(五)

 その後幾日か、王進は母の看病をしながら史家の世話になった。

 夜は史の大旦那と酒を酌み交わし、今年は何の作物が豊作だとか、昨今の政はどうだとか、あれこれと気ままに語りあった。

 大旦那は薄々、王進がただの落ちぶれた商売人ではないことに勘付いていたと見えるが、深く詮索することもなく気楽に接してくれるのだった。

 そうこうするうちに、ようやく母の病も落ち着きを見せ、さてさすがにこれ以上世話になるわけにはゆくまいと王進が荷物を纏めたその日の朝は、遥か東、都のほうの空だけがやけに赤く燃えていた。

 その奇妙な空模様に心の片隅をざわめかせながらも、馬の様子はどうかと厩を覗き込んだ王進は、東京から連れてきた己の愛馬がじっと何かを見つめていることに気が付いた。

 「なんだ、すっかりここが気に入ったか?」

 艶を取り戻した黒い毛並みに指を這わせながら彼女の視線を追った王進は、一瞬呆れた笑い声をあげ、そしてすぐに得心がいって大きく頷いた。

 「馬にも人の男の美醜がわかるか。いや、面構えだけに惚れたわけでもあるまい?」

 彼は、ひとつの嵐だった。

 畑仕事で出来上がったとは到底思えぬ均整のとれた肉体を、己の手にすら持て余しながら踊る、暴風だった。

 両手にしかと握った棒で目に見えぬ敵を薙ぎ倒すたび、半端に伸ばした蓬髪がその軌跡を宙に描く。滴る汗すら輝きを添える日焼けした象牙色の裸身には、今にも彼の起こす嵐の狭間から咆哮をあげんばかりの青龍が刻まれている。すっきりとした一文字の眉の下では若き暴れ龍の不遜を宿した瞳が煌めき、銀の皿の如く品の良い顔立ちに一片の粗野を添えていた。

 (なるほど、若いな)

 年の頃は十八、九といったところか。龍を宿した青年の棒術が繰り出す嵐はまだその進路を定めかね、一つ間違えれば己をも呑み込んでしまう未熟さがあった。

 「なかなか筋の良い使い手のようだが、惜しいことに隙がある。このままでは、真の使い手には敵うまい」

 「なんだと?」

 吹き荒れていた風は、ぴたりと止んだ。

 声に出すつもりはなかったが、言ってやりたい気もあった。つい一月前までは、彼のように、ただ突き上げる衝動に任せて棒を振り回す若者たちへ槍棒の道を示していた。その日々の余韻が、そうさせたのかもしれない。

 頬を流れ落ちる汗を拭いもせず、己をたった一言で幻の戦場から現へと引き戻した男を睨みつける美丈夫を、王進は笑みすら浮かべて見つめ返した。

 「おい、あんた、いったい何様だ。俺の棒術を笑っているのか? よくも馬鹿にしてくれたな! 俺は何人もの有名な師について棒術を習ったんだ。お前が誰かは知らんが、まさか俺と勝負して、勝てるとでも? はっ、笑っちまうのはこっちの方だ」

 怒りに任せて一息に王進を挑発した青年の顔は生意気な自信に満ちているが、その裏には世間を知らぬが故の純粋が見て取れる。誰に師事したのかは知らないが、こんな片田舎の上手な棒使いで終わらせるには、あまりに惜しい。

 「こら、大郎! お客人に対して何という口のきき方をするか」

 青年の大声を聞きつけたか、はたまたこれはいい余興と集まり始めた野次馬に気が付いたか、肩をいからせて現れた史の大旦那の怒鳴り声にも、青年は臆することなく王進の方を顎でしゃくった。

 「お客人だか何だか知らんが、この男は俺の棒術を笑ったんだ。黙ってなんかいられないよ」

 「ほう……」

 大旦那が、ゆっくりと瞬く。

 「張殿は、棒術の心得がおありなのですかな?」

 「ええ、少しばかり嗜んでおりまして。ところで、こちらの若い御方は?」

 「恥ずかしながら、私の倅です」

 なるほど、まじまじ見れば、大旦那の老いてなお精悍な顔立ちは、血気盛んな目の前の青年とよく似ている。

 「こちらの若旦那となれば、ここ数日世話になった恩を返さねばなりますまい。もしお望みとあらば、非才の身ではございますが、私が真の棒術をご指南いたしたい」

 「なんとありがたい御言葉! ほら、史進ししん、師匠に拝礼をするのだ」

 史進、と呼ばれた青年はしかし、喜ぶ父の顔を信じられないと言うように凝視する。

 「父さん、なんでこんな見ず知らずのやつが、真の棒術を教えられると思うんだ? ただのはったりに決まってる。いっそこいつと勝負をして、こいつが勝てば師匠と認めてやるよ。どうだ? 来いよ、男だろう!」

 白い歯を見せ、得意げに笑いながら棒を振り回す史進の姿に、禁軍で育て上げてきた弟子たちのひたむきな姿が重なる。

 「張殿、不肖の息子ではありますが、どうか気を悪くせず、一度手合わせをお願いできませぬか」

 「だが、若旦那に恥をかかせては、ご恩返しどころではなくなってしまいましょう」

 「はっはっは、これはこれは……なに、かまわんのです。一度痛い目に合わねばあれも分からぬのでしょう。手足をへし折るくらいのつもりでお願いいたします」

 「そこまで仰るのなら、一つ、若旦那の棒術、試させていただきますぞ」

 少年のように目を輝かせる大旦那の手から棒を受け取り、王進は史進の目の前に立った。

 真正面で相対すれば、肌を震わせるほどの熱気が若い体から立ち上っているのがわかり、知らず棒を握る手に力がこもる。こんなに胸の内に熱いものが湧き上がるのは、久しぶりだ。

 「後悔……するなよ!」

 暴風のように迫りくる史進の棒はしかし、その性質故か、あまりにも真直ぐに過ぎた。

 棒の先で地を擦りながら後退する王進を逃がすまいと追いすがる史進の棒が喉元を突くかと思われたその一瞬で、左手にくるりと身を翻す。

 虚をつかれた史進の体が前に泳いだ隙をつき、無防備な脇腹めがけて棒を打ちおろし、史進の棒がそれを間一髪で受け止め――

 「なっ……!」

 打ちおろすと見せかけた棒を目にもとまらぬ速さで手元に引き戻し、息つく間も与えずに龍を飼う若者の懐に突きを入れ、腰をひねり腕をしならせ渾身の力で跳ね上げた棒が史進の棒を彼方へ弾き飛ばし、そして風にあおられた柳の如く軽々と、史進の体は仰向けに地に投げ出された。

 「史進殿!」

 史家の若旦那の力強い棒術に歓声をあげていた使用人たちも、今や呆気にとられて沈黙している。このままでは史進の面目丸つぶれと、王進は慌てて倒れこむ若者に駆け寄り助け起こした。

 「手合わせとは言え、とんだ失礼をいたしました」

 「あ……」

 呆けたように天を仰いでいた青年は、しかし、背を支える王進の腕を唐突に掴んだかと思うと、くっきりとした瞳にはじけるような輝きをのせ、満面に爽快な笑顔を浮かべた。

 「なんてことだ、師匠!」

 菓子をもらった子どものようにはしゃぐ声から、先程までの傲岸不遜な色は消え去った。

 生まれたての龍のように勢いよく跳ね起きた史進は、側から床机を引き寄せると王進をなかば強引にそこに座らせ、大地と一体にでもなったかのようにがばりと平伏する。

 「俺はこれまで何人もの師に稽古をつけてもらったが、貴方のような真の使い手は一人もいなかった。師匠、どうか今からは、師匠と呼ばせてください。そして俺に、どんな豪傑にも打ち勝つ真の武芸を教えてください!」

 「こちらの御宅には随分御世話になった故、若旦那の武芸の師となることで恩返しができるのならば、私も嬉しく思いますぞ」

 「師匠、若旦那なんてやめてくれよ、堅苦しい。ぜひ史進と呼んでください」

 「わかった、わかった。史進だな」

 己よりも優れた者を素直に認める潔さも、幼気で無邪気な喜び様も、まったくもって気持ちが良い。闘志を潜め、八重歯をこぼす笑顔はどこかあどけなく、王進もまた笑いながら若者の肩を叩いた。

 「大郎、お前は何という幸せ者だ。さあ、はやく服を着なさい。素晴らしい好漢を師に迎えられた祝いに酒を飲むぞ。張殿もこちらへ。御母堂も連れてまいろう」

 息子にも劣らぬほどに喜んだ大旦那は、さっそく使用人たちを働かせ、奥の間で賑々しく宴の席を設けた。羊肉や酒、魚、果物や野菜があっという間に机いっぱいに並び、史進と王進親子がそれぞれ席につくと、大旦那は盃を掲げて立ち上がり、王進に向かって片目を瞑ってみせた。

 「張殿、ここまでくればもう、教えていただいてもよろしいのではないかな? 愚息は泰山も見抜けなかったようだが、私の目はごまかせませぬぞ。貴殿は、どこぞの武芸師範でございましょう?」

 史進の可能性を見込み、師となることを決めた今、恩人に対してこれ以上我が身を偽るわけにはいかなかった。

 「大旦那は千里眼をお持ちと見える。おっしゃるとおり、俺は張と言う名ではありません。東京の八十万禁軍で、教頭として槍棒術を教えていた王進と申します」

 「お、王進教頭?」

 口に含んだ酒を霧のように噴き出した史進が、咳き込みながら目を丸くする。

 「王進教頭って、師匠、まさかあの槍棒の名手と名高い好漢の……!」

 「名高いかどうかは知らんが、まあ、その王進だ。俺は政治のこともよく分からぬまま、槍や棒の稽古ばかりして暮らしていたのだが、この度新任の太尉として着任した高俅という男に目をつけられてな。それと言うのも、我が父が昔、ならず者だった高俅を懲らしめ、棒で散々に打ちのめしたのでそれを根に持ってのこと。皇帝陛下のご信頼をいいことにして太尉の地位に就いたかと思えば、権力を振りかざして無実の罪をでっちあげ、俺への私怨を晴らそうとするのだ」

 「なんだと? 高俅の噂は俺も聞いていたが、そこまで性根の腐り果てた奴だったとは。師匠のような好漢を陥れるなんて!」

 「俺もそんな男の下で働くのは真っ平だし、母への孝行をせぬまま流罪にでもなったら死んでも死に切れんと思ってな。そこで、人望厚く人材を活かせる御方と世に名高い延安府の种老公の下へ身を寄せ士官の口を探そうと、都を捨てて遥々逃げてきたのだが、その途中で宿を見失っていたところ、運よくここに御世話になったというわけだ」

 くるくると表情を変える史進が注いでくれた酒を、一口、喉に流し込む――憂いすら飲み込むように。

 「宿を貸していただいたばかりか、病の母の世話までしていただき、大旦那には感謝のしようもございません。史進が槍棒の鍛錬に身を捧げたいと覚悟するなら、俺がとことん指導いたしましょう。史進、誰に習ったか知らないが、お前の今の棒術は、確かに見てくれは派手で強そうではあるが、戦場に出たとて少しも役に立たんだろう。一から学び直し、俺の稽古についてくる気概はあるか?」

 「もちろんさ!」

 ひと呼吸も間を置かずに答えた史進は、まるでそれを誓うかのように盃の酒をぐびりと飲み干すと、再び王進の足元に跪いた。

 「師匠、どうか、よろしくお願いします」

 「王進教頭、この史家村は三、四百戸すべて史という姓。やがてこの農村を任される立場にあるというのに、この倅ときたら、百姓仕事をするでもなく、学問に励むわけでもなく、ひたすら武芸の稽古に明け暮れておりました。死んだ家内も、最期までそのことを気に病んでいましたが、親の甘さか、私は今の今までこれの好きなようにさせてきたのです。槍棒の師匠に使った金は幾らとも知れず、それにほら、これの体の刺青は、名うての彫師を雇って彫らせたものでして。肩から腕、胸にかけて九匹の龍が彫ってありますので、この辺りの者は皆、九紋龍くもんりゅうの史進などと呼んでおります。今日貴方様に手合わせをしてもらわなくば、その二つ名が泣くところでした。どうか、一から倅を鍛え直してやってくださいませ」

 大旦那までもが並んで跪き深々と礼をするものだから、王進は嬉しいやら恐れ多いやらで厳つい顔をほころばせる。

 「どうかお立ちください、史進も、ほら。そこまでの頼みとあらば、史進を江湖の誰もが一目置く男にするまでは、この王進、どこへも旅立ちませぬ」

 それから夜が更けるまで、史の親子と王の親子は何度も何度も盃を交わした。高俅の追手への恐怖も、先への不安も、この時ばかりは王進の中からすっかり消え去っていた。

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