第6話 天は自らを助くる者を助く
拳が、石の壁に叩きつけられた。
ゴッ、という鈍い音。
そして——痛み。
鋭い痛みが、拳から腕へと走る。
だが、俺は止まらなかった。
もう一度。
もう一度。
何度も、何度も——
壁を、殴り続けた。
皮膚が破れる。血が滲む。指の関節が軋む音がした。
それでも——
止められなかった。
家の近くの路地裏。誰もいない、薄暗い場所。
リナを家に寝かせてから、俺は訳も分からず外を彷徨っていた。
家にいられなかった。
リナの顔を——見ていられなかった。
あの子の信頼に満ちた目。
「パパなら、大丈夫だよね」
帰り道、リナはそう言った。
俺は何も答えられなかった。
何も、言えなかった。
ただ——頷くことしか、できなかった。
嘘つきだ。
俺は、嘘つきだ。
リナを救えない。
何もできない——
「クソッ……!」
また、壁を殴る。
血が、壁に飛び散った。
拳が、震える。
痛みで——いや、違う。
怒りで。
悔しさで。
そして——絶望で。
聖女が助けてくれなかった以上、俺は——なんらかの手段で、金を稼がなければならない。
魔道具を買う金。
魔石を交換し続ける金。
そして、いつかは——聖女に頼らず、リナを完全に治療する方法を見つける金。
だが——どうやって?
貧民街で、追放された薬師が、どうやってそんな大金を——
俺は壁に背中を預けた。
ずるずると、地面に座り込む。
頭を抱える。
答えが、出ない。
俺は首にかけていたペンダントを握った。
だが、すぐに手を離す。
一体どうすればいいというのだ——
その時だった。
「……五個だ。それ以上は出せねえ」
近くの路地から低い声が、聞こえてきた。
俺は顔を上げた。
声は、路地裏の奥から聞こえてくる。
気になって俺は、そちらへ向かった。
足音を殺して、慎重に。
路地裏の曲がり角。そこから、覗き込む。
二人の人影が見えた。
一人は、フードを深く被った男。体格は良く、腰に短剣を下げている——麻薬の売人だ。
もう一人は——ボロボロの服を着た、痩せこけた男。目は虚ろで、手が小刻みに震えている。
あれは典型的な麻薬の中毒症状だな。
あいつはもう長くないな、、、多分半年も持つまい。
「頼む……もっと、もっとくれ……」
痩せた男が、哀願するように言った。
「金なら、ある。ほら——」
彼が震える手で、銀貨を差し出す。
「3枚だ。だから、もっと——」
「五個だ」
売人が冷たく言い放った。
「これ以上はダメだ。一度に売れる量は決まってる」
「そんな……!」
痩せた男の声が、悲鳴のようになる。
「五個じゃ足りない! 俺には、俺には、もっと神の薬が必要なんだ!」
「知るか」
売人が小さな袋を投げた。
痩せた男が、慌ててそれを受け取ろうとして手が滑る。
袋が地面に落ち、中身が飛び散った。
薄い赤色の結晶。
小指の先ほどの大きさの、美しい——だが、忘れてはいけない。
これは人を惑わす悪魔の薬だ。
「あ、ああああッ!」
痩せた男が叫びながら、地面に這いつくばった。
必死に、結晶を拾い集める。
土や砂利と一緒に、震える手で掻き集める。
その姿はとても人間とは思えなかった。
まるで獣のようだ。
売人は、それを嫌悪の目で見下ろしていた。
商品を買う客を、まるでゴミでも見るような目で。
「おい、そこで何をしている!」
突然、声が響いた。
衛兵だ。
路地裏の入口から、二人の衛兵が駆けてくる。
「クソッ!」
売人が舌打ちして、走り出した。
痩せた男も——結晶を握りしめたまま、反対方向へ逃げる。
衛兵たちが追いかけていく。
足音が、遠ざかっていった。
俺は——じっとその場に立っていた。
そして、地面を見る。
そこには——
一つだけ、結晶が残っていた。
痩せた男が、拾いきれなかったもの。
俺は、ゆっくりとそれを拾い上げた。
薄い赤色。透明度が高く、内部で微かに光が揺らめいている。
俺は、ここ一年で出回り始めたこの麻薬の名前を知っている。
___エルグレール
竜の息吹と言われるその麻薬は、主に銀竜草、モルグネラの地下茎、
強力な多幸感と幻覚をもたらす中毒性の高い麻薬だ。
なぜそのことを俺が知っているのか?
それは教会にいた頃、鎮痛剤の研究の過程でこれを一度作ったことがあるからだ。
もちろん、自分で試したことはない。だが、多分うまく作れたと思う。もっとも、最初で最後の試作品第一号君は教会の記録室に封印し、二度と日の目を見ることはなかったが。
……まて。
いや、待てよ。
もし、俺がこれを作れば。
手が震える。
この手に持っている結晶よりも——遥かに純度の高い、高品質な——
俺の思考が、そこまで進んだ時。
心臓が、激しく打った。
そうだ、これだ——
銀貨十枚で、五個。
一個あたり、銀貨二枚。
もし——もっと質の良いものなら、もっと高く売れる。
銀貨三枚、いや——五枚でも買う者がいるかもしれない。
一日に十個売れば——銀貨五十枚。
月に——金貨十五枚。
リナを——救える。
その結論に至った瞬間——
俺は、頭を振った。
何を、何を、考えている?
麻薬だぞ?
人を破壊する、劇物だぞ?
さっき見たあの男はボロボロになっても、人間の尊厳を失ってまでも——それでも麻薬を求めていた。
あれを——俺が作り出すのか?
俺は、薬師だ。
人を救うために、薬を作ってきた。
病を治し、苦痛を和らげ、命を守るために——
それなのに——
人を害する麻薬を作る?
そんなことできるわけがない!
だが。
脳裏にリナの顔がチラつく。
俺の拳が、震える。
結晶を握りしめる。
鋭い角が、掌に食い込む。
痛い。
だが——
リナが死ぬ痛みに比べれば——
俺は——目を閉じた。
深く、息を吸う。
そして——考える。
冷静に。
論理的に。
現在、貧民街に出回っている麻薬は——粗悪品が多い。
純度が低く、純粋な麻薬の効果を得られない。
特に問題なのは原材料の一つであるネクロ・ロータスの雫だ。あれは瘴気の含有量が非常に高く、よってそれから作られたエルグレールも処理を怠れば多量の瘴気を含んでしまう。
それが、中毒者の寿命を縮めている。
体を蝕み、精神を破壊し——数年、場合によっては数ヶ月もかからず人を廃人にしてしまう。
だが——
もし俺が瘴気含有量を最小限に抑えた麻薬を作ったらどうだ?
そうすれば——
瘴気による健康リスクは最小限に抑えられる。
少なくとも、今よりはマシになるだろう。
中毒者は、どうせ麻薬をやめられない。
教会で、何人もの麻薬中毒者を診てきた俺だからわかる。
治療を試みてもほとんど全員が再発した。
結局、麻薬中毒というのは環境による要因が大きい。大抵の麻薬中毒者は貧困に喘いでいる。そういった辛い現実が彼らを追い詰め麻薬に走らせる。
これが、現実だ。
そして病と違い、これらの貧困、ひいては社会構造の歪みなどは簡単には治せない。
ならば——
どうせ彼らは死ぬまで麻薬を使うのだ。
だから少しでも安全なものを。
少しでも、延命できるものを。
それは——ある意味、人を救うことになるのではないか?
「……ははっ、ただの言い訳だろ。自分を正当化するための、空虚な論に過ぎない」
だが——
リナを救うためなら——
俺は——
「……決めた」
呟きが、夜の闇に溶けた。
結晶をポケットにしまい、立ち上がった。
___俺は麻薬を作る
もうどこにも救いはない。
神の、体裁上ではあるが、代弁者たる聖女もああなのだ。
神は俺のことを見向きもしないだろう。
それに、信頼していた弟子にも裏切られた。
教会の同僚は誰も俺を信じて手を差し伸べてくれなかった。
もう、いいじゃないか
誰かが自分を救ってくれる。
本当はそう思いたかった。
いつか自分を救ってくれる——そんな人が現れると信じていた。
……そんな甘い幻想はもう捨てよう。
他ならぬ、この俺が、自分を、そして愛するリナを救うのだ。
___たとえ、人を蹴落としたとしても
「そうと決まれば、目下の課題はネクロ・ロータスの雫の入手だな」
俺はそう呟く。
繰り返しになるが、エルグレールを作るには銀竜草、モルグネラの地下茎、鉱墨樹の樹皮、そして、ネクロ・ロータスの雫が必要になる。
この内、銀竜草、モルグネラの地下茎、鉱墨樹の樹皮は市場に出回っているものであり、簡単に購入することができる。
しかしながら、ネクロ・ロータスの雫だけは話が別だ。
ネクロ・ロータスの雫はネクロ・ロータスという植物からとれる雫であるのだが、これがなかなかに厄介な性質を持ち、市場に出回らない。それどころか、国によって禁制品に指定されており、その保持者は重い刑が科される。最悪の場合死刑だ。
それはひとえに、それが放つ高濃度の瘴気によって周囲のありとあらゆる死体を
こいつは昔ならともかく、今の俺では簡単に手に入らない。
では、どうやって手に入れるか?
答えは一つしかない。
濃い魔素濃度と、死者が絶えない場所、ダンジョン。
そこにこそ、ネクロ・ロータスは群生している。
それだけでもただの薬師の俺にとっては厄介だが、残念なことにネクロ・ロータスはダンジョンの中でも、強い魔物や危険なトラップがある場所にしか生えていない。
つまり、ダンジョンのかなり深層に潜らなければならない。
結論、俺がそんな場所に行けるわけがない。
俺には戦闘能力がない。
実用的な攻撃は使えない。
剣は振ったことさえない。
行けば——確実に、死ぬ。
護衛が必要だ。
だが、誰に頼む?
アズベルは——無理だ。
彼は衛兵だ。違法な活動には、協力できない。
ならばデュランしかいない。
彼なら——裏の伝手を持っている。
俺は路地裏を抜けて、デュランの店へ向かった。
◇◇◇
デュランの店は、貧民街の中心部にある。
「よろず屋」という看板が掲げられているが、実際にはもっと多くのものを扱っている。
表向きは、日用品や食料。
だが、裏では——盗品の売買、情報の取引、そして——怪しげな仕事の仲介。
俺が店に入ると、カウンターの奥からデュランが顔を出した。
「おう、ザック。どうした、こんな夜中に」
彼の鋭い目が、俺を見る。
そして——俺の拳を見て、眉をひそめた。
「……その手、どうした」
「ちょっとな」
俺は答えた。
「デュラン、頼みがある」
「頼み?」
デュランが身を乗り出した。
「どんな?」
「護衛が欲しい」
俺は言った。
「ダンジョンに行く。それも深層だ。だから、戦える人間が必要になる」
デュランの目が、細くなった。
「……ダンジョン、ねえ」
彼が椅子に座り直す。
「ふむ、何かの素材でも取りに行くのか?」
「言えない」
「ほう」
デュランが笑った。
「言えないってことは——ろくでもないことをしようとしているようだな」
俺は黙って頷いた。
デュランは、しばらく俺を見つめていた。
そして——
「分かった」
彼が言った。
「友の頼みだ。断る理由はない」
「デュラン——」
「それに」
彼がニヤリと笑った。
「俺も、グレーな稼業だからな。人のこと言えねえよ」
彼が立ち上がり、奥の部屋へ向かう。
「ちょっと待ってろ。いい奴を紹介してやる」
数分後。
デュランが戻ってきた。
「驚くなよ?」
デュランが、そう言った。
そして——
一人の人影が、現れた。
マントを被った——小柄な人物。
フードが深く被られていて、顔は見えない。
だが——
その体つき。
華奢で、細い。
そして——
マントの隙間から見える、白い手。
女性だ。
それも若い。
人物がフードを外した。
現れたのは少女だった。
16、いや——18歳くらいだろうか。
銀色の髪を短く切り揃え、目元には——黒いレースががかっていた。
整った顔立ちのように思えるが、目が隠れているせいで感情が読めない。
腰には細身の剣が携えられていた。
いつでも戦える、ということだろうか。
正直に言って俺はあまりこういった人種と触れ合ってきたことがない。
よって、素人意見であるのはわかっているが、俺は素直にこう言った。
「彼女、強いのか?」
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