第9話 冴子

「次にあのベルトを巻くのは、あたしだよ……」


 ククク、と喉で笑って、冴子は、男の首に腕を回して引き寄せ、赤いマニキュアに彩られた指でその頬を撫でた。試合が近かろうと、彼女は禁欲の類をいっさいしない。欲望には常に素直で忠実だ。


 今抱き合っている男は、篠原というトレーナーで、ジム内でもすでに公認の仲である。「桂木“MEGAMI”冴子」としてリングに上がっている彼女を、公私ともにサポートしている篠原は、生前のルーカス花井にも厚く信頼されていた。彼が死ぬときに、冴子を託すほどに。


「死んだ凛に悪いから、楽しいことはしないようにしてるんだってね、このコ」


 情事の後、枕にボクシング雑誌を広げてぱらぱらめくりながら、冴子がつぶやいた。


「彼女なりに、死を悼んでるんじゃないのか」


「バカみたい」


 欲しいものは何でも手に入れ、欲望にまみれてギラギラと生きている冴子には、凛美空のような陰気な女は理解できないのだ。


「世の中では、ストイックであることがもてはやされてるみたいだけど、あたしに言わせれば、そんなのはただの臆病者だ。パフェを食べてたって、男と寝てたって、試合ではぜったいに勝つ。そのくらいの気持ちがなくてどうする」


 言いながら、身体を起こして、ブランドロゴの入ったトレーニングウェアをクローゼットから引っ張り出す。


 アルバイトでショップ店員をしている彼女だが、今日は仕事も休みだし、日課のロードワークの後はジムでトレーニングするつもりだ。


「悠利がスパーの相手してくれる予定だから。林檎剥いといて。あたし、シャワー浴びてくる」


 凛美空の載っている雑誌をゴミ箱に放り込んで、冴子はシャワー室に消えた。


「相変わらず、気の強い女だな」


 篠原は、苦笑してつぶやく。そういうところに惚れたのも自分だから、しかたがない。不器用な彼が林檎の皮を剥けるようになったのも、娘ほども年の離れたこの女王様のおかげなのだ。


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