【文化祭編】第5話 嫉妬
十一月も中旬に差し掛かり、文化祭本番まであと十日を切った。校内は、まるで大きな祭りの前夜のような、独特の高揚感と、どこか焦りのようなピリピリとした空気が混在している。俺たち1年3組の教室も例外ではなく、放課後は、演劇「秋風のプレリュード」で使う大道具や小道具の制作で、段ボールや塗料の匂いが充満していた。床にはカラフルなペンキの染みが点々と付き、壁には進行スケジュールやデザイン画がびっしりと貼られている。その雑然とした空間は、しかし、クラス全員が同じ目標に向かって突き進んでいるという、心地よい熱気に満ち溢れていた。
監督である俺、雪村恒成は、この熱気の中心で、日々悪戦苦闘していた。各セクションの進捗を確認し、問題があれば調整し、役者たちの演技に指示を出す。最初は右も左も分からなかったが、最近では少しだけ、本当に少しだけだが、全体を見渡す余裕が出てきた気がする。
「恒成監督、ちょっといいかなー?」
俺が舞台装置の設計図とにらめっこしていると、背後から聞き慣れた、そして俺の心臓をいつも不規則に高鳴らせる声がした。振り返ると、脚本担当の西井加奈が、腕を組んで俺を見下ろしていた。
「ここのシーンの背景なんだけど、もう少しこう、主人公の孤独感が際立つような、冷たい色調にした方がいいんじゃないかなーって。恒成はどう思う?」
その口調は、からかい半分、真剣半分。脚本家としての彼女は、一切の妥協を許さない。
「…ああ、確かにそうだな。背景が明るすぎると、主人公の心情と合わないか…。謙介たちに伝えて、少し修正してもらおう」
「うん、その方がいいと思う。…まあ、監督さんがちゃんと気づいてくれないと、私たち脚本家がいくら良いものを書いても、宝の持ち腐れになっちゃうからね。しっかりしてよね、恒成」
そう言って、加奈は俺の頬を人差し指でつん、と突いてきた。その小さな接触だけで、俺の思考は数秒間停止する。こいつ、本当に俺の扱い方を熟知している…。
そんな熱気に満ちた準備期間の中、クラスの公認カップルである佐藤謙介と櫻井紗希の間に、ほんの少しだけ、秋風のように冷たい空気が流れていた。
きっかけは、大道具作りでの出来事だった。今回の俺たちの演劇は、ファンタジーということもあり、背景セットには相変わらず少し複雑でアーティスティックなデザインが求められていた。そこで、美術部に所属する隣のクラスの久多という子が、強力な助っとして参加してくれていたのだ。彼女は絵の才能が素晴らしく、謙介と二人で、舞台背景のメインとなる未来都市の風景画を熱心に描いていた。
「佐藤くん、ここのグラデーション、もう少し青を混ぜた方が、夜の深みが出ると思うな」
「なるほど! さすがだな、やっぱ専門は違うわ。じゃあ、こっちのビルの陰影は…」
専門的な話で楽しそうに盛り上がる謙介と、その女子生徒。彼女が時折、謙介に向ける眼差しには、尊敬以上の、どこか特別な感情が込められているように見えた。
その様子を、少し離れた場所で、小道具の制作をしていた紗希が、じっと見つめていた。その表情は、普段の明るい笑顔とは違い、どこか硬く、そして寂しげだった。
謙介のことは、信じている。彼が自分だけを好きでいてくれることも、分かっているつもりだ。でも、自分にはない才能を持つ女の子と、あんなに楽しそうに、親しげに話している謙介の姿を見ると、胸の奥がチクリと痛む。自分は、謙介の隣にいるのに相応しくないんじゃないか。彼が本当に楽しそうにしているのは、私といる時じゃなくて、ああやって共通の話題で盛り上がれる子といる時なんじゃないか…。そんなネガティブな思考が、紗希の心を黒い雲のように覆っていく。メンヘラ気質と揶揄されることもある彼女の不安は、こういう些細な出来事をきっかけに、簡単に芽を出してしまうのだ。
その日の稽古中、紗希は明らかに上の空だった。記録係としての仕事も、どこか手につかない様子で、時折ぼーっと謙介の方を見つめている。そんな紗希の異変に、謙介はすぐに気づいた。
稽古が終わり、みんなが片付けを始める中、謙介はそっと紗希の手を引いて、誰もいない教室の隅へと連れて行った。
「紗希、どうした? さっきから、なんか元気ないな。何かあったのか?」
謙介の優しい声に、紗希は俯いたまま、小さく首を横に振る。
「…別に。なんでも、ないよ」
その声は、明らかに強がっているのが分かった。
謙介は、困ったように少しだけ頭を掻くと、紗希の目線に合わせて屈み込み、その顔を優しく覗き込んだ。
「なんでもなくないだろ。俺、紗希のことなら、大体分かるんだぜ」
図星を突かれ、紗希の肩がびくりと震える。
「あー…あれか… 」
「…気にしてなんかないし…」
「嘘つくなよ。顔に書いてあるぞ」
謙介は、穏やかに、しかし真っ直ぐに紗希の瞳を見つめて言った。
「あいつは、ただの助っ人だよ。演劇を少しでも良いものにするために、力を貸してもらってるだけ。俺が話してたのも、全部絵のことだけだ。」
その誠実な言葉に、紗希の瞳から、こらえていた涙が一筋、ぽろりとこぼれ落ちた。
「…ごめん…ごめんね、謙介…。信じてなかったわけじゃ、ないんだけど…。でも、私にはない才能を持ってる子と、謙介がすごく楽しそうにしてるのを見たら、なんだか、不安になっちゃって…。私、謙介の隣にいて、いいのかなって…」
謙介は、そんな紗希を、優しく、しかし力強く抱きしめた。
「バーカ。何言ってんだよ。俺にとっては、紗希が一番すごいんだぜ? 俺が落ち込んでる時に、いっつも隣で笑わせてくれるだろ。俺が作ったメシ、世界一美味いって言ってくれるだろ。紗希がいてくれるだけで、俺は毎日頑張れるんだ。俺にとって、最高の才能は、紗希のその笑顔だよ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、紗希の心に深く、温かく染み渡った。
「…けんすけ…」
紗希は、謙介の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。それは、不安から解放された、安堵の涙だった。
俺と加奈は、そんな二人のやり取りを、少し離れた教室の入り口から、成り行きで見守ってしまっていた。
(…謙介、すげえな。俺だったら、あんな風に加奈の不安に気づいて、ちゃんとフォローしてやれるだろうか…)
俺は、謙介の男前な対応に、素直に感心していた。
「へえー、謙介くんも、なかなかやるじゃない。紗希のこと、ちゃんと分かってるんだねぇ」
隣で見ていた加奈が、感心したような、それでいてどこか面白そうな声で呟いた。そして、くるりと俺の方を向き、ニヤリと笑う。
「… 恒成は、どうなのかなー? もし私が、幸誠くんとかと、すっごく親しげに、楽しそうに話してたら、恒成はヤキモチとか、妬いたりしてくれるー?」
その質問は、まるで俺の心を見透かすような、悪魔の囁きだった。
「や、妬くわけないだろ! お前が誰と話そうが、俺には一切関係ないし!」
俺は、顔を真っ赤にしながら、全力でそれを否定する。
「本当にー? 関係ないんだー?」
加奈は、さらに俺の顔を覗き込んでくる。その瞳は、楽しそうにキラキラと輝いている。
「…そっか。残念だな。私は、恒成が私のためにヤキモチ妬いてくれたら、ちょっとだけ…いや、すっごく嬉しいのになって、思ってたんだけどなー」
その言葉は、冗談めかしてはいたが、どこか本心からの響きを持っていた。俺は、その言葉にどう返せばいいのか分からず、ただただ心臓を高鳴らせるしかなかった。
「ま、恒成がヤキモチ妬いてくれるようなこと、これからいーっぱいしてあげようかなー、なんてね!」
加奈はそう言って、満足そうに笑った。
一方、快斗はというと、美波先輩に招待状を渡してからというもの、一日中そわそわしっぱなしだった。「行くね」という返事はまだない。mineのトーク画面を、授業中も休み時間も、何度も何度も開いては、ため息をついている。
「大丈夫だって、快抱。先輩、きっと忙しいだけだよ」
俺たちがそう慰めても、彼の不安はなかなか晴れないようだった。その純粋で一途な想いが、どうか報われてほしいと、俺は心から願っていた。
幸誠と美沙希は、主演として、連日居残り稽古に励んでいた。二人は、役について深く語り合う中で、自然とプライベートな話もするようになっていた。
「西条さんは、どうしてこの役を引き受けようと思ったんだ?」
「…最初は、クラスのためという気持ちでしたわ。でも、今は違います。このヒロインの、愛する人のために全てを懸ける強さと、その裏にある儚さに、わたくし自身が強く惹かれているんです。…幸誠さんは、どうして?」
「俺も、似たようなものかもしれない。この主人公の、不器用だけど、誰よりも真っ直ぐな想いを、俺が演じきることで、誰かに…何かを伝えられたらいいなって思ったんだ」
二人の視線が交錯する。そこには、単なる共演者としてではない、お互いへの深い尊敬と、そして特別な感情が確かに芽生えていた。
秋の日は短い。稽古が終わる頃には、空はすっかり夕闇に包まれている。
クラス内での小さな摩擦も、謙介と紗希のように、お互いを理解し合うことで乗り越え、2年3組の団結力は、文化祭本番に向けて、さらに高まっていく。
俺は、監督として、友人たちの様々な想いを背負いながら、この舞台を絶対に成功させなければならないと、改めて気を引き締める。そして、隣で俺をからかい、支え、時には鋭い指摘で導いてくれる、西井加奈という存在の大きさを、日に日に強く感じていた。
文化祭まで、あと一週間。俺たちの青春の一ページを懸けた、熱い最後の追い込みが、始まろうとしていた。
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