氷の騎士団長は運命の番を離さない~過労死した薬剤師、オメガとして転生し、知識チートで国と最愛の人を救う~

藤宮かすみ

第1話「過労死したら、衛生観念ゼロの世界にいた」

『ああ、まただ。この天井』

 薄暗い視界に映るのは、煤けた木の天井。継ぎ目からは乾いた土がぱらぱらと落ちてくる。

 毎日見飽きた、異世界の朝の光景だ。


 僕、佐々木亮は、過労死した。

 三十代半ば、製薬会社に勤めるしがない薬剤師だった。連日の残業、休日出勤、積み重なる疲労の果てに、会社のデスクで意識を失ったのが最後の記憶だ。

 そして次に目覚めた時、僕はこのボロ小屋の硬いベッドの上で、「リオ」という名の十代半ばの少年になっていた。


 体を起こすと、ぎしりと藁を詰めた寝床が悲鳴を上げた。

 着ているのはごわごわした麻の服。窓の外からは、家畜の鳴き声と何かが腐ったような微かな匂いが混じって漂ってくる。

 鏡なんて高級品はないけれど、水面に映る自分の顔は、そばかすだらけの栄養失調気味な見知らぬ少年のものだった。


「……最悪だ」

 思わずこぼれた独り言は、日本語ではなくこの世界の言葉になっていた。

 知識と言葉だけは、なぜか頭にインストールされているらしい。便利なのか不便なのか。


 この世界は、まるで中世ヨーロッパを煮詰めて、さらに衛生観念を煮出したかのような場所だった。

 人々は泥水を平気で飲むし、手も洗わない。怪我をすれば傷口に汚い布を巻き、病気になれば祈祷師が意味不明な祈りを捧げるだけ。

 薬剤師だった僕からすれば、狂気の沙汰としか言いようがなかった。


 この身体の持ち主である「リオ」は、両親を流行り病で亡くし、村の薬師であるギド爺さんに引き取られていた。

 薬師といっても、その知識は迷信レベルだ。薬草を適当に煎じて飲ませるくらいで、効果のほどは気休めにもならない。


『過労死したと思ったら、次は不衛生で死ぬのか……』

 日本の清潔な環境、完備された医療制度が恋しくてたまらない。

 あの激務の日々ですら、今となっては天国のように思えた。


「リオ、起きとるか。朝餉の時間じゃぞ」

 扉が開き、腰の曲がったギド爺さんが顔をのぞかせた。

 皺だらけの顔に、優しい目が光っている。


「はい、ギド爺さん。今行きます」

 僕はベッドから下り、粗末な木のテーブルについた。

 朝餉は、硬い黒パンと、具のほとんど入っていない薄いスープ。それでも、この世界ではまともな食事だ。パンをちぎってスープに浸し、ゆっくりと咀嚼する。味なんて、ほとんどしない。


「最近、また咳をする者が増えてきた。嫌な季節じゃな」

 ギド爺さんが、窓の外を見ながらつぶやいた。


 このコニル村は、エルミナ王国の中でも特に貧しい辺境の村だ。

 季節の変わり目には決まって風邪のような病が流行り、体力のない老人や子供が命を落とす。原因は、おそらく栄養不足と劣悪な衛生環境による免疫力の低下。そして、適切な治療が受けられないことだ。


『僕に、何かできることはないだろうか』

 前世の知識が頭をよぎる。薬剤師として培った薬草学、生薬学、公衆衛生の知識。

 この原始的な世界では、それはまさにチートスキルになるかもしれない。

 でも、どうやって? いきなり「石鹸を作ろう」とか「井戸を掘り直せ」なんて言っても、誰も信じないだろう。気味悪がられて、村八分にされるのが関の山だ。


 食事を終え、僕はギド爺さんの仕事を手伝うために薬草小屋へ向かった。

 小屋の中は、乾燥させた薬草の独特な匂いで満ちている。壁一面の棚には、様々な種類の草木が雑然と並べられていた。


「リオや、この草をすり潰しておくれ。熱冷ましの薬じゃ」

 ギド爺さんが指さしたのは、見覚えのある植物だった。

『これは……ヤナギの樹皮?』

 ヤナギの樹皮には、サリシンという成分が含まれている。アスピリンの原料になった、解熱鎮痛作用のある成分だ。

 爺さんの知識も、まったくのでたらめというわけではないらしい。経験則で、効果のあるものを見つけ出してきたのだろう。


 僕は石臼で黙々と樹皮をすり潰しながら、思考を巡らせた。

 サリシンは、そのままでは胃腸への負担が大きい。何か緩衝作用のあるものと混ぜ合わせれば、副作用を軽減できるはずだ。それに、有効成分を効率よく抽出するには、ただ煎じるだけじゃ不十分だ。温度管理や抽出時間も重要になる。


『そうだ、まずは小さなことから試してみよう』

 幸い、ギド爺さんは僕を本当の孫のように可愛がってくれている。

 僕が少し変わったことを提案しても、頭ごなしに否定したりはしないだろう。


 その日の午後、村の広場で子供たちが遊んでいると、そのうちの一人、アンナという五歳の女の子が激しく咳き込み、その場にうずくまった。

 母親が慌てて駆け寄るが、アンナの顔は真っ赤で、呼吸も苦しそうだ。


「また熱だわ! 誰か、薬師様を!」

 母親の悲鳴に、僕は駆け出した。

 ギド爺さんは別の家へ往診に行っている。今、ここにいるのは僕だけだ。


「アンナちゃんを、日陰に運んで!」

 僕は叫びながら、彼女の額に手を当てた。焼けるように熱い。

 典型的な風邪の症状だ。この世界では、これだけで命取りになる。


『落ち着け、僕。できることはある』

 僕は薬草小屋へ駆け戻り、棚を探した。ヤナギの樹皮、そして……あった。カミツレ(カモミール)だ。

 カミツレには抗炎症作用と鎮静作用がある。胃を保護する働きも期待できる。

 僕は二つの薬草を考え抜いた最適な比率で調合し、丁寧にすり潰す。お湯で煎じるのではなく、少量のお湯で成分を抽出して濾し、液体を冷ました。

 濃縮された、即効性のある解熱剤。前世で学んだハーブの知識が、今、ここで役立とうとしていた。


 出来上がった薬を小さな器に入れ、アンナの元へ戻る。彼女は母親の腕の中でぐったりとしていた。


「これを、少しずつ飲ませてあげてください。熱を下げる薬です」

 僕が差し出した薬に、母親は訝しげな顔をした。

「リオがか? ギド様でもないのに……」

 無理もない。僕はまだ、ただの薬師見習いだ。


「信じてください。きっと、楽になりますから」

 僕の真剣な目に、母親は何かを感じ取ったらしい。迷いながらも、アンナの口元へ器を運んだ。

 アンナは苦しそうにしながらも、こく、こくと薬を飲み下していく。


 あとは、待つだけだ。

 額の汗を拭い、服を緩めて風通しを良くしてやる。こういう基本的な看護も、この世界ではほとんど知られていない。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 アンナの荒い息遣いが、少しずつ穏やかになっていくのが分かった。真っ赤だった顔色も、徐々に落ち着きを取り戻していった。


「……まあ」

 母親が、驚きの声を上げた。

「あんなに熱かったのに、汗をかいてるわ……」

 見守っていた村人たちからも、どよめきが起こる。


 やがて、アンナがゆっくりと目を開けた。

「……おかあさん?」

 か細いけれど、はっきりとした声だった。


 その瞬間、村人たちの見る目が変わったのを、僕は肌で感じた。

 疑いから、驚きへ。そして、感謝と、少しの畏敬へ。

 これが、僕の異世界での、小さな、しかし確かな第一歩だった。


 過労死なんて情けない死に方をした僕だけど、この世界では、この知識で誰かを救えるのかもしれない。

 そんな淡い希望を胸に抱いた僕の前に、やがてこの国の、そして僕自身の運命を大きく揺るがす人物が現れることを、まだ知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る