武器を麦へ
ぶるうず
第1話
「こちら、討伐報酬の件です。本日付の通知で、処理状況は“延期中”のままです」
真鍮の柵ごしに、封蝋の濃い紅が目の前に差し出された。窓口の事務官は台本のように同じ調子で続ける。
「開封は受領後にお願いします。通知の性質上、ここでは中身の説明ができません。詳細照会は照合室で、担当書記官の立会いが必要です」
俺、ハシントは一度だけ息を吸って、封筒を受け取った。手に残るのはインクと油の匂い。剣柄の感触とは違う。軽くて、嫌な軽さだ。右手の剣だこが、封蝋の縁に固く触れる。日に焼けた褐色の肌に浅い傷がいくつも走り、短く刈った黒髪は汗で寝ている。使い込んだ革外套の肩は、港の粉で白い。
「受領印を」
「ああ」
木札に押された印は滲んでいた。行列の後ろから誰かが「勇者様、こっち終わったら写真札を」と叫ぶ。俺は首だけ振った。写真より、内容だ。
「中身、今ここで確かめたい。俺は未払いを確認しに来た。理由を一行で、条文名と期間、それから誰の決裁かを聞く」
「開封は照合室でお願いします。ここは受け渡し窓口です。理由は"戦時特例"の適用中、決裁名義は出納局長ですが、実際の運用は特例手続班に委任されています。期間は"終戦処理の完了まで"とだけ」
同じ返答。真鍮の柵は冷たい。指先が乾く。
背中でざわめきが動いた。討伐報告の後でここへ来る勇者は珍しいのだろう。俺は踵を返し、封筒を上着の内ポケットに滑らせた。
◇
外に出ると、陽射しに粉がまっていた。港の風に乗って、白いのが細かく光る。
屋台の汁鍋から、塩と野菜の匂い。馴染みの声がした。
「ハシント。今日は安くしとく」
「普通でいい。二杯」
「二杯ね。パンは薄いよ。粉が高いんだ。船が関税所で足止めされて、倉庫に入る前に手数料が増えてる。みんな、スープで腹をふくらませてる」
短く言いながら、店主は器用に柄杓を回す。表情は明るいが、鍋の底をさらう回数が多い。俺は腰に下げた小袋から銅貨を出した。掌に落ちる音は軽い。ここでも軽い。
「ハシント、討伐、終わったって聞いたよ。おめでたいことのはずなのに、こっちは粉が減ってくばかりだ」
「終わった。だから、払う。終わったなら、約束も終わらせたい」
「武具屋が泣いてるぞ。補助金が止まるとかなんとか。役所の札が遅れると、ああいう店はすぐ青くなる」
「俺は麦の話をしたい。剣の話は終わった。腹の話を始める」
店主は笑って、角を立てずにパンを割った。薄い。だが温かい。
「そうだね。麦の方が腹に残る」
スープの表面に、白い浮き粉が輪になる。港の方で、倉庫札を束ねた少年が走っていく。連番の木片に、ひとつ欠けが見えた。見間違いかもしれない。けれど、こういう小さな欠けは戦場にも多かった。
一杯を飲み終えるころ、俺は封筒を指でなぞった。開けるのは照合室、と言われた。だが照合室に行けば、また別の印がいる。
「もう一杯」
「はいよ」
二杯目の器を受け取り、俺は短く頭を下げた。店主はいつもの目で返す。言葉より、その目の方が重い。待っている目だ。俺に、何かを。
◇
夜。記録庫脇の控え室は静かだった。紙の粉で喉が少しいがらっぽい。灯りは小さく、机の上に封筒を置くと影が深くなる。外套を脱ぐと、肩に積もった白い粉がぱらりと落ちた。
扉が軽く叩かれた。
「入ってるよ」
「失礼します」
入ってきたのはビオレタだ。旅の仲間。今は書付と調査が仕事だ。小柄で細身の体つき、灰白の僧衣を静かに揺らし、色白の頬に白い光がやわく乗る。墨色の髪を低く束ね、琥珀の瞳はまっすぐ。指先にはインクの染み。手には小さな灯り(白書光の携行灯)。
「ハシントさん、印、見ますか。白書光は偽印の顔料にだけ反応します。真正なら滲みの縁だけが浮きます」
「ビオレタ、見てくれ。俺の目は戦場向きだ。印の癖は、まだ分からない」
封蝋に白い光が当たる。浮かび上がるのは滲みの縁だけ。偽印なら黒く反転するはずだ。
「本物です。ここは正常です。印章は正で、手続の入口は合っています」
「じゃあ、中だな。入口が正で止まっているなら、止めているのは中」
俺は封を切った。紙が鳴る。音は薄い。
文面は短かった。支払いは戦時特例第17条に基づき延期。問い合わせは照合室。以上。文字は整っている。だからこそ、軽い。
「理由を一行で、だ。窓口でも言った。言わせた。けれど、ここでも一行か」
窓口で言った言葉が、頭の中でそのまま返ってきた。理由は一行で、終わりも一行だった。
「ビオレタ、どう見える。俺の怒りは役に立たない。数字で言ってくれ」
「誤差ではないです。恒常的な遅れ。“特例”の名目を使って、定常の支払いを外に出しています。入口は正でも、流れは別の箱を通している」
「怠慢じゃない。仕組みだ。誰か一人を叱っても直らないやつだ」
口に出すと、胃の奥が少し軽くなった。怒りが喉まで来ていたが、言葉にして位置が決まる。敵は人ではない。穴だ。
「明日、窓口と記録庫を回る。条文の原文を見たい」
「付き添います、ハシントさん。索引が古いので、目当てに辿り着くには手順が要ります。白書光も持って行きます」
「頼む」
剣は壁に立てかけてある。柄に手を伸ばしかけて、やめた。代わりに紙束を掴む。軽い。だが今は、これを持つ。俺の肩幅に比べれば頼りない束だが、これで殴る場所は変えられる。
控え室を出ると、回廊の石床が冷たく足に上ってきた。灯火の煤の匂い。遠くで当直の靴音が乾いて響く。
階段の壁に、小さな文字が刻まれているのが目に入った。
未払いは制度だ。
誰の手かは分からない。新しい傷。彫り跡は浅いが、消すには手間がかかるだろう。
「ビオレタ」
「はい」
「明日から、帳簿で戦う。剣は納めた。だから今度は、手続で切る」
彼女は小さく頷いた。白い灯りが、文字の縁を薄く照らす。
そのとき、回廊の向こうで見回りの兵が小声で言った。
「ハシント様、評議庁の灯、さっき一度だけ消えました」
俺は振り返る。灯は今、点いている。
消えたことが、問題だ。
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