言葉の足りない世界

かげる

第1話 病室1

 目が覚めると、知らない、病室のベッドに、いた。

 隣には、知らない女性が椅子に腰をかけて、こちらの顔を覗き込んでいる。

「…………」

「…………」

 綺麗な双眸。

 それが、僕を見つめている。

 目が合ったまま、しばらく沈黙。

 どちらかが根を上げるまで、続く沈黙。ではなく。

 自然と、僕は、その視線に釘付けになっていた。

 肩に届かない程度の髪の長さ。その人物が、何者であるかなど、質問することはなかった。

 その時間が、ずっと続いている。

 なぜ、厭きもしないで、彼女と、僕は目を見続けているのか、傍目からみたら、不思議だと思う。

 なぜ、僕は彼女の目を見続けているのか?

 なぜ、彼女は僕の目を見続けているのか?

 後者については、全く見当がつかない。

 ただ、前者については、説明できる。

 明らかに、僕は、彼女に興味、関心を抱いている。

 色恋沙汰にしてしまうのは、彼女にとって、無遠慮なことだと思う。なにより、僕も、男女の恋心の機微には、鈍感なので、口にするべきではないだろう。

 彼女の目は、つい惹きつけられる、美しさがあった。

 なぜかは、わからない。とにかく、彼女が僕の目をまじまじと見つめ続けるのだから、僕の方も遠慮なく、彼女の目を見れるといものだ。

 なぜ、僕は入院しているのか、わからない。

 どんな手術を受けたのかとかいう情報も知らない。

 ただ、わかることは、彼女が隣りにいることだけ。

 全く見覚えのない女性が、いる。

 年齢は、推測だが、二十代か三十代か、はたまた四十代かもしれない。もしかしたら、十代かもしれない。

 それがわからないくらい化粧が上手なのだろう。

 普段着なのか、服装は胸元を強調するブラウス。

 大胸筋というか、はち切れんばかりに胸元が大きな女性だった。

 それでも、僕は、彼女の目を見てしまう。

 美しいと、思ってしまう。

「…………」

「…………」

 両者の間にあるのは沈黙と、交わる視線。

 彼女に見つめられるだけで、なんというか、気持ちよくなってしまう。性行為をしたことはないが、きっと、それが満たされた時も、このくらいの気持ちよさなのだろう。

 彼女に目を見つめられるだけで。

 その彼女の目を見つめるだけで、イッてしまいそうになる。

 そういった快楽物質が、脳内に分泌されていた。

 もしかしたら、僕は、病気を抱えていて、その痛みを忘れるために、そんな快楽物質を脳内に生み出しているのかもしれない。

 痛みを誤魔化すための、モルヒネの代わり。

 まさか、そんなはずはない。

 だって、僕は、今、痛みを全く感じていないのだから。

 ただ、その目を見れるのが嬉しくて、その大きく綺麗な丸い目を、まばたきを忘れるくらい鑑賞している。

 気持ちいい。


 脳内に電極を繋いで、快楽物質を分泌しているかのよう。

 素性の知らない彼女のことを、僕は気になって仕方ない。

 その瞳を見つめるだけに、存在していたかのよう。

 お互いが、お互いの目を見つめる時間。

「…………」

「…………」

 それは、僕が、眠気に襲われるまで続いた。


 朝になり、目が覚めると、彼女を探している自分がいた。

 幸福なことに、否、奇妙なことに、昨日のようにベッドの横の椅子に座って僕を見つめている彼女は、いた。

 そして、また、僕と彼女は見つめ合う。

 その瞳に僕は、惹かれている。

 綺麗だな、と思う。

 ずっと見ていたい、と思う。

 そして、僕の目を見つめてくれることも、嬉しい。

 なにか、言語は必要ない、意思の疎通を感じる。

 その目の動きだけで、相手のことが、全てわかってしまうような。

 僕は、単純だから、好意が相手に伝わっていただろう。

 しかし、相手は、わからない。

 少しは、僕のことに、関心があるのだろうか。


 ある日、彼女は、僕を見つめていた。

 僕も、彼女を見つめていた。

 いつまでも、その綺麗な目を見つめていた。

 ベッドの上から起きれないまま。

 苦痛を忘れて、その彼女の目に見惚れていた。

 彼女も、僕を見つめている。

 それだけだった。

 でも、それだけが、僕の全てだった。

 僕の存在に、価値とか、基準というものがあるなら、それだった。

 僕は、彼女なしでは生きられない。

 それくらいに、彼女に、依存している。

 その依存は、彼女が僕から視線を外して、素っ気ない仕草をした時には、消え去るだろう。

 でも、そんなことには、ならなかった。

 僕が起きている間、彼女と僕は、ずっと見つめ合っていたからだ。

 厭きもしないで、ずっと。

 目はものをいうというけれど、それは本当らしい。

 『本当』というものが、わからなくなった現代ではあるけれど、たぶん、目はものをいう。

「…………」

「…………」

 彼女が僕の目を見つめているということ。

 それだけで、昇天してしまいそうなほど、嬉しくて、むずむずする快感を覚えるのだった。

 昔、これと似たような経験をしたような気がするが、脳に欠損があるのか、思い出せない。

 脳?

 そういえば、頭にはホッチキスで閉じられた跡がある。今までなぜ、忘れていたのだろう。

 ま、いっか。

 僕は、彼女を見つめているだけで、幸せなのだ。

 その綺麗な、丸い月より美しい瞳を、見ているだけで、吸い込まれそうな錯覚と、うっとりする胸の奥から身悶えするような快楽があった。

 彼女のためなら、全てを投げ打ってでもいい。

 あなたに、全てを捧げたい。

 そう思ってしまう、彼女のささやかな慈しみを、慈しみで何倍にも返したい、絶対的で絶大な想い。

 彼女の視線は、何を言っているのか、わからない。

 敵対していないことは、なんとくわかる。

 僕の心を見透かして、その奥底まで覗きたいとでもいうかのようでもあるが、微動だにしない彼女の気持ちなんて、なにもわからない。

 それでも、なにも縋るものがない僕に、それはささやかな慈しみに見えたのだった。

 この世で、一番、美しい。

 それを、彼女に伝えたかったが、声帯を振動する機能がうまく使えなかった。

 そんな現実、思い出したくなかったのに。


 ――そんな哀れな僕を彼女は見つめている


 『本当』がわからなくなった情報過多の現代に置いて、その眼差しだけは、確かな、間違いのない真実だと悟った。

 僕と彼女の間で、言葉はなかった。

 必要がなかった。

 どんな人なのか、経歴を知る必要はない。

 最近あった話しをするわけでもない。

 ただ、彼女と見つめ合っているだけで、全てが許される気がしたのだ。懺悔をするまでもなく、その存在で僕は救われていた。

 

 ――ああ、綺麗だ。


 その瞳を見つめているだけで、僕は、絶頂に達する。

 それを、人の間では、恋心と呼ぶのだとしても、そんな単語は使いたくなかった。そのような単語で形容できるものではない。かわいいとか、綺麗とか。そんな言葉で、貴女を説明できない。

 つまり、貴女は、僕にとっての宗教だったのだ。

 そんな、絶対的で、絶大な存在感。

 彼女に見つめられるだけで、僕は、幸せだった。

 こんなに、幸せでいいのだろうか、と思うほど。


 次の日になった。

 食事が運ばれる。

 それを僕は食べれない。

 トイレは、尿道カテーテルで自動的に流される。

 大の方は、まだ我慢できる。

 小より、問題なのが大の方だと悟った。

 そういえば尿意を感じないと思ったら、そういうことか。人体の不思議。管に繋がれて、半ば強制的に生かされる命。喉には管が繋がっている。栄養は、そこから摂っているらしい。

 痛いと、感じることは、なかった。

 彼女が見ていたからだ。

 僕にとっては、それが全てだ。

 女神より、尊い存在。

 彼女の正体を、全く知らない。

 僕の目を見つめる。

 だから、僕も、彼女の目を見つめる。

 ああ、風呂に入りたいと思った。

 しかし、それは叶わない。

 体を起こすことは叶わない。

 それが、現実だ。

 縋るものを探したら、やっぱり、他になくて。

 彼女の綺麗な目をじっと見つめることにした。

 それが、僕の手に残る、世界の全てだった。

 彼女以外、なにもいらない。

 そう思うことによって、精神を保っていたのかもしれない。

 それは、狂気より強い純粋な、想いだった。

 絶対的で、絶大な、絶対値。

 それが、僕にとって、この場所に当たる。


 彼女の顔について。

 白い肌と、濃すぎないアイラインなのに、周りとの対比で、その主張は素晴らしい。

 涙袋が、彼女のその妖艶な魅力を増している。

 鼻筋と、顎までにかかる橋のEラインも完璧。

 どこまで冗談か、本気なのかわからない口元に含む笑み。

 髪の長さは、ボブとミディアムの間。つまりはロブ。後ろ髪は、ハーフアップに結っているらしい。

 前髪は、眉毛と美しい目の形を、時々、隠すように散らばっていて奥ゆかしさを感じさせるものだった。

 その瞳が、じっと僕を見つめている。

 そんな美しい目を見つめられて、見つめ返す。

 僕は、放心状態、恍惚としてしまう。

 彼女の美しさに。

 この状況に。


 ――完璧すぎる。


「…………」

「…………」


 お互いは、無言で、見つめ合う。

 その時間はずっと続く。

 至高で、至福だった。

 そんなに見つめられたら、気持ちよすぎで、どうにかなってしまいそうだ。

 病室で、臥しているこの状況は、周りから見たら不幸な惨状だと思うだろうが、僕は違った。

 初めて、僕は、幸せになったのだ。

 絶対的な、幸福を、病室で、手に入れたといえる。

 

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