(三)
「あんたと会うのは初めてだと思うんだが、何か俺に話したい事が?」
「その……失礼ですが、提轄のお名前を伺っても?」
「俺の姓は
「魯提轄、俺の姓は史、名は進。華州の華陰県から来た者です。実は、魯提轄が経略府にお勤めと聞いて、どうしても伺いたいことがありまして……その、人を、探しているんです。俺の武術の師匠で、姓は王、名は進、かつては東京開封で八十万禁軍の教頭を務めていた方。この方が、ここの経略府におられるのではないかと」
「待て!」
さすがの史進も、その大声にはびくりと肩を揺らした。まわりの客たちも何事かとおっかなびっくりこちらに視線をよこしているのがわかる。
「華陰県……史進……?」
大声を出した当の本人は、もじゃもじゃと顎髭をひねくり丸い黒目を泳がしていたかと思うと、分厚く大きな両手をばちりと打ち鳴らした。
「兄さん、あんたもしかして……史家村の庄屋をやっていた、あの史進か? 九紋龍って二つ名の?」
「あ、ああ、いかにも」
「あいや、これはなんてことだ! あんたの名を知らん好漢はいないぞ。まさかこんなところであんたに会えるとは!」
「ろ、魯提轄、どうかお座りください」
再び立ち上がり、目を輝かせながら拱手を繰り返す魯達を慌てて座らせ、史進は彼の椀と自分の椀にたっぷりと茶を注いだ。
急いで茶を煽ったのは、どうにもほころんでしまう口元を隠すためでもあった――まさか、こんなところに、己の名前を聞いて目を輝かせる者がいるとは。
義に生きる己の名を江湖に知らしめようと武芸に励み、九紋龍の二つ名は少華山の頭領たちさえも恐れさせた。とは言え、こうして見知らぬ土地に住む者の耳にまで名が届いているのを目の当たりにすると、胸が震えるのを抑えきれない。しかも魯達のような、いかにも豪傑然とした男に知られているとなれば、なおさらだ。
「なんと、史大郎ともあろう男がこんなところで茶をすすっていてはいかん。よし、酒を飲みに行くぞ! あんたに一献捧げたい」
「ま、待ってください、提轄。あんたと盃を交わせるのは嬉しいが、その前にできれば、さっきの答えを教えてほしい」
「さっきの答え?」
「王進という方をご存じないかって……」
「ああ! すまんすまん、その話だったな」
きょとん、としたかと思えば心底申し訳なさそうに眉尻を下げる、その爛漫さに史進はくすりと笑った。
「その王進教頭ってのは、もしや、東京で高俅の糞野郎に疎まれ追われた、あの王進殿のことか?」
「まさにその人だ! ご存じで?」
「俺もあの方の名は知ってるが、残念ながらここにはおらんぞ」
あからさまに肩を落とした史進を見て、肉付きのいい指に髭を絡め、魯達が唸る。
「確か今は、延安府経略使の种老公のもとで仕官していると聞いた。延安府に行きゃ会えるはずだ、そうがっかりするな」
「実は、延安府にいるっていうのは俺も知っていたんだ。ここは、延安府から遠いのか?」
髭を弄う魯達の手が、ぴたりと止まった。
「……史進、ここで経略使をやってる小种公殿は种老公殿の倅だが、この渭州は延安府からは随分遠いぞ。延安府は華陰の北、ここは華陰の西だ」
「なんだ、そうなのか! ひたすら華陰からまっすぐに来たんだ。なんとなく地図に一本道の覚えはあったんだが、反対に進んでいたんだな」
「ハハ、豪快なやつだ!」
どうしようもない己の失態に膝を打ってひとしきり笑いあったあと、史進は立ち上がり荷物を背負いなおした。
「そうとなれば、また日を改めて延安府を目指せばいいだけだ。魯提轄、今日はぜひ、盃を酌み交わさせてください」
「もちろんだ。その前に……その『魯提轄』ってのはやめてくれんか。どうにも居心地が悪い。もっと気楽に話してくれ」
「わかったよ、魯兄貴」
「それでいい。おい、小二! この人の茶代もまとめて俺が後から払うからな」
給仕の返事も聞かぬうちに、史進は魯達に腕を引かれ、再び渭州の街中に舞い戻った。まるで初めて会った気がしないほど気さくな大男と肩を組み、この街の名物の話などしながらしばらく歩いていると、何やら通りに溢れんばかりの人だかりができている。
「兄貴、ここはずいぶん混みあっているね。何かあるのか?」
「なんだ、気になるのか? 少し見ていくとしよう。やいお前ら、道をあけろ!」
半ば強引に人ごみをかき分ける魯達に付いていくと、そのど真ん中にいたのは、十本ほどの棒を手にした逞しい男だった。彼の足元には膏薬を盛った皿が十枚並んでおり、その一つ一つに値札が挟んである。
「ほう、この薬売りの棒術は、こんなに人を集めるほどすごいのか」
疑わしげな魯達の言葉も当然だったろう。
男は体つきこそ逞しいが、菱のように骨ばった顔に浮かべた笑みはどこか気弱げで、凄腕の棒術使いとうよりはお人良しの薬売りと言う肩書のほうがよく似合う。
だが史進は、この男がただの陽気な良民ではないことをよく知っていた。
「
「ん? あれ、お前、史進じゃないか!」
のしのしと姿を現した巨漢に戸惑い、顔を青くしていた男は、史進の声にはっと視線をあげ、一転して晴れやかで人の好い笑顔を浮かべ駆け寄ってきた。その笑顔は、かつて故郷で史家の屋敷の門を叩いた時と変わっていないように見える。
「しばらくぶりだなぁ! なんでこんなところにいるんだ?」
「まあ、いろいろあってね……。師匠、知っているかもしれないが、この方は提轄の魯達殿。魯兄貴、この人の名は李忠。以前、故郷で俺に棒術を教えてくれた師匠の一人でね。江湖では『
「ハハ、なんだ、ただの薬売りかと思ったら、史大郎のお師匠さんだったとはな。そりゃあ人目も集まってくるわけだ」
「い、いてて」
魯達の分厚い掌でばしりと肩を叩かれれば、さしもの李忠もその身をふらつかせるほかない。
「ここで会ったのも何かの縁、あんたも一緒に一献やろうじゃないか」
「は、はあ……提轄殿の申し出はありがたいが、今は仕事の最中でして。この膏薬を売って銭をもらわなきゃ、ここを離れられませんよ。もう少しだけ待ってくれませんかね」
「何をごちゃごちゃと。待ってなどいられるものか、行くと決めたらすぐに行くんだ」
「そうは言っても、これで俺は飯を食っているんです。どうかお先に飲んでいてください。史進、提轄殿を先にお連れしてくれ」
「まったく分からんやつだ!」
魯達は李忠の手から棒を一本取り上げると、それをぐいと天にかざし、野次馬たちを一喝した。
「やい、貴様ら、こんなところで油を売っていないで、とっとと仕事に戻り両親に孝行せんか! さっさと行かねば痛い目を見るぞ」
「あ、おい、待ってくれ……あぁ……」
魯提轄の癇癪玉が爆発するとどうなるか、渭州の民はよくよく分かっているらしい。蜘蛛の子を散らすように逃げていく野次馬たちの背に伸ばされた李忠の手は、力なく元の場所へと垂れ下がった。
「まったく、提轄殿は短気なんだからなあ」
「つべこべ言っていないで、それ、自分の荷物を担がんか」
ため息をつきながら商売道具をまとめる李忠に、史進はそっと耳打ちした。
「師匠、あとで俺も一緒に膏薬を売りさばきますから」
「ああ、そりゃいい考えだ。お前なら、その顔だけで客を集めることができるだろうさ」
「……どういうことだ?」
史進は己の顔をぺろりと撫でると、魯達がまた癇癪を起こす前にと李忠の荷造りをせっせと手伝うのだった。
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