ZIGAEXPERIENTIA

みんと

第1話 他人を傷つけてはいけません


 俺の母親は、俺に呪いをかけて死んだ。


 『他人を傷つけてはいけない』


 その言葉が、俺という人間を定義する、唯一の枷だ。


 がらんどうの部屋で、俺は真新しい制服の袖に腕を通す。

 最低限の家具しかない、色のない部屋。

 鏡に映る男は、光の宿らない空っぽの目をしていた。

 神凪空かんなぎから

 それが、俺の名前。

 

 机の上に置かれた一枚だけの色褪せた写真に、一瞬だけ視線を落とす。

 すぐに逸らした。

 感傷に浸るほどの感情も、とうの昔に枯れ果てていた。


 今日から俺が通うのは、常盤学園。

 ZIGA――と呼ばれる自我の力――が全てを決めるとされる、この世界の頂点に立つエリート育成機関。

 そんな場所に、俺が行きたいはずもなかった。

 だが、生きるためには金が必要だった。

 天涯孤独の俺にとって、この学園が国から提供する奨学金と、困窮家庭向けの生活費補助だけが、唯一の生命線だった。


 最新鋭のモノレールが、咲き誇る桜並木の上を滑っていく。

 車窓から見える学園都市「桜木町」は、希望に満ちた新入生たちで溢れていた。

 誰もが、自らの「自我」を証明し、最強になるのだと目を輝かせている。


 馬鹿げている。

 人の価値が、自我などというひどく傲慢で、利己的なもので決まる世界。

 俺には、それがひどく滑稽なものに思えた。



 ◆

 


 最新鋭のモノレールは、桜の花びらが舞う空中回廊を滑るように進んでいく。

 未来と希望を詰め込んだ箱舟。

 新入生たちの、浮かされたような声が車内に満ちていた。

 俺はドアの近くに立ち、流れていく景色と同じように、彼らの姿をただ、観測していた。


 その中で、一人だけ、異質な空気を放つ女がいた。

 他の誰とも馴れ合わず、ただ真っ直ぐに前を見据えている。

 騒がしい車内にいながら、彼女の周りだけが、シンと静まり返っているかのようだった。

 俺と同じ、常盤学園の制服。

 だが、俺とも、他の誰とも違う。

 確固たる『自我』を持つ者特有の、揺るぎない存在感があった。


 その時だった。

 車両の連結部近くで、小さな騒ぎが起きたのは。


「おい、二年坊主。ポイント、足りてねえみたいだなあ?」

「俺たちが貸してやろうか? もちろん、トイチでな」


 体格のいい上級生数人が、一人の気弱そうな新入生を壁際に追い詰めている。

 あからさまなカツアゲ。

 よくある光景だ。

 ポイント……?ってのがなんだかはよくわからないが……。

 

 そして、俺は、その誰よりも近くにいた。

 手を伸ばせば、届く距離に。


 だが、俺は動かない。

 介入すれば、暴力は避けられない。

 正直、あの程度の体格の相手なら俺でもなんとかなる自信はあった。

 だが……。

 

 たとえ正当防衛であろうと、結果として俺は『他人を傷つける』ことになる。

 それは、俺のルールに反する。

 俺という人間を定義する、唯一のルールに。


 俺は、意識を切り、何も見ていないかのように、空虚な目で窓の外を眺め続けた。

 行動を起す必要はない。

 俺には、関係のないことだ。


 チッ、と。

 小さく、しかし鋭い舌打ちが、耳に届いた。

 見れば、先程の女が、氷のように冷たい視線で、俺を一瞥していた。

 彼女は、ため息一つつき、人混みをかき分けて、上級生たちの前へと進み出る。


「――失せろ。見苦しい」


 たった、それだけ。

 ZIGAを使ったわけではない。

 もちろん、入学前の俺たち新一年生にはまだZIGAは発現していないし、使えない。

 

 彼女が繰り出したのは、ただ、剣道で鍛え上げられたであろう、隙のない佇まいと、鋭い一瞥。

 それだけで、上級生たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直し、バツが悪そうに散っていった。


 やがて、モノレールが減速し、学園のある駅へと滑り込む。

 俺がホームに降り立った、その時だった。

 背後から、声がかけられた。


「おい、貴様」


 振り返ると、あの女が立っていた。


「なぜ一番近くにいたのに動かなかった」

 

 それは、純粋な疑問というより、詰問に近かった。

 やれやれ……面倒なのに絡まれたな……。

 

「……それで相手も傷つくと思ったからだ。俺はアンタみたいに目線だけで人を退散させられるほどの人間じゃない」

 

 俺は、事実だけを答える。


「それでも……誰かを傷つけてでも、行動すべき時がある」

 

 彼女の言葉は、まるで俺の生き方そのものを否定するようだった。

 そういわれても正直……。

 

「俺には、わからない」

「……もし、貴様の大事な人間を助けるために、誰かを傷つけなければならないときがきたとしたら……貴様は動くのか? 動けるのか?」


 大事な、人間。

 その言葉の意味を、俺は知らない。

 俺の心は、ずっと昔から空っぽだったからだ。


「……俺には、そんな大切な人間はいない」


 俺の答えに、彼女は呆れたような、あるいは憐れむような、複雑な表情を浮かべた。

 そして、何も言わずに俺に背を向け、入学式の会場へと、真っ直ぐに歩いていく。

 俺は、その場に一人、立ち尽くしていた。

 彼女の言う「正しさ」が、俺には、分からなかった。



 ◆


 

 講堂で行われた入学式で、理事長が壇上から熱弁を振るっていた。

 

「諸君! この常盤学園では、君たちの『自我』こそが唯一無二の通貨であり、力である! 己を磨き、己を証明し、世界の頂点を目指したまえ!」


 まるでカルト宗教の教祖だな。

 鳴り響く拍手の中、俺は一人、冷めた頭でそんなことを考えていた。


 思い出していたのは、数週間前の入学試験のことだ。

 脳波を測定するような機械に繋がれ、「自我測定」を受けた。

 結果モニターに表示された数値は、エラーかと見紛うほどに低いものだった。


 ――0.02。


 試験官が驚き、そして憐れむような目を俺に向けていたのを覚えている。

 これで落ちた。

 これからの生活どうしようという不安と、やっぱり面倒な学校に通わずに済むという安堵があった。


 だが後日、俺の元に届いたのは、一通の「合格通知」だった。

 まあ、理由などどうでもいい。

 これで、とりあえず俺は『生きて』いける。



 ◆

 

 

 入学式が終わり、新入生たちは一斉にクラス分けの掲示板へと殺到する。

 巨大なデジタルボードに、無数の名前が映し出されていた。

 Aクラスのボードの前は、ひときわ大きな歓声に包まれている。

 エリートとして、輝かしい学園生活を約束された者たち。

 俺は人混みを避け、一番端の、誰にも注目されない掲示板へと向かった。


 そこに表示された「Fクラス」の名簿。

 一番下にあったのは、予想通りの文字列だった。


 神凪空。


 つまり俺が最下位ってわけか。


「……まあ、当然か」


 何の感慨もなく呟き、俺はその場を離れた。



 ◆


 

 Fクラスの教室は、Aクラスなどがあるメイン校舎から遠く離れた、古びた別棟にあった。

 薄暗く、埃っぽい廊下を、俺は一人で歩く。

 隔離場所。あるいは、ゴミ捨て場。

 それが、この学園におけるFクラスの扱いらしかった。


 教室のプレートの前で、一度だけ足を止める。

 ここが、俺がこれから一年間を過ごす場所。

 俺の、戦場だ。


 ゆっくりと、扉に手をかける。

 そして、開いた。


 その瞬間、中にあった喧騒が一瞬だけ止み、いくつかの視線が俺に突き刺さる。


 窓際で一人、刀のように鋭い視線で外を眺める女がいた。

 さっきのモノレールでの女だ。

 まさか同じクラスだとは……。

 あれだけ強い『自我』を感じさせる行動をとる人物だ……それがなぜこのFクラスに……?

 まあ、なんでもいいが……かかわるのはよそう。

 

 ほかにも……。

 机に足を乗せ、喧嘩を売るようにこちらを睨みつける、虹色の髪の男がいた。

 派手な化粧でスマホをいじり、大きな欠伸を噛み殺すギャルがいた。

 けたたましいイビキをかいて机に突伏している、雷のピアスをした男がいた。

 他にも、一癖も二癖もありそうな連中が、思い思いの格好でそこにいた。


 ――なるほど。

 

 おもしろい。

 予想以上の、クズ揃いだ。

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