第4話
港湾区へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
風が強く、塩の匂いと倉庫の木の匂いが混ざっている。遠くで荷車の軋む音がして、波が岸壁を叩く音が聞こえる。
港の入口には屋台が並んでいた。湯気が上がり、木椀を持った人々が腰を下ろしている。スープの匂いが漂ってきた。
「ハシント、あそこで昼を取りましょう。屋台の店主に、粉の値段を聞けます」
ビオレタが控えめに言った。彼女は小さな帳簿を手に持っている。
「分かった。クラベル、先に席を確保してくれ」
「了解」
クラベルは屋台へ先に歩いていき、空いている席を押さえた。俺とビオレタも続く。
屋台の主人は中年の男性で、無精髭を生やしている。手元の鍋からスープを木椀に注ぎ、客へ渡していた。
「おう、何にする?」
「スープを3つ。あと、粉の値段を教えてほしい」
主人は手を止め、俺たちを見た。視線が少し警戒している。
「粉の値段? 何でそんなこと聞く」
「値段が上がってるって噂を聞いた。今と三ヶ月前、どれくらい違う?」
主人は鍋の蓋を閉め、腕を組んだ。
「……三ヶ月前は銀貨1枚で袋半分買えた。今は銀貨2枚で袋3分の1だ。倍以上になってる」
ビオレタが静かに帳簿へメモを取った。羽ペンの先が紙を擦る音がする。
「このスープ、前は濃かったか?」
「濃かったよ。粉が入らなくなってから、薄くなった。客も気づいてるが、文句は言わない。値段を上げないだけマシだと思ってる」
主人はそう言って、スープを3つ注いだ。湯気が白く上がる。スープの色は薄く、塩気が弱そうだ。
俺は木椀を受け取り、一口飲んだ。温かいが、確かに薄い。粉の香りがほとんどしない。
「ビオレタ、この薄さ、どれくらいだ」
「濃度で言えば、半分以下です。粉の量が足りていません。屋台主さん、粉はどこから仕入れていますか?」
「港の倉庫からだ。でも、最近は倉庫から出る量が減ってる。荷役組合が滞留してるって言ってたな」
「滞留、何日くらいですか?」
「知らない。組合は教えてくれない。現場のことは現場で決めるって言われて終わりだ」
主人は短く吐き捨てるように言った。表情が硬い。
クラベルが木椀を置き、静かに言った。
「ハシント、倉庫へ行く。滞留日数を押さえる」
「ああ。屋台主、ありがとう。スープ代、ここに置く」
俺は銅貨を置き、立ち上がった。ビオレタも帳簿を閉じ、続く。
「ハシントさん、粉の値段が倍以上です。この数字、滞留と連動しているはずです。倉庫の記録票を見れば、滞留日数が分かります」
「分かった。倉庫へ行く」
◇
倉庫前の広場は、荷車と荷役組合の作業員で混み合っていた。白い粉が風に舞い、靴が踏む石畳の音が響いている。
倉庫は大きく、木と縄で補強された壁が並んでいる。入口には組合の旗が立ち、帳場小屋が設置されていた。
「クラベル、帳場の前に立ってくれ。圧はかけるな。でも、いることは見せる」
「了解」
クラベルは帳場小屋の前へ進み、腕を組んで立った。肩幅が広く、動かない。
俺とビオレタは帳場小屋の窓口へ近づいた。中には組合員が座り、帳簿を広げている。
「滞留日数の記録、見せてほしい」
組合員は顔を上げ、俺たちを一度だけ見た。表情は冷たい。
「記録は組合の管理だ。部外者には見せられない」
「部外者? 俺は勇者だ。未払いの件で調査している」
「勇者だろうが関係ない。現場のことは現場で決める」
組合員は視線を帳簿へ戻し、話を打ち切る姿勢を取った。
ビオレタが静かに一歩前へ出た。
「組合員さん、記録保護令第9条2項をご存知ですか?『公的調査による記録閲覧は、組合の許可がなくとも可能』という条文です」
組合員の手が止まった。視線がビオレタへ向く。
「……公的調査? 勅令でも持ってるのか」
「勅令はまだですが、出納局の受理印があります。これで閲覧を拒否すると、組合側が記録隠蔽の疑いをかけられます」
ビオレタは小さく帳簿を開き、受理印が押された申請票を見せた。組合員は眼鏡の奥で目を細め、票を確認する。
「……受理印は本物だな。分かった。記録票を見せる。ただし、閲覧時間は半刻まで。メモは持ち出し可能だが、記録票の原本は持ち出し禁止だ」
「分かった。半刻で終わらせる」
組合員は帳場の奥から、記録票の束を取り出した。紙は古く、埃が舞う。インクの匂いと羽ペンの擦れた痕が残っている。
ビオレタは記録票を受け取り、ページをめくり始めた。俺は横から覗き込む。
「ハシントさん、滞留日数の欄、ここです。3日分が空白になっています」
「3日分、空白?」
「はい。7月15日、16日、17日。この3日間だけ、滞留日数の記入がありません。意図的に抜かれています」
俺は記録票を見た。確かに、欄が空白だ。前後の日付には数字が書かれているが、この3日間だけが真っ白だ。
「組合員、この3日分の空白、なぜだ」
「抜かれてる、じゃない。記録し忘れただけだ」
組合員は短く答え、視線を逸らした。
「し忘れが3日連続? それは偶然か」
「偶然だ。忙しかったんだろう」
ビオレタが小さく息を吐き、静かに言った。
「ハシントさん、落ち着いて。数字で詰めます。この3日分の空白、前後の滞留日数と比較すれば、隠された日数が推定できます」
「分かった。ビオレタ、お前に任せる」
ビオレタは帳簿を開き、前後の日付の滞留日数を書き出し始めた。鉛筆の芯が削れる音、紙に数字が刻まれる音。
「7月14日、滞留日数12日。7月18日、滞留日数18日。間の3日分を線形補間すると、15日から17日の間に滞留が急増しています。この3日間で、滞留日数が最大で20日に達していた可能性があります」
「20日……粉の値段が倍になるわけだ」
俺は組合員を見た。彼は黙ったまま、帳簿を閉じようとしている。
クラベルが窓口の外から、短く言った。
「ハシント、帳場の裏、人が動いてる。何か運んでる」
「裏?」
俺は窓口から離れ、帳場小屋の裏手へ回った。ビオレタとクラベルも続く。
◇
帳場小屋の裏は狭い路地になっていて、倉庫の壁が影を作っている。その路地の奥で、少年が札束を運んでいた。
札束は木の札で、紐で束ねられている。少年は急いでいて、足音が響く。
「あの少年、札束を運んでる。番号が飛んでる」
クラベルが視線を札束へ向け、短く言った。
「K-307、K-310、K-315。欠番が3つ」
ビオレタが静かに詠唱を始めた。白書光の準備だ。
「クラベル、追うな。逃がすと向こうが警戒する。先に番号だけ確認」
「了解。番号、見える範囲で読む」
クラベルは少年を追わず、その場で札束の番号を目で追った。少年は路地の角を曲がり、姿が見えなくなる。
ビオレタが白書光を小さく灯し、路地の壁に残った札束の痕を照らした。光が壁に当たり、札の番号が浮かび上がる。
「K-307、K-310、K-315。3つの欠番、確認しました。ハシントさん、この欠番、倉庫札の連番から抜かれたものです。再利用の痕跡があるはずです」
「再利用……札を抜いて、別の荷に使い回してるのか」
「その可能性が高いです。倉庫札は荷の出入りを記録する証明です。欠番があると、荷の流れが追えなくなります」
俺は路地の奥を見た。少年はもういない。だが、札束の番号は確認できた。
「ビオレタ、今日は引く。欠番の札、次は倉庫の中で押さえる」
「組合の許可が要ります。マルガリータさんに段取りを頼みましょう」
「分かった。今日の記録、まとめてくれ」
「はい。価格表と滞留日数、連動させて整理します」
◇
港湾区の出口へ戻る頃には、夕暮れが近づいていた。風が強く、白い粉が夕陽に染まって舞っている。波の音が遠くで聞こえ、荷車の軋む音が静まりつつある。
クラベルは先を歩き、靴音が石畳に響く。ビオレタは帳簿を抱え、静かに吐息をついた。奇跡点の消費が重かったのだろう。
「ビオレタ、疲れたか」
「少しだけです。でも、今日の成果は大きいです。粉の値段と滞留日数、欠番札の確認。これで、次の倉庫内調査へ進めます」
「クラベル、今日の記録、マルガリータへ届けてくれ」
「了解。走らせる」
クラベルは伝令室へ向かい、俺とビオレタは港の出口で待った。
夕暮れの港は静かで、白い粉が風に舞い続けている。スープの薄さ、粉の値段、滞留日数の空白、欠番札。すべてが繋がり始めている。
「ハシントさん、次は倉庫の中です。札保管棚を調査して、欠番の一覧を押さえます。そうすれば、再利用の痕跡が浮かびます」
「ああ。一歩ずつだ。焦らず、飛ばさず」
ビオレタは小さく頷いた。琥珀の瞳はまっすぐで、疲労の色はあるが、決意は揺れていない。
俺は港の風を受けながら、今日の成果を頭の中で整理した。屋台のスープは薄く、粉の値段は倍以上。滞留日数は3日分が空白で、欠番札が3つ。
数字は生活と繋がっている。「誰の飯が減るか」を示すために、俺たちは一歩ずつ進んでいる。
クラベルが戻ってきた。
「伝令、走らせた。マルガリータへ、今日中に届く」
「ありがとう。次は倉庫内だ。準備を整える」
「了解」
ビオレタが顔を上げた。
「ハシントさん、明朝なら奇跡点が戻ります。棚の前でなら清廉の環が張れます」
「マルガリータに段取りを頼む。明朝、倉庫の札保管棚に清廉の環を張る。霧を払ってから白書光で番号を照らす」
クラベルが短く頷いた。
「入口は俺が押さえる。合図は3回」
「分かった。明朝、倉庫だ」
俺たちは港を後にし、王国議会の方へ歩き出した。白い粉が夕陽に舞い、風が吹き抜ける。
屋台のスープは薄く、粉の値段は倍以上。滞留日数は3日分が空白で、欠番札が3つ。すべてが一本の線で繋がり始めている。
明朝、清廉の環が霧を払う。
武器を麦へ ぶるうず @blues_89
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