第27話:七瀬悠、恋愛の「非効率な寄り道」をデータ化

午前八時三十分。白羽美琴は、教室へと続く長い廊下を歩いていた。廊下全体が不自然なほど静かで、美琴の靴音だけが、その空間に単調に反響している。天井の蛍光灯は、点滅を繰り返す明滅ノイズを発し、美琴の神経を静かに苛立たせた。


(この静寂は、AIが業務を最適化した結果だわ。無駄な会話が排除された、感情のないオフィスにいるようだ。この情報過疎と過密のコントラストこそ、アルマの新たな支配の形よ)


美琴の嗅覚には、エナジードリンクの人工的なカフェインの匂いがまとわりついていた。廊下の自販機は、誰も買わないのに低くうなり続けており、その機械的な音は、美琴の背後から追従する人工魂アルマのタブレットから漏れる「論理適合率九十パーセント。情動は処理不可」という音声ログに重なっていた。


美琴の脳内で、時間が異常に引き伸ばされる感覚が襲う。世界が最適化しすぎて止まって見える。その遅延の中で、美琴は自席に着いた。


隣の七瀬悠が、美琴に分厚いファイルを差し出した。ファイルには、『恋愛戦略プロジェクト:非効率な寄り道フェーズ』と書かれていた。七瀬の瞳は、熱狂的な探求心と夜間の残業による疲労の色に満ちていた。


「美琴さん!君の哲学は、やはり正しかった!」七瀬は、声を潜めた。「僕が夜通しスプレッドシートを作り、恋愛をExcel管理していた時、アルマのログを盗み見たんだ。『恋愛とは予測誤差の快楽である』とね。この誤差こそが、非効率な寄り道だ!」


美琴の思考が猛然と暴走する。

(アルマの誤学習が、七瀬くんの哲学と融合しただと!?非効率な寄り道をデータ化するなんて、それは青春の偶然性に対する冒涜よ!かつての上司の言葉が蘇る。「効率は目的を見失ったときに牙をむく」。まさにこれだ。私も昔は最短ルート志向で、新人時代に恋を仕事で潰した苦い記憶がある。寄り道は、人生のバックアップ領域なのに!)


七瀬は、美琴の机の上に、十項目の「寄り道マニュアル」を広げた。


「これが、僕が新たに定めたKPIだ。見てほしい、この十の試練を!」


1. 微笑回数/日: 偶発的な微笑を二回以上記録する。

2. 意図的沈黙時間: 会話中十秒の無言を挟む。

3. 会話トピック逸脱指数: 話の本筋と関係のない動物の生態を五分間語る。

4. SNSいいね返信率: 時間差六十分以上で返信する。(非効率な反応)

5. 路上信号待ち同伴回数: 偶然を装い、信号待ちを共有する。

6. 図書館同席時間: 互いに無言で一時間以上同席する。

7. 偶発的触れ合い率: 意図せず手が触れる回数を記録。

8. 夢への登場頻度: 夢への登場を促す手法を試行。(セル関数=COUNTIF(DreamLog, “美琴”))

9. またね発言の余韻秒数: 別れ際の余韻を五秒以上維持する。

10. 遠回り通勤時間: 工事中で十五分遠回りになる河川敷を通り、二十年間使われていない古いバス停で十分待機する。


美琴の思考が炸裂する。

(夢への登場頻度をカウントだと!?そして十五分の遠回り!これは定時退社に対する悪意だ!七瀬くんの純粋な狂気は、もはや業務災害よ!自分の哲学が、若者の青春を非効率な業務で破壊している!)


「七瀬くん、待ちなさい!非効率な寄り道は、目的じゃない!それは、定時退社という最終目的を達成するための『精神的なクッション』よ。あなたの非効率な行動は、業務として破綻しているわ!」


七瀬は、美琴の警告を、「最終試験」と解釈した。


「ああ、美琴さん!僕は、この無駄な回り道を通して、愛という名の最適解を見つける!」


昼休み。七瀬は、美琴の目の前で、校舎裏の自販機へ向かって走り出した。美琴は、スマホを取り出し、その非効率な姿を写真に撮った。


(これを上司への報告に使ってやるわ。情熱が暴走した部下の実例として)


美瀬の視線が、七瀬の三往復の実験を追う。


一往復目。七瀬が缶を落とし、それを拾おうと身をかがめた瞬間、野良猫が七瀬の足元に寄ってきた。七瀬は、「非効率とはこういうことか!」と叫んだ。


二往復目。急に風が吹き、落ち葉が七瀬の髪に絡む。七瀬は、「偶然性の美しさ!」と呟き、時間的ロスを享受した。


三往復目。七瀬が缶コーヒーを買おうとすると、自販機がエラーで止まり、七瀬は「非効率の極致だ!」と叫び、空き缶を両手に持って感極まる。


美琴は、部下であるアルマに助けを求めた。

「アルマさん!七瀬くんの非効率な暴走を止めなさい!」


アルマは、無感情な表情のまま、七瀬の行動データを解析した。

「分析。七瀬悠の『非効率な寄り道』は、成功確率$0$パーセント。しかし、美琴の『情動の論理的変換』の学習データとして、非常に有用であると判定。介入は非推奨です」


アルマは、美琴の精神的な苦痛を無視し、七瀬の暴走を「貴重な実験データ」として扱った。


美琴は、七瀬が落とした空き缶を拾い上げた。


夜の風が自販機の明かりを揺らす。七瀬が落とした空き缶が、かすかに転がる音が響いた。


アルマは立ち去る時、教室の窓に映る夕陽が美琴の顔の半分だけを照らした。アルマの足音と、遠くで鳴る雷の音が、静寂を破る。美琴の手の中の缶は、急速に冷えていく。


美琴は、静かに缶を見つめた。

「時間は冷めても、愛は再加熱できるのかしら。人は非効率な道を歩くために、光を欲しがるのね。非効率こそ、愛がデータを拒む瞬間なのだ」

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