帝都の月を落として

フルーツ仙人

第1話



 一

 帝都・銀座のカフェーは、昼下がりからざわめいていた。

 磨き上げられたガラス窓の向こうには、人力車と電車が絶え間なく行き交い、絹の裾やモガの帽子が陽射しにきらめく。

 甘いクリームと珈琲の香りに包まれた店内は、帝都の流行を映す鏡そのものだった。


「うわあ、このケーキ、かわいい〜!」

 甲高い声が響く。扇子をぱたぱたさせながら、朝霧美鈴は皿の上の苺のムースを覗き込み、ぱくりと口に運んだ。


「ん〜〜! おいしいっ! ねえ見て、この雑誌の新しいドレスも最高にかわいくない?」

 取り巻きの女友達が「ほんと!」「帝都一だわ!」と笑い声を重ねる。


 そのとき、隣の席の中年夫人が顔をしかめ、ひそひそと囁いた。

「また朝霧の妹御よ……あれじゃあ、化粧臭い道楽娘じゃないの」

「お嫁に行ける器ではないわね」


 美鈴はちらりと視線を向けたが、眉ひとつ動かさなかった。

 フォークで苺をすくいながら、唇に笑みを浮かべる。


(……はいはい、またそれ。もう耳にたこができるほど聞いたわよ。化粧臭い? はしたない? そう言ってる間に、あなたたちは何か手に入れられたの?)


 苺を押し潰すように、ゆっくりと口に運ぶ。

(しーらね! 私は私の好きなものを楽しむ。それだけ。卑屈になって誰かの顔色を伺うくらいなら、贅沢って言われた方がよっぽど気楽よ)


 背後に控える無口な青年・桐生が、静かに周囲を見回していた。

 彼だけが、この奔放なお嬢様が帝都の未来を握る女であることを知っていた。


 美鈴の視線は机に置かれた雑誌へと流れる。紙面に踊る見出し――

 《鉄道新線計画》

 《帝都電力、増資の噂》


 紅を引いた指先で紙を叩き、さらりと口にする。

「これとこれ、逐月会の口で押さえておいて。利益が出たらすぐ次に回すのよ。貯めて寝かすなんて退屈だから」


 女友達は意味が分からず笑い、夫人たちは一層眉をひそめる。

 けれど桐生は、主人の何気ない一言が帝都の商人たちを走らせることを知っていた。


 苺の甘さと、ざわめく帝都の匂いが混ざり合う午後。

 人々にはただの道楽娘にしか見えなくとも――美鈴の胸中では、すでに帝都の未来図が描かれ始めていた。



 二

 夕暮れの帝都。人力車で屋敷に戻ると、朝霧家の門前には白い洗濯物が風に揺れていた。 

 旧家とはいえ財力に乏しく、使用人の数も限られている。屋敷の静けさは、繁華な帝都のざわめきと対照的だった。 

 土間を上がると、姉の静江が膝をつき、箒を手にしていた。 

 白木の床を丁寧に磨く姿は、神前の拭い清めのようで――同時に、どこか痛々しくも見えた。 


「……お帰りなさい、美鈴」 

 顔を上げた静江は、汗に濡れた額をぬぐいもせず、静かに微笑んだ。 


 美鈴は扇子を閉じ、肩をすくめる。 

「またお掃除? 使用人に任せればいいのに」 


「いいの。私がやるのが一番気持ちよく仕上がるから」 

 そう言うなり、静江は再び黙々と箒を動かした。 


 美鈴は呆れながらも、わずかに視線をそらす。 

(ほんと……お姉様は、どうしてそうなの。誰よりも働いて、誰よりも尽くして。――それで何が残るっていうの?) 


 幼い頃、静江が禁じられた神域に足を踏み入れ、烙印を負った日から。 

 姉は「尽くすことで償う」と決めたのだ。家の者は「立派」と言い、外の人は「殊勝」と持ち上げた。 


 けれど、美鈴には理解できなかった。 

 自分を粗末にしてまで称賛を受けて、いったい何になるのか。 


「……まあ、私には関係ないけど」 

 美鈴はつぶやき、袖口で口紅を直す。 


 静江は気づいても何も言わず、ただ箒を動かし続けた。 

 その背中を見つめながら、美鈴は胸の奥で舌打ちする。 

(わかんない人だよね、お姉様は。私なら、自分をまず大事にするのに)



 三

 秋の気配が漂う座敷に、客人の声が静かに響いていた。

 朝霧家の宗主が膝を正し、その脇には仲介役の老婦人。そして控えめに身を伏せる姉・静江。

 話題は――縁談。


 相手は旧華族、葵野家。その嫡男・貞親は、帝都でも名を知られた人物だった。

「静江様ほど慎ましく、家事にも秀でた娘は希少でございます」

 老婦人がほめそやすと、宗主も満足げに頷いた。


 静江は深々と頭を下げ、「家のためにお役に立てれば」と答える。

 その言葉に、美鈴は几帳の陰から思わず口を尖らせた。


(出た、“家のため”。お姉様の口癖だわ。……自分の人生はどこにあるのよ?)


 でも声に出すことはせず、代わりに漆の杯を弄びながら小さく笑った。

(まあいいか。お姉様がそれで満足なら止めないけど。私は私で好きにやるから)


 やがて宗主が美鈴の名を口にする。

「美鈴は……少々奔放なところがあるが、静江をよく支えている」


 婉曲な言葉に、座敷の空気がわずかに和む。

 美鈴はにこりと笑いながら座敷へ歩み寄った。


「お姉様が望むなら、私は反対しません」


 静江は瞳を揺らし、小さく頷く。

「ありがとう、美鈴」


 その素直な返事に、美鈴は扇子を閉じて肩をすくめた。

(ほんと、真面目すぎてわかんない人。でもまあ、お姉様の道は、お姉様が選べばいい)


 四

 葵野家の洋館は、シャンデリアが金色の光を撒き散らしていた。 

 高鳴る楽の調べ、グラスの触れ合う音。絹の裾が波のように揺れ、帝都の名士たちが笑みを交わす。 


 白無垢の裾が去り、控えの間から現れた静江は色直しの振袖で、貞親の隣に静かに立った。 

 周囲は「控えめで行き届いた御台所だ」と口々に囁く。 


 かつて彼は、静江に真珠の首飾りを贈ったことがある。

 「お前は清らかだから似合う」と笑ったその言葉は、今思えば最初の首輪だったのかもしれない。

 葵野貞親は、軍服を思わせる礼装の襟を正し、淡々と告げた。 

「――静江は俺の女だ。これから先、実家の干渉など一切許さない」 


 ざわめきが広間を走り、すぐに「頼もしい」「さすが葵野様」と称賛の声に変わる。 

 美鈴は、内心うわ、と鳥肌を立てた。


 宗主は形式的に頭を下げ、親族も安堵の笑みを浮かべた。 


 静江は――何も言わない。うつむきもしない。ただ目を伏せ、夫の言葉に口を挟まなかった。 


(あーあ)


 妹の美鈴だけが、ワイングラスを傾け、赤い液体のゆらめきを眺めながら、心の中で静かに吐息をもらした。 

(ご主人様、ね……。お姉様は“守られている”と思っているのかもしれないけど、私にはどうしても首輪に見えてしまうの) 


 口元には愛想笑いを浮かべたまま、杯の底で氷を鳴らす。 

(――まあいいや。お姉様が選んだ道なら、最後まで歩いてみればいい)



 五

 午後のカフェー。

 青年実業家を交え、女友達と賑やかにする席は、周りから「はしたない」と白い目で見られている。

 磨き上げられた窓辺に腰掛けた美鈴は、シフォンケーキを切り分けながら、友人たちの笑い声に軽やかに頷いていた。

「これ、雑誌で見たよりずっと可愛いわ。帝都もやっと追いついてきたのね」


 彼女の視線は新聞の経済欄に流れる。見出しには――

 《鉄道新線計画》

 帝都と郊外を結ぶ大規模な開発計画の噂。


「……桐生」

 小声で呼ぶと、背後に控えていた護衛が即座に身をかがめた。

「ここ、押さえておいて。額は秘書に伝えて」

 さらりと指示を出し、またにこやかにフォークを口に運ぶ。


 同席していた青年実業家風の男が、思わず口を挟んだ。

「嬢様、あまりに急ぎすぎます。女の方には荷が重すぎますよ」


 その眉間の皺を見て、美鈴はくすりと笑った。

「重いかどうかは、持ってみないと分からないわ」


 紅茶で喉を潤す。

「鉄道は街の血管。生かすも殺すもここ次第。……儲けたいなら、あなたもついてくればいいじゃない」


 友人たちは意味を掴めずに笑い、周囲の客はまた「軽薄なお嬢様」と眉をひそめる。

 最初は親に甘えて資金を借り受け、投資して、利子を付けて返し、また投資。回収して再投資と回してきた。

 今や、美鈴の作った逐月会という組織は巨大な資金力を手にしている。

 父親も、美鈴がこれほどの巨額の資金を動かしているとは知らない。

 今回も自信はあった。でも、同時に、指示するときに震えが走る手を隠すようにする。

 いつだって博打だ。

 だが桐生は無言で頷き、すぐに店を後にした。

 その一言が、帝都の資金を大きく動かすことを知っていたからだ。


 ――夜。

 帳簿を開いたまま、紅を落とした指でこめかみを押さえる。

 昼間は笑って指示を飛ばしたけれど、胸の奥では不安が渦を巻く。

 大金を動かすと決めた夜は、まぶたが重くても眠りは訪れない。

 扇子で唇を隠し、ただ数字を睨み続ける。

(……怖い? いいえ、退屈に甘んじるよりはまし。――それでも、眠りは浅い)

 湯気の立つ湯呑を手に取り、再び数字へと視線を落とした。


 六

 秋風が強まる頃、朝霧家の屋敷には重い空気が漂っていた。

 執事が帳簿を抱え、父の前で低い声を落とす。

「旦那様……また取引が切られました。今度は呉服商までもが、葵野様のほうへ流れたとか」

 父は苦々しく眉をひそめる。

「……あの婿殿、表では礼を尽くしているくせに」


 廊下を歩いていた美鈴は、立ち止まり、その言葉を聞き流すように微笑んだ。

「ふうん。やっぱり、そういうこと」


 扇子を開いて頬にあてる。視線だけを桐生へ。

「逐月会に回して。向こうは家を弱らせる気よ。なら、こっちはこっちで仕掛けるまで」


 窓から差し込む陽が、机の上の白紙の契約書を照らす。

 美鈴は扇子を閉じて、軽やかに肩をすくめた。

「お姉様は“守られている”と思い込んでるけど、実際は首輪を締められてるだけ。まあ……自分で気づくまで放っておくわ」


 紅を直し、鏡に笑顔を映す。

「そのうち、はっきりする。宴の場でね」


 桐生は黙って一礼し、美鈴は再び軽やかに歩み去った。

 その背中は、誰から見ても奔放なお嬢様でありながら、帝都の潮流を読む策士のものだった。


 七

 いつものように、行きつけのカフェーでプリンアラモードをスプーンですくいながら、美鈴は笑顔を崩さずに友人の話を聞いていた。

「賞に応募したけど、また女は駄目って言われちゃった」

 画家志望の芳子が、悔しげに唇を噛む。


 周囲の客がちらりと視線を寄越す。軍服の青年が鼻で笑い、奥様方が扇で口元を隠す。

 ――ああ、またか。女が夢を語れば笑われる。何度も耳にした、ありふれた軽蔑の言葉。


「くだらないわね」

 美鈴は明るく笑った。けれど心の奥で、芳子の瞳の底に燃える火を確かに見ていた。

(この子は本気だ。何を言われても描き続ける)


「あなたの絵、私は好きよ」

 軽く言い切る。重々しく信じていると伝えるより、この方が彼女の肩の力を抜けさせる。


 芳子は涙をにじませ、美鈴の手を握った。

「ありがとう、美鈴……」

「個展を開くなら、私は必ず一番に駆けつけるわ」


 ――今は友人として応援するだけ。

 けれど、ふさわしい時が来れば逐月会を通して背中を押す。

 それまでは、ただ笑い合える友達でいたい。


 八

 逐月会の事務所である。

 秘書の村瀬が帳簿を差し出した。

「港湾投資、三割の利益が出ました」


 美鈴は安堵に、ぱっと笑顔を弾けさせる。

「ほらね! だから言ったでしょう!」


 声は明るいが、かすかな鳩尾の痛みと視線は冷静に数字を追っていた。

(……三割。悪くない。でも港だけでは危うい。次は鉄道、そして電力。流れを掴んで回すのが肝心)


「嬢様、しかし次も同額を投じるのは……」

 村瀬の声は堅い。

 美鈴は扇子をひらひらさせ、涼しい顔で笑った。

「危険? 退屈よりましよ」


 ――男たちは“女に数字は荷が重い”と笑う。けれど結果を出しているのは私。


 桐生の横顔には、言葉には出さぬ温かさが差していた。

 美鈴はその視線に気づき、そっと微笑んだ。

「……ありがと、桐生」


 ――私は選ばれる女じゃない。私が選んで、この帝都を動かす。


 九

 帝都のカフェー。午後の光が真鍮のランプを照らし、ざわめきに紅茶の香りが混ざる。

 美鈴は鮮やかなリボンの帽子を机に置き、苺のタルトにフォークを刺した。

「ふふ、すっごくかわいいし綺麗!」


 その声に、周囲の視線がちらりと寄る。

 ――どうせ『化粧臭い』『はしたない』と囁いてるんでしょう? 結構よ。私は楽しむためにここにいるんだから。


 芳子が隣でスケッチブックをめくりながら、悔しげに唇を噛んだ。

「美鈴……また言われた。“女の分際で”って」

「また? ほんとしつこいわね」

 タルトを頬張り、あえて軽く返す。


 そのとき、隣席の背広姿の若い男が身を乗り出した。

「お嬢さん方、楽しそうだね。俺ともお喋りしない?」

 軽薄な笑み。美鈴はカップを持ったまま、視線だけで流した。


「無視かよ。贅沢してる女は、愛想くらい振りまけ」

 伸びてきた手に、芳子が息を呑む。


「……お嬢様」

 低い声が響いた。桐生が一歩踏み出し、男の手を押さえる。

「手を引け」


 氷のような眼差しに、男は顔を引きつらせ、舌打ちして退いた。

 ざわめきの中、美鈴は紅茶を置き、微笑んだ。

「ありがと、桐生」


 彼は黙って一礼する。

 ――誰にどう見られてもいい。私は“軽い女”と笑われても構わない。

 けれど、この人だけは違う。私が自由でいられるのは、影のように支えてくれる彼がいるから。


 胸の奥に、ひそやかな熱が芽吹く。

「怖くなかったの?」と芳子が尋ねると、美鈴は笑顔で答えた。

「全然。だって私には桐生がいるもの」


 苺をもうひと口。

 ――私は誰にも支配されない。



 十


 冬の風が冷たさを増す頃、帝都では噂が広がっていた。

「朝霧の名が取引から外されている」

「呉服商も、寄進も……全部、葵野に流れているらしい」


 屋敷に届く知らせはどれも同じで、宗主の顔色は日ごとに険しくなった。

 父は「婿殿の仕打ちか」と呻き、母も沈黙を守るばかり。


 静江は――何も言わなかった。

 朝の市場に姿を見せ、使用人と共に買い物をする。

 知人の婦人に声をかけられれば、にこやかに会釈して通り過ぎる。

 囚われている様子もなく、ただ夫の庇護の下で静かに暮らしているだけ。


(……そういうことね)

 美鈴は紅をひき直し、鏡に映る自分の顔を見つめる。

(お姉様は選んだのよ。強い方に従って、そこに安住する生き方を)


 それならば――。

「逐月会に伝えて。葵野に入れた資金はもう戻さない。二度とよ」

 桐生に告げる声は冷ややかで、しかし迷いはなかった。


(あの男が私に敵意を見せるなら、売られた喧嘩を買うまで)



 十一

 葵野家の大広間は、光と音に満ちていた。 

 帝都の名士たちが集う宴席で、葵野貞親は満座の視線を浴びながら高らかに言った。 

「――静江は俺の女だ。朝霧の名は不要、実家の干渉も一切認めない」 


 拍手と喝采が広がる。 

 宗主は苦々しくも頭を垂れ、静江は隣で沈黙したまま立っている。 

 美鈴の目には、その姿は“主人を鞍替えしただけ”と映った。 


(……やっぱり。お姉様はもう何も言わない。ただ従うだけ。なら、私がやるしかない) 


 美鈴はワイングラスを揺らし、赤を唇に運んでから、にっこり笑う。 

「売られた喧嘩なら、買うまでですわね」 


 ざわ、と空気が動く。ちょうどその時、葵野の秘書が蒼白な顔で駆け込み、主の耳に囁いた。 

 貞親の表情がみるみる青ざめる。 

「な……資金が……? 引き上げられた、だと……」 


 広間にざわめきが走り、先ほどの称賛が疑念と困惑に変わった。 

 視線が一斉に美鈴へ集まる。美鈴は扇子をぱたりと閉じ、あえて明るい声で言った。 


「――はい。逐月会を動かしているのは、この私ですの」 

「帝都の金は、もう葵野家には流れません。戻す気もございません」 


 静寂。次いで、どよめき。 

「朝霧美鈴が……!」「影の資金源……」と囁きが飛ぶ。 


 美鈴は静かにグラスを置き、扇子で唇を隠す。 

「明日が楽しみですわね」 


 その笑みは、ただの道楽娘ではなく――帝都を揺るがす力を握る女のものだった。

 広間の片隅で、先ほどまで彼女を「道楽娘」と嗤っていた夫人が、小さく「……綺麗ね」と漏らした。

 それは嘲笑ではなく、畏れにも似た囁きだった。


 十二

 翌朝の新聞は、黒々とした見出しで帝都中をざわつかせた。 

 《葵野家、資金引き揚げ続出――実業界に激震》 

 《名門の信頼失墜、投資先に疑義》 


 喫茶店でも電車の中でも、この話題でもちきりだった。 

「やっぱり葵野様も終わりか」「あれほど威張っていたのにね」 


 美鈴は新聞を閉じ、桐生に視線をやる。 

「少し覗いてみましょうか。……舞台のあとには幕引きも見ないとね」 


 向かった葵野家の屋敷は、すでに荒れていた。 

 玄関のガラスは割れ、赤いカーペットは泥で汚れ、使用人たちは怯えた顔で走り回っている。 

 門前には野次馬が群がり、好奇の目で屋敷を眺めていた。 


 中から怒鳴り声がする。 

「ふざけるな! 俺を誰だと思っている!」 

 葵野貞親の荒れた声が響き、次いで何かが壁に叩きつけられる音。 


 美鈴は立ち止まり、ガラス片に反射する冬の陽を眺める。 

 唇に淡い笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。 

「……だっさ」 


 その声を、桐生だけが確かに聞き取った。 


 居間では、没落しつつある葵野が酒に溺れ、静江に怒鳴り散らし、食器を投げつけていた。 

「全部お前のせいだ! 不浄の女め、俺の顔に泥を塗りやがって!」 

 静江はただ黙って片付けようとする。 


 そこへ桐生と共に美鈴が踏み込んだ。扉を押し開け、扇子をひらひらさせる。 

「うるっさいわねえ。負け犬の遠吠えは外に聞こえてますけど?」 


「お前が……逐月会を!」 

 葵野が真っ赤になって掴みかかろうとした瞬間、桐生が間に入り、腕をねじり上げた。 

 葵野は床にうずくまる。 


 美鈴は冷ややかに見下ろし、短く言い捨てた。 

「……お姉様を傷つける権利なんて、あなたにはないわ。あとは勝手に滅びなさい」 


 静江の手を引いて屋敷を出た。外には白い月が浮かんでいる。 

 静江が小さく「私は……」と呟くと、美鈴は振り返らず笑った。 

「いいのよ、お姉様の人生なんだから。――でも、あの男に従うのかどうか。今度はお父様じゃなく、自分で決めて」



 夜道。

 月光が二人の影を長く引き伸ばしていた。


「……あの人、本当は悪い人じゃないの」

 静江の声は、まだどこか守られていることを信じる柔らかさを含んでいた。


 美鈴は扇子をぱちんと閉じ、ため息混じりに言う。

「手を上げた時点で悪い人でしょ。お姉様、目を覚ましなよ」


 静江は初めて、苦笑をこぼした。

 その顔はどこか吹っ切れたようでもあり、妹には新鮮に映った。


「そういえば、芳子が今度個展を開くんだって。お姉様も、よかったら来てよ」

「あなたは、本当に次々といろいろなことをするのね」

「うん。だって、まだやりたいことがたくさんあるし」


「そう……あなたは、どこに行くの?」

 静江の問いに、美鈴は指先で夜空を指す。雲間に白く冴える月が浮かんでいた。


「――月!」


 冗談めかした声。けれど、その瞳はまっすぐで、誰よりも強く未来を見据えていた。


 桐生は月ではなく、彼女の指先を見ていた。

 影の忠誠は、照らすものではなく、指し示すものに向けられていた。


◇◇◇



 翌日、昼の帝都。

 銀座通りを歩く美鈴の胸中には、不安と高揚が入り混じっていた。

(……本当は不安だらけなのよねえ。でも、走りながら拾ってくしかないよね)


「お嬢様」

 背後から桐生の低い声。


 美鈴は振り返らず、ふっと笑う。

「桐生……ついてきてくれる?」


 彼は言葉もなく、ただ静かに頷いた。


 人力車の車輪が音を立て、群衆のざわめきが帝都の空に溶けていく。

 その頭上には、白い月が昼の光の中に淡く浮かんでいた。


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帝都の月を落として フルーツ仙人 @satokunmio

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