠と美沙希の演技は、まさに圧巻だった。お互いの名前を呼び合い、涙ながらに想いをぶつけ合うその姿は、見ている者の心を激しく揺さぶる。
「…俺は、君を失うくらいなら、この世界の理だって変えてみせる!」 幸誠の絶叫。 「…私も、あなたと出会えたこの奇跡を、絶対に忘れない…例え、どんな運命が待ち受けていようとも!」 美沙希の涙ながらの誓い。
その瞬間、俺は監督という立場を忘れ、一人の観客として、物語の世界に完全に引き込まれていた。胸が熱くなり、目頭がじんと潤む。…俺たちの演劇は、間違いなく、最高の作品になる。
ゲネプロが終わり、体育館が大きな拍手に包まれた。キャストもスタッフも、汗だくになりながらも、達成感に満ちた、最高の笑顔を浮かべている。 俺は立ち上がり、舞台上の仲間たちに向かって深々と頭を下げた。 「みんな、本当に最高の演技と、最高の仕事をしてくれた。ありがとう。でも、本番は、今日よりももっともっと素晴らしいものにできるはずだ。細かいところだけど、いくつか修正点を伝えさせてほしい。明日の本番、観に来てくれた人たち全員の心に、この物語を刻み込もう!」 俺の言葉に、クラス全員が「おおーっ!」と力強く応えた。
ゲネプロが終わり、全ての準備が整った。明日はいよいよ文化祭本番だ。教室に戻ると、そこには心地よい疲労感と、明日への期待と不安が入り混じった、特別な空気が流れていた。 快斗は、まだ美波先輩からの明確な返事がないことに少し気落ちしているようだったが、「俺は、先輩が見てくれてると信じて、明日は最高の制作進行をしてみせる」と、前を向いていた。 幸誠と美沙希は、お互いの健闘を静かに称え合い、本番でのさらなる飛躍を誓い合っている。その二人の間には、もはや友情以上の、確かな信頼と尊敬の念が芽生えているように見えた。
そして俺と加奈。二人で誰もいなくなった体育館のステージに立ち、静まり返った客席を見渡していた。 「…明日、ここで、俺たちの物語が、本当に始まるんだな…」 俺が感慨深げに呟くと、隣にいた加奈が、ふっと息を吐くように言った。 「うん。最高の物語にしよっか、恒成。…私たち二人で、ね」 その言葉は、いつものからかいとは違う、真剣で、そしてどこか優しい響きを持っていた。俺は、その言葉の意味を深く考えようとしたが、加奈はすぐにいつもの調子に戻って、「ま、恒成監督がヘマしなければ、だけどね!」と付け加えた。
文化祭前夜。俺は自宅のベッドの中で、なかなか寝付けずにいた。明日、俺たちの演劇は、観客にどう受け止められるのだろうか。そして、この文化祭が終わった後、俺と加奈の関係は、どうなっていくのだろうか…。 加奈もまた、自分の部屋で、明日への期待と、そして俺への、言葉にできない複雑な想いを抱えながら、秋の夜空に浮かぶ月を見上げているのかもしれない。
澄み渡った秋の夜空には、無数の星が、まるでダイヤモンドダストのようにきらめいていた。それはまるで、俺たちの青春の、短くも輝かしい一瞬を、祝福してくれているかのようだった。物語は、いよいよ文化祭本番の朝へと、その時を刻み始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます