第二話
♢
古蒔伊里は生まれながらに足が悪く、家に引きこもりがちだということは町の誰もが知っていて、誰も触れないことだ。
小学校には通っていて当時は私も一緒に通学していたりしていたけれど、最近はめったに姿を見なくなっていた。
外に出るのに杖が必要なのが億劫なだけだと伊魚が言っていたからあまり心配はしていなかったのだけれど。
「伊里くん……ちゃんとご飯食べてるの?」
そのあまりにも細い体につい口を出してしまった。
伊里くんはぼんやりとした目で私を見て、それからにこりと笑って見せる。
「だいじょうぶ。というか、伊魚のお嫁さんになるからって俺にまで気を使わなくてもいいよ」
伊里くんはそう言ってからかうような目線を送ってくる。
「伊魚のお嫁さんにはならないよ」
とりあえず気になる部分を訂正すると、伊里くんはなぜかキョトンとしていた。
「伊魚のこと好きじゃないの?」
「うーん。嫌いじゃないけど好きでもないかな」
「え、じゃあ伊魚と結婚しないの?」
「しないよ」
どうしてそう思ったのと訊ねると、伊里くんはキョトン顔から徐々に破顔し、しまいには手を叩いて転げ始めた。
「えー!! 伊魚ってばかわいそう! ギャハハハ」
「え? なに? 怖い」
伊里くんってこんな人だっただろうか。こんな人だったかもしれない。
伊里くんはひとしきり笑った後、杖を手に立ち上がった。
「いま時間ある?」
「まあ、多少は」
「ちょっと向こうの畑に行きたいんだ。手を貸してくれる?」
こんな時間から畑に? そんな疑問を飲み込んだのを察したのか、伊里くんは少しだけだからと言葉を足した。
古蒔の畑へ行くにはあぜ道を歩く。伊里くんの足ではひとりだと時間がかかるのは明白だ。
ひとりで行かせるよりはと渋々うなずくと、伊里くんはさも当たり前のように私の肩に片手を乗せてゆっくりと歩き始めた。
◇
「伊魚のお嫁さんにならないなら俺のお嫁さんになる?」
「もう、からかわないで」
畑へのあぜ道を二人で歩く。街灯なんてほとんどない農耕路を、月明かりを頼りにに進む。
「そりゃ嫌か。こんな役立たずの穀潰し」
「そんなこと言ってないよ!」
「みんな言ってる」
「そんなの、誰が」
「みんなだよ、みーんな」
長男なのに足が悪くて畑を継げない。捻くれ者の除け者。伊魚はあんなにいい子なのに。
伊里くんの口からそんな自虐的な言葉が次々と飛び出してきて、私はぐっと押し黙る。
もしかしたら本当に言われているのかもしれないと、思ってしまった自分にも腹がたった。
「でもそんな俺にもついに! 家の役に立てる時が来たのです」
「え?」
そのままカラリとした声色で伊里くんは続ける。
「俺、知らないジジイの養子になるんだって」
「……は?」
「もう決まったことなんだって。山越えてもっと向こうの金持ちジジイ。今もうちの親、そのジジイに呼ばれて話進めてる。伊魚も買い物があるとかでついて行ったよ。だから今日は俺ひとり」
「え、ええ?」
突然の話に頭がついていかない。知らない人の養子になる? じゃあ伊里くんはこの町から出ていく? そう聞くと伊里くんはそうなるねと答えた。
「でも」
不意に伊里くんの声のトーンが翳る。伊里くんは私の肩から手をどけて立ち止まった。私もそれに続いて足を止める。
月明かりがちょうど逆光になって伊里くんの表情は分からない。
「そのジジイに会った時、俺のことをすごい目で見てた」
「すごい目?」
「伊魚がお前を見る目」
その言葉にガンッと頭と胸を同時に殴られたような衝撃が走る。
頭が理解を拒み、ぐにゃりと視界が歪んで体が傾いて、杖をついている伊里くんに支えられてしまった。
「あ、い、伊魚はそんな目で私を見ない……っ!」
「でも理解できたでしょ」
そういうことだよと言われても分からない、分かりたくない。
「家のやつらは厄介払いできてよかっただろうね」
「なんでそんなこと、古蒔の家はあんなに大きくて、伊里くんひとりくらい」
「うーん。親父は妙に先見の明があるからなァ」
伊里くんに手を引かれ、よろよろと歩を進める。一瞬、この町から出られることをうらやましいと思ったのに。
「どこに連れて行かれるか知らないけど、海とか見られるかな」
「海……見に行きたいの?」
「うん。山もいいけど、俺は海が好きだよ。俺はこの町から出たことないからさ。あ、川泳いでいったら海に着くかな」
「そう、かもね」
たとえ海を見ることができても伊里くんはきっと不幸になる。私は伊里くんの目を見て、必死に言葉を絞り出した。
「伊里くん。私もこの町から出たいの。この町じゃない色々な場所の写真を撮りに行きたいの。だから大人になったらきっとこの町を出て伊里くんに海を見せてあげる」
それは私にできる最大の決意表明だった。
一瞬間を置いて返ってきたのはギャハハという笑い声と「期待せずに待ってる」のひと言だけだったけれど。
♢
畑に着くと月明かりの下に見渡す限りの緑色が広がっていた。さわさわと風に揺れる小さな葉がまるでさざめく水面のようで、まるで。
「すごい。う」「海みたいとか言うなよ」「言いません……」
伊里くんは絨毯のように生い茂る緑の葉を慣れた手つきで数枚採り、それらを月に透かした。
一体何をしているのだろうとそばに寄って伊里くんの手元に目をやると、月の光を受けた葉脈と呼ばれる部分がまるで血のように赤く浮かび上がって見えるではないか。
「月の下でこうやって品質を確認する。葉脈が赤ければ赤いほどいい」
「へえ」
そういう品種の葉っぱもあるのかと納得していると、伊里くんは畑の脇にある岩に腰掛けて、懐から何かを取り出した。
綴りになった紙束とマッチ箱に見える。伊里くんは紙を一枚取り、それでくるくると器用に葉を巻く。
そして徐にマッチを擦り、火を付ける。そして巻タバコのようにしてそれを吸い始めた。
「ちょっと伊里くん。それタバコだよね、いけないんだ」
「タバコじゃないよ。うちの畑でなに作ってるか知ってる?」
「うん。漢方の原料でしょ? そうやってタバコにもなるのは知らなかったけど」
伊里くんはゆっくりと煙を吐いて、「まあ子どもにはそう言うか」と呟く。
「え……ちがうの?」
私の問いに伊里くんは再びそれを吸っては吐く。するとしだいに伊里くんの目がとろんとしてきて、どこか落ち着いたような、あるいは虚を見るようなその瞳をこちらに向けた。
私はそれを見てぎくりとする。伊里くんの雰囲気が、まるで別人のように感じたからだ。
「ありがと」
伊里くんは笑顔の消えた表情でじっと私を見つめて言う。
「伊里く、」
「伊魚のこと好きにならないでくれて、ありがとう」
「伊里くん。ねえ、それなに?」
聞きたくないのに、聞かなければならない。だってずっと、漢方の原料だって聞かされていた。母にも、伊魚にも、町の大人たちにも。
「あいつの最大の不幸を俺に見せてくれて」
「伊里くん!!」
それを口に運ぶ手を無理やり止める。伊里くんは虚ろな目をしてされるがままだ。
「答えて。これはなに。この畑でなにが作られているの。この葉っぱは一体」
「”螟蝨闃ア”」
伊里くんが発した聞いた事のない音に脳が追いつかない。
「な、なんて? 螟……?」
「”螟蝨、闃ア”」
「螟ゥ蝨闃ア」
「はは。上手」
止めても止めても伊里くんはそれを吸う。私は怖くなって伊里くんに縋り付いた。
「伊里くん、おかしいよ。それ吸っちゃだめなやつでしょ、やめて。やめようよ!」
「はいはい。必死になっちゃってかわいいね」
伊里くんは笑いながらまるで犬とでも遊ぶように手で適当に私のことをあしらう。
それでも諦めずに止めようとする私を見て、伊里くんは少し考える素振りを見せてから私の顎を片手で掴み、私の口に自分の口を押し当てて、煙を流し込んだ。
「う゛!?」
これってキスだなんて考える余裕はなかった。
煙が体内に流れ込んで、痺れる芳香が体に巡ったその瞬間、私の視界は暗転する。
気づくと私は意識だけがふわふわ浮いている状態で、なぜか古蒔家の座敷にいた。
『跡目の長男がまともに歩けないなんて』『治療もまるで効かないじゃないか』『なんとしても畑は守らないと』『もうあの子は諦めて伊魚に継がせましょう』『もう諦めて』『あの子はもう』『伊里はもう諦めましょう』
耳を覆いたくなる言葉に私は涙していた。あまりにも惨い伊里くんの扱いに、声が出ない。
これは夢? いや違う、これはきっと現実に起こったこと。私にはいま聞こえないはずの声が聞こえている。
ボロボロ泣いているうちに意識がすーっと畑に戻ってくる。目を開けると岩を背にした状態で伊里くんに抱きしめられていた。
「う、うぅ」
「ごめん、泣かないで。驚かせたね」
ポンポンと宥められるように頭に手が乗る。涙が止まらない。
こんなに私が泣いても伊里くんは救われない。今までも、これからも。
「伊里くん……私、平気。だから、もっと」
伊里くんの襟元をぎゅっと握ってそう言うと、伊里くんは驚いた顔をして再び私の口を塞ぐ。
痛くて、痺れて、どうしようもないほど泣きたくなる味がした。
「ごめん」
「謝らないで、私が欲しがったの」
「じゃあありがとう」
「……こんなに嫌なありがとうは初めて」
自分でやりたいと言っても伊里くんはさせてくれなかった。かわりに、私が欲しがるたびに自ら口に含んで与えてくれた。
伊里くんから流れ込んでくる芳香を呑み込むたびに、様々な声が聞こえてきた。醜い陰口、隠された本性、人間の加虐性。そういったものが顕になる。
そして私はこの葉っぱが必要とされる理由を理解した。
「この葉の使い方、伊魚に教えてやってよ。いつかこの畑はあいつのものになるんだ。知っておかないと」
「伊里くんが教えてあげれば?」
「――もう何年も喋ってない。俺は家ではいないものだから」
「そんな……」
「いいんだ。自分でそう振る舞ってる。だからあいつを責めないでやって。あいつはお前をお嫁さんにする気満々だからさ」
そんなのずるいと思った。伊魚の不幸を望むようなことを言いながら、本当は兄であることをやめられない。
「茎から出る汁に引火すると爆発するから、必ず紙に巻いて葉の方から――」
「爆……そんなことある?」
「はは、爆発はウソ。でもそれくらい燃えやすいから」
伊里くんは綴りの紙とマッチ箱を私にそっと握らせて、帰ろうかと言った。
ふわふわした気分の中で、私は伊里くんと手を繋いで歩いた。伊里くんは最初戸惑っていたけれど、私が手を離さないと分かると「かわいそうな伊魚」と呟いてそのままにしてくれた。
「海に行こうよ、伊里くん。いつかきっと」
「どうせすぐ俺のこと忘れるくせに」
「忘れないよ。あ、じゃあ伊里くんの写真撮らせて。そうしたら絶対に忘れないよ」
「えー嫌だなあ」
嫌がる伊里くんを無理やりカメラに収める。肝心なフラッシュを忘れてしまって、もう一回と言ったけれどダメだった。
屋敷に伊里くんを送ってから、私も帰宅する。私はふわふわの気持ちのまま布団に入り、そして翌朝、川から伊里くんの死体が上がったと母から聞かされたのだった。
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