第2話

「いえ。私は、あとで。お父さんといっしょに、関係者の方にあいさつしなきゃならないから」


 年齢よりしっかりして見えるロゴ入りジャンパーの少女は、桧ジム会長で元・世界チャンピオンの桧公介の娘である。


 女子ばかりの桧ジムにおいて、ジムの看板であるフライ級世界チャンピオン・仁仲凛美空(ひとなか りみか)を、父とともに支えている。凪砂自身もボクシングをやってはいるものの、才能らしきものはあまりなく、本人も、どちらかというとトレーナーをめざしている。将来はもちろん、父のジムを継ぐつもりだ。 


 試合が終わり、観客が帰ってしまった後に残されたリングには、先ほどの熱い戦いの余韻だけが色濃く残されているようで、じっと見ていると身体が震えた。


(凛美空さん、は……)


 また凛さんと話したんだろうな、と凪砂はつぶやく。キャンバスに赤く散っている血の痕を、真っ黒な瞳で見つめて。切っても切られることのない二人の強い絆に想いを馳せた。


「おーい、凪砂。ちょっとこっちおいで」


 お偉いさんと話している父が手招きしている。娘を紹介したいらしい。


「はーい」


 凪砂は、黒髪を揺らしてそちらへ駆け寄った。


「仁仲凛美空様」と書いた紙が貼られているドレッシング・ルームで、凛美空は一人、気怠そうに目を閉じている。椅子に腰かけて上体を倒し、机に身をあずけた、ややお行儀の悪い姿勢で。


 防衛戦を戦い抜いた王者というより、寝不足の猫みたいだ。切りそろえられたおかっぱ風のダークブラウンの髪は、うなじを隠して肩に流れている。一見傷は少なかったが、やはり強く打たれたので、身体のあちこちが痛かった。


 先ほど医務室へ行って、目蓋の上や口元の小さな傷は手当てしてもらったのだが、本当のことを言うと、流れている血を見たほうが安心する。今は亡き友が分けてくれた勇気が、体内に宿っていると確信できるから。


「病んでるな……」


 つぶやいたとき、ドアが小さく鳴った。


「はい?」


「アヤナでーす。入って、いい?」


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