第15話 黒き力の制御訓練 ― 内なる声 ―

 中央ギルド地下の抑制訓練区画は、音を吸い込む白で満たされていた。壁は一様で、時計も窓もない。時間の感覚を奪うための設計だという。俺は簡易スーツに着替え、胸の位置に抑制端子を装着した。黒い魔石が皮膚の下で、ゆっくりと応えた。

「監視系、起動。心拍、安定。魔力循環、ベース値に遷移」

 オペレーターの声は乾いていて、正確だ。ガラスの向こうにセリアが立ち、端末を片手に頷く。氷の色の瞳だけがこちらを見ていた。

「神谷、最初は呼吸の同期から入る。三拍吸って、二拍止める。吐くときは四拍。黒の脈動に引きずられないこと」

「了解」

 目を閉じ、肺の奥に空気を落とす。心拍がひとつ重く打ち、胸の端子が微弱な振動を返す。黒い波が、浅い海のうねりのように寄せては返す。怖さはない。だが、油断すれば足首を掬われる——そんな感覚。

「一次抑制、クリア。二次同調を開始」

 額とこめかみに神経同調装置が装着された。微細電流が皮質を撫で、視界の内側に薄い幕が降りる。ガラス越しのセリアが小さく合図し、モニターに俺の心象世界が映し出される。暗い回廊、遠くで水の滴る音。

 回廊の先に、影がひとつあった。最初は曖昧だった輪郭が、徐々に人の形を取る。俺と同じ背丈、同じ構え。顔だけが、黒い。

『なぜ拒む』

 声ではない振動が、胸腔に触れた。俺は足を止め、わざと呼吸を整えた。

「拒んでいない。選んでいるだけだ」

『選ぶことは、遅れること』

「遅れても、踏み外すよりいい」

 影は一歩、近づく。俺と同じ足幅、同じ重心。鏡写しだ。黒い面の奥で、何かが瞬いた。

『恐れているのは力ではない。自分だ』

「そうだ。だから確かめに来た」

『ならば支配させろ。お前は歩き、私は世界を読む』

「共存だ。支配も、服従もしない」

 影の肩がわずかに揺れた。笑ったのかもしれない。足元に黒い水面が広がり、波紋が輪を描いて消える。胸の奥で黒の鼓動が強まる。外の世界でアラームが一瞬鳴り、すぐに黙った。

「セリア、数値は?」モニター越しに問いかける。

『同調指数、上昇中。暴走域には入っていない。呼吸を続けて』

「了解」

 影は手を差し出した。触れれば、戻れなくなるかもしれない。だがここであとずさりすれば、きっと次はもっと深く引かれる。俺は掌を上に向け、そっと触れた。冷たさではなかった。温度のない圧力。

 次の瞬間、心象の回廊に光が差し込んだ。天井のない空、風の匂い。黒は全てを塗り潰すのではなく、輪郭を濃くした。見落としていた細部が浮き上がり、足場が固まる。俺は影の手を離し、ひとつ息を吐く。

『契約ではない。覚悟の配分だ』

「それでいい」

 現実の視界が戻る。端子の振動が静まり、心拍が一定に落ちる。ガラスの向こうでセリアが短く頷いた。

「二次同調、安定。抑制プロトコルβの学習を開始する」

 オペレーターが新たな装置を指し示す。手首にリング、喉元に薄いチョーカー。過負荷時に自動で遮断をかける簡易抑制だ。俺は装着し、短剣の握りを確かめた。

「負荷テストに移行。外的刺激、レベル2から」

 床に展開した淡い光が、幻影の標的を形作る。影の騎士、獣鬼、そして見知らぬ人影。呼吸を崩さず、最小限で刃を運ぶ。黒は必要なときだけ濃く、不要なときは薄い。制御は“押さえ込む”のではなく、“流れを変える”。

「反応良好。——レベル3」

 標的が一斉に突進してくる。足裏で床を掴み、視線で先を踏む。肩、喉、手首。刃の角度が自然に決まり、無駄が落ちる。黒が過剰に膨らもうとした瞬間、喉のチョーカーが微弱に鳴いた。逸れる、戻る。

 汗が首筋を伝い落ち、耳の中で自分の呼吸音だけが大きくなる。切り結び、抜け、収める。

「テスト終了。——よくやった、神谷」

 セリアの声がガラス越しに届いた。珍しく、ほんのわずかに熱があった。

 端末と装置を外し、椅子に腰を下ろす。黒の脈動は静かで、遠い。俺は水を飲み、セリアの方を向いた。

「外部干渉の痕跡が出たな」

「気づいたか」

 セリアが端末を傾ける。波形の一部に、綺麗すぎる曲線が重なっている。生体のゆらぎでは説明がつかない。

「誰かが、こっちを叩いた。観測か、誘導か」

「発信源は特定できない。内部網にはログがない」

「つまり——外か、上か」

「そうだ」

 短い沈黙。セリアは端末を閉じ、俺を見た。

「覚悟の配分という言葉、記録に残した。私はそれを尊重する」

「助かる」

「だが、次に来るときは、もっと乱暴だろう」

「なら、その時はもっと静かに受け止める」

 セリアの口元が、気づくか気づかないかの幅で揺れた。笑いかけたのかもしれない。

 訓練を終えた夜、俺は一人で中央の街を歩いた。高架の軌道が幾重にも交差し、路面に光の川を落とす。風は冷たく、遠くの塔が星を縫う。胸の奥の黒は、潮の満ち引きのように静かだった。

 横断歩道の端で足を止めたとき、ふと気づく。街灯に伸びる影が、俺の動きより一拍、早く揺れた。違和感は一瞬で消え、影はただの影に戻る。

「……気のせい、じゃないな」

 空を仰ぐ。塔の合間に切り取られた四角い夜。次に来る波は、きっと高い。けれど、足はもう震えなかった。歩幅は自然と広くなる。黒は、隣で歩いていた。

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