第2話 誕生日

体育祭の熱狂から数日が過ぎ、学校には少しずつ日常が戻りつつあった。それでも、教室の空気はどこか浮き足立っていて、休み時間には体育祭の思い出話に花が咲く。俺、雪村恒成も、あの日のリレー優勝の興奮など体育祭の思い出に浸っていた。

そして今日、九月も終わりに近づいたその日は、俺の十七歳の誕生日だった。

特に誰かに吹聴するつもりもなかったが、朝、リビングに下りると、母さんが少しだけ豪華な朝食を用意してくれていて、「恒成、誕生日おめでとう。まあ、プレゼントは期待しないでね」と、いつもの調子で言われた。父さんからは「十七歳か、もうそんな歳か」と、しみじみとした声で肩を叩かれた。まあ、こんなもんだろう。

家を出て、秋晴れの空を見上げる。体育祭の日もこんな空だったな、なんて思いながら学校へ向かう。加奈は、俺の誕生日なんて覚えているだろうか。いや、あいつに限ってそんな殊勝なことがあるはずがない。もし覚えていたとしても、それをネタに一日中からかわれるのがオチだ。期待するだけ無駄だ、と自分に言い聞かせる。それでも、心のどこかで、ほんの少しだけ、何かを期待している自分がいるのも確かだった。

教室のドアを開けると、真っ先に謙介と遼が気づいて駆け寄ってきた。

「おー! 恒成! 今日誕生日じゃん! おめでとー!」

「マジかよ、主役登場だな! はい、これ俺から!」

遼はそう言って、コンビニで買ったらしい一番高いプリンを押し付けてきた。謙介からは、新作のラノベ。「これ、お前好きそうだろ?」とニヤリと笑う。こいつ、俺の好みをよく分かってる。

「サンキュ…」

照れくさいが、素直に嬉しい。幸誠や快斗も「雪村、誕生日おめでとう」「おめでとうございます」と、それぞれの言葉で祝ってくれた。紗希も謙介と一緒に「恒成くん、おめでとー!」と明るく声をかけてくれる。クラスの何人かからも祝福の言葉をもらい、俺の席にはささやかなお菓子が積み上がっていった。

…だが、そこに加奈の姿はなかった。

いつもなら俺より早く来ていることも多いのに、今日はまだ登校していないらしい。美沙希に「西井は?」と聞くと、「加奈さんでしたら、少し野暮用があるとかで、遅れていらっしゃるとのことですわ」と教えてくれた。そうか、遅れるのか…。俺は、内心の小さな落胆を悟られないように、「ふーん」とだけ返した。

午前中の授業は、どこか上の空だった。窓際の席から見える空は高く澄み渡り、体育祭の日を思い出させる。あの時の、加奈の真剣な表情、力強い走り、そして、俺を「恒成」と呼んだ声…。思い出すだけで、また心臓がドキドキしてくる。加奈の空席が、やけに大きく感じられた。

昼休み。俺が謙介たちと弁当を広げていると、ようやく教室のドアが開き、加奈がひょっこりと顔を出した。

「ごっめーん、みんな! ちょっと朝、家の猫が脱走しちゃってさー、捕まえるのに手間取っちゃった!」

悪びれる様子もなく、てへぺろ、とでも言いそうな表情で教室に入ってくる。流石に誕生日くらいは覚えてもらえてるか…?と思っていたがその日はいつものようにからかわれるようなこともなく避けられているかのような振る舞いだった。

そのまま帰りのホームルームのチャイムが鳴る。加奈も見かけていないし、今日は部活がないのでこれ以上学校にいることも出来ない。そう思っていながら憂鬱に玄関に足を踏み入れると、

「恒成、おかえりなさい」

それは聞き覚えのある声だった。加奈が先に家に居たのだ。そして続けて言う

「こっちに来てー」

「じゃじゃーん!」

「え…?」

俺は息をのむ。そこには美味しそうなオムライスと小鉢に乗った冷奴があったのだ。

「これ、覚えてる? 恒成が前に『練習か?』って、すっごい気にしてたやつ」

加奈は、少し意地悪そうに笑って言った。

「…ああ。確か、お世話になってる、す、好きな人に、だろ?」

俺は、少しだけ拗ねたような声で返す。あの時のモヤモヤした気持ちが蘇ってくる。

「うん、そうだよ」

加奈はにっこりと頷いた。

「だから、はい、これ。恒成に」

「えええええ!? 俺に!? なんでだよ! 」

俺は混乱して叫ぶ。どういうことだ?す、好きなか…?加奈が?学校のマドンナが?俺を?

「恒成はいつもいつも、私の楽しみにに根気強く付き合ってくれてるから、ある意味『お世話になってる人』でもあるかなーって。しかも恒成は私の大事な…」

「だ、大事な…?」

「幼馴染だからね!だからちゃーんと好きだよ!色んな意味でね」

「あ、え、あ、ありがとう…」

まっずい、顔が熱い。非常に顔が熱い。冷静な思考ができない。

俺は、加奈の言葉と、その悪戯が成功した子供のような、それでいてどこか照れくさそうな笑顔に、完全にノックアウトされた。顔が、首まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。一本取られた。完敗だ。でも、それ以上に、誕生日を覚えていてくれたこと、そしてこんな手の込んだサプライズを用意してくれていたことへの喜びが、胸いっぱいに込み上げてきた。

震える手でご飯を食べ、幸せを感じていた。

「どう?味は お口に合うと嬉しいんだけどなー」

加奈は、少しだけ期待とにやけがこもった瞳で俺を見つめる。

「美味しい…です」

「はい、凄く美味しいです」

「あははっ 照れちゃったか〜 恒成君はオムライス大好きだもんねー?」

「」

俺は恥ずかしすぎて何も言えずに加奈を見た。

「それでね、恒成」

加奈は、何かを思い出したように顔を上げた。

「誕生日のお祝い、これだけじゃつまらないでしょ? だから…今度のお休み、二人でどこか行かない? …例えば、映画とか。恒成、観たいって言ってたじゃない? 『全てを投げ出す』の最新作」

昔話していた、映画の約束。ちゃんと覚えていてくれたのか。

「…お、おう。行く。絶対行く」

俺は、食い気味に頷いていた。

夕暮れの教室。二人きりの空間に、いつもとは違う、温かくて、少しだけ甘い空気が流れていた。文化祭の準備も、もうすぐ本格的に始まる。誕生日という特別な一日を経て、俺と加奈の距離はまた一歩、確実に縮まった。この気持ちを、いつかちゃんと伝えられる日が来るのだろうか。

秋風が窓から吹き込み、加奈の髪を優しく揺らした。その横顔を見つめながら、俺は、この感情の名前を、もうはっきりと認識していた。

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