つまり欲求はなんなのか
もしこの身が女であれば、週に一回の休日を近藤内科クリニックで過ごすことも、その待合室で、隣に座ってきた見知らぬじいさんの大きく開かれた両脚にストレスを溜めることも、診察室の扉をくぐれば、「お久しぶりです」と、私とは別の世界で暮らす高給取りの医者に挨拶されることも、すべてがおそらくなかったわけで、その一方で、最近私の影響でタバコを吸い始めた妻を見ていると、仮に女であってもやはり喫煙の沼からは抜け出せない運命に私はあるのではないかと、または、そもそも女はタバコを吸わないという私のこの知識が実は偏見なのではないのかと、そう様々と思えてくるのだ。
喫煙所、窓の隙間から見上げれば、ここは昼の池袋、カラフルな広告がビル群から
例えば、私は哲学をかじっているし、これまでの人生で例えば人間の五つの欲求段階も、しっかりと己の直感で理解しているので、たぶん脳みそをほんの少しだけひっくり返せば、過去の、本当に居たかも分からないような偉人たちが宣った便利な言葉や抽象概念も、さらには未出の、それでいて最高に使い勝手が良い魔法の文句たちまで、いろんな“ありがたいお言葉”を自力で生み出せる、それだけの能力は、ごく普通の社会人である私ならすでに持っているはずだが、現に、おそらく私と同じごく普通の社会人──しかも私よりも人生経験が少ないはずの後藤奏は、入社十五年目の私でさえ一度も手に取ったことがない金一封を、入社わずか四年目にしてどういう理屈か手に入れたのだ。
喫煙所の外の空気が不味いことは、喫煙者の誰に聞いても自明であると返ってくるし──それが東京や大阪といった一部の都会でのみ適用されることも──反面、喫煙所内の空気に関しては、全国どこでも、不味いを通り越してもはや毒だということも──あとは、こういう喫煙者あるあるはとても面白い話題で、挙げれば切りがないということも──それらすべての事実を、喫煙所に住む喫煙者たちはタバコ片手に、「あるあるっ!」と、たいそう愉快に話すのだ──猛禽を追って喫煙所を出た私は、まず、外の空気を一吸い、駆け出す流れでタバコをジーンズのポケットに仕舞うが、その間も視線は意識して猛禽に定め、しかしながら、カラスと猛禽はビル風を無視して空間を自由に這い回るため、ときおり、隣のビルに移ってはまた私の前に戻ってきたり、カラフルな看板の裏に隠れては、一瞬で飛び出て、今度はもっとカラフルに蛍光している一つに隠れたり、そしてその看板がたまたまラブホの色合いをしていたので、瞬間、私の視線は『トロピカルホテル』の文字に吸着されてしまい、ひとたび、最近、仕事が忙しすぎて妻と致していないことについて深く考えてしまったら、もうお
哲学における欲求には数えるのも面倒なほど色々な種類があり、その一分野だけで世界中の哲学者の興味感心と人生のほとんどを奪えるのだが、結局すべての欲求は、生きていて度々遭遇する理不尽な不幸、それによって生じる悲しみを中和するための道具である、というふうな結論が、少なくとも私の中では出ており、だから、若年性高血圧という不幸を鎮めるために、もしくは入社して十五年経っても昇級なしという不幸を、または結婚四年目にして未だに妻が妊娠しないという不幸を鎮めるために、私は喫煙という欲求を果たしているのだが、今日、近藤内科クリニックの高給取りに、「お悩みはぜんぶタバコが原因かもしれないです。とりあえず高血圧はそうでしょうね」と言われたとき、つい、「そんなことは分かっている!」と怒鳴りそうになったので、そのときはこめかみに力を入れて必死に耐久したものの、今こうしてタバコを五本も吸ってしまい、猛禽には逃げられ、ついにはラブホの看板にまで笑われた自分は、そうまでしていったいなにがしたいのか、つまり欲求はなんなのか、いまいち、分からなくなってくるのだ。
見上げると、当たり前のように空は晴れていて、唯一確かなのは、夫の方はともかく妊娠希望の女性がタバコを吸っていたら駄目だろう、ということであり、さしあたり、明日は有給でも使って、妻と話し合う一日にしよう──タバコを止められないのはあんたも同じだ、自分を直してから言え、と妻に詰められるだろうが、私はもう疲れた。
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