第6話 宣戦布告は図書館で

教室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めている。それもそのはず、来週に高校生活最初の定期テストが迫っているのだ。現代史の授業で配られた試験範囲表を眺めながら、俺、雪村恒成は早くも顔面蒼白になっていた。特に数学Ⅰの「二次関数」と、コミュニケーション英語の「関係代名詞」。…正直、ちんぷんかんぷんだ。

「うわ、範囲広すぎだろ…」

昼休み、俺が机に突っ伏して呻いていると、謙介が自分の弁当を広げながら同意する。

「だよなー。特に数学、中学の復習から怪しい俺にはキツいわ」

「英語も単語が全然覚えらんねえし…」

隣では遼も青い顔をしている。対照的に、幸誠は涼しい顔で参考書を読んでおり、快斗は「はあ…テスト終わるまで、一日一時間しかゲームできない…」と別の次元で嘆いていた。こいつらとの温度差がすごい。

放課後。俺は一人、誰もいなくなった教室で数学の問題集とにらめっこしていた。二次関数のグラフが、まるで理解不能な現代アートのように見える。うーん、全然わからん! 頭を抱えて唸っていると、不意に頭上から声がかかった。

「雪村くん、そんなに難しい顔しちゃって。眉間にシワ、寄ってるよ?」

顔を上げると、そこには鞄を肩にかけた加奈が、いたずらっぽく笑いながら立っていた。いつの間に…気配消してたのか?

「…数学が、全然分からなくて」

つい、弱音が口をついて出る。もうプライドとか言っていられない状況なのだ。

加奈は「ふーん」と俺の問題集を覗き込むと、ポンと手を打った。

「二次関数でしょ? なんなら、私が特別に教えてあげようか?」

その言い方には、若干、いやかなり恩着せがましい響きがあったが、背に腹は代えられない。

「…マジで?」

「マジで。ただし、ちゃんと私の言うこと聞くこと!」

ビシッと人差し指を立てる加奈。絶対何か裏がある…と思いつつも、俺はコクリと頷いた。

「…頼む」

頭を下げるのは癪だが、赤点だけは避けたい。

「よろしい。じゃあ、場所を変えよ〜?…図書館、行こっか」

加奈はそう言って、先に教室を出ていく。俺は慌てて荷物をまとめ、その後を追った。

境港市立図書館の学習スペースは、放課後ということもあって、ちらほらと他の高校生や利用者の姿があったが、全体的に静まり返っていた。俺たちは窓際の長机に向かい合って座る。窓の外には、午後の日差しを浴びて穏やかに輝く港の風景が見えた。

「えーっと、どこから分からないの? 問題集見せて」

加奈は俺の隣に椅子を引き寄せ、ノートを覗き込んできた。近い。シャンプーの良い香りがして、心臓が少しドキリとする。

「…あ、こんな基本的なとこから躓いてるの? しょうがないなあ、雪村くんは」

早速、チクリと嫌味を言われる。やっぱりこうなるのか!

「う、うるさい! 分からないから聞いてんだろ!」

俺は小声で反論する。

「はいはい。じゃあ、まずこの公式の成り立ちからね…」

しかし、いざ教え始めると、加奈の説明は驚くほど的確で分かりやすかった。難しい数式も、彼女が図解しながら説明してくれると、すんなり頭に入ってくる気がする。少しだけ、素直に感心してしまった。

…が、やはり加奈は加奈だった。

「…で、ここをこう代入して…って、雪村くん、聞いてる?」

「聞いてるよ!」

「もしかして、誰かの顔見てる?」

顔をぐっと近づけて覗き込んでくる。やめろ、近い!

「見てねーよ! 説明続けろ!」

顔が熱くなるのを感じながら、俺は必死に平静を装う。加奈は満足そうに「はいはい」と笑って説明を再開するが、時折嫌味やからかいを挟んでくるせいで、俺の集中力は何度も削がれた。

その後、比較的得意な現代文の話題になった時、俺はここぞとばかりに少しだけ得意げに解説してみせた。

「へえ、やるじゃん、雪村くん。国語は得意なんだ?」

加奈が珍しく素直に感心したような声を出す。よし、少しは見返したか!…と思ったのも束の間。

「でも、ここの筆者の心情の読み取りは、ちょっと甘いかなー? もっと多角的に見ないと」

あっさりと指摘され、俺の小さな優越感は霧散した。くそっ…。

一通り数学と現代文の勉強(?)が終わり、俺がぐったりと机に突っ伏した時、加奈が楽しそうな声で言った。

「ねえ、雪村くん」

「…なんだよ」

「せっかくだからさ、この定期テストで、私と勝負しない?」

「勝負?」

俺が顔を上げると、加奈は挑戦的な笑みを浮かべていた。

「そう。国数英理社の5教科合計点で勝負。点数が低かった方が、高かった方の言うことを、なーんでも一つ聞くっていうのはどう?」

…合計点!? それじゃ、数学と英語が壊滅的な俺が圧倒的に不利じゃないか!

「な…! ずるいぞそれ!」

「えー? 何が? 同じテスト受けるんだから公平でしょ? それとも、私に勝つ自信がないのかなー?」

加奈はわざとらしく肩をすくめて挑発してくる。

その態度に、俺の中の何かがカチンときた。不利なのは分かってる。でも、こいつにだけは、負けっぱなしで終わりたくない!

「…いいぜ! 受けて立つ!」

俺は勢いで宣言してしまった。

「ふふ、威勢がいいね。よろしい、契約成立ね」

加奈は満足そうに微笑むと、「じゃあ、お互い頑張りましょ」と軽くウインクした。

図書室を出て、夕暮れの港道を歩く。心地よい潮風が火照った顔を冷やしてくれる。加奈との無謀な勝負を受けてしまったことを少し後悔しつつも、同時に「絶対に負けられない」という妙な闘志が湧き上がってくるのを感じていた。

まずは、赤点回避。そして、打倒、西井加奈…!

…いや待て、もし負けたら、俺は加奈の言うことを何でも聞かないといけないのか? 一体、何を要求されるんだ…?

波乱含みのテスト期間が、今、幕を開けた。

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