第41話 記録の逆流域 ― 過去が未来を観測する場所

 砂海の端を越えると、空気がひんやりと反転した。音の向きが逆だ。足音が前ではなく“背中側”で鳴る。そこが“記録の逆流域”。

 ノアが低く告げる。《警告:この領域では、過去の記録が未来を観測し、結果を書き換える可能性があります》

「記録が……未来を見る?」リィナが小さく息をのむ。

「つまり、日記が持ち主の“明日”を決めるみたいなものだ」俺は周囲を見渡した。

 谷一帯に、黒い柱が立っている。近づくと表面は紙束のような層で、かすかな文字列が流れていた。読み上げる声が遅れて追いかけてくる。——過去が未来を読み上げている。

 ナギが笛を握る。「音も遅れてる。僕が吹くより先に、”結果の残響”が返ってくる」

《観測順序の逆転を確認。——演奏は“事後的に成立”します》とノア。

「難題だね」ローウェンが苦笑し、風を試す。「風も先に吹き終わる。後から頬を撫でてくる」

 中央の柱に刻印があった。〈記録は原因を渇望する〉。次いで、もう一行が浮かぶ。〈原因になりたいなら、結果を抱け〉

「逆説だな」俺は手のひらを当てる。冷たい。だが脈がある。柱の内側に、誰かの“日付”が灯った。——“神谷レイジ”。

 胸の奥で拍がずれる。柱が俺の“今日”を読み上げ始めた。〈レイジはここで判断を誤る〉〈チームは分裂する〉——声が遅れて届くほどに、現実がその筋書きへ傾いていく。

「やめろ」

《書き換えは進行中。対抗には“未来の意志”の固定が必要です》とノア。

「固定?」

《——結果を先に決め、そこに因果を落とし込む》

 俺は息を整えた。「結果を決める。俺たちは別れない。ここで“歌”を残す」

「歌?」ナギが目を瞬く。

「ああ。日記に対する返歌だ。書き換えられる文の外で、音を刻む」

 リィナが頷く。「わたし、視える。未来の譜面の断片」

 ローウェンが鐘を静かに持ち上げる。「風の終わりから始める」

 ナギは笛を逆手に構えた。「僕は“余韻”から吹く」

 俺は黒を解き、拍を最後から数えた。——終わり、終わり、そして始まり。

 演奏は“事後的”に始まった。最初に谷全体に余韻が満ち、そこへ逆行する旋律が糸を通す。鐘が風の尾を結び、リィナの瞳が未来の小節を指し示す。俺の黒が、四人の音の“結果”を先に確定させ、柱へ押し込んだ。

 黒い柱の文字が滲み、行が逆流する。〈レイジは判断を正す〉〈四人は輪になる〉〈ここに歌が残る〉。書き換えは“歌の側”へ移った。

《観測更新。因果の向き、安定化》ノアの声が澄む。

 その時、最奥の柱が裂け、薄い結晶が現れた。中心に細い線、端に刻印——“NOIR_REBOOT//04”。

「また……ノワールの断片」リィナが掌に受けると、結晶の内側に映像が走った。若い研究者の横顔。——NOIR。

 彼は鏡越しに自分に向けて書く。〈記録は未来を縛る。だから、私は“歌”を残した。誰かが歌えば、結果は解放される〉

「ノワール、あなた……」

《断片はここで切れています》ノアが告げる。《しかし、意図は明白。——記録の対抗は、共鳴》

「書き換えじゃない。書き加えるんだ」俺は柱に手を置く。黒い層が柔らかく震え、四人の旋律が紙の間を満たした。

 やがて文字の流れが静まった。柱の上部に新たな一行が灯る。〈この谷に歌があった。結果から始まる歌が〉

 風が“後から”頬を撫で、ナギが笑う。「不思議だね。終わってから始める演奏」

「でも、心地いい」リィナが目を細める。「結果が、優しく原因になっていく」

「これなら、世界は壊れない」ローウェンが鐘を肩に掛けた。

 谷を出ようとした時、足元の砂が微かに振動した。遠くの地平から“影”が立ち上がる。柱とは違う、細い人影。輪郭が流体のように揺れている。

《新規観測者の進入を検知。ラベル:NOIR_REBOOT//05》

「また来るのか」

《はい。次は“記録の海”》ノアが座標を示す。

 振り返ると、黒い柱の一つに細い書き込みが残っていた。〈未来は聴かれることを望む〉

 俺たちは頷き合い、逆風の中を歩き出した。背中側で、足音が確かに響く。——結果から始まる拍を、これからも刻むために。

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