しま、揺らぐ
教室には、先生が板書するカツカツという音だけが響いている。
大学の授業なんてもっとガヤガヤしているかと思っていたのだが、意外にもみんな真面目に聞いているようだ。
私語一つ聞こえてこない。
かくいう私はノートを開いたまま、まるで別の世界に意識を飛ばしていた。
昨夜、寝る前に読み始めた漫画の続きがつい気になって、気づけば午前2時を過ぎていた。
なんとか朝起きることには成功したが、すでに授業を受ける気力なんてどこにも残っていなかった。
チョークの音が遠くで響く。
先生の声は子守唄のように単調で、だんだんと頭の中が霞んでいく。
気づけば、まぶたが重くなり――そのまま、落ちた。
「あ、あの……」
軽く体を揺すられて、私ははっと目を開けた。
気づけば教室はすでにざわざわしていて、みんなが帰り支度をしている。
あ、終わった。
寝てた。
完全に寝てた。
心臓が跳ねて、慌ててノートを閉じる。
横を見ると、いつのまにか隣に座っていたであろう女子がこちらを見ていた。
「授業終わったよ……先生、めっちゃ見てた」
眼鏡をかけた地味な印象の子だった。
前髪が少し長くて、声は落ち着いている。
「あ、あれ?そうなんだ。ありがとう……えっと」
「山崎」
「あ、山崎さん……」
思わず繰り返してしまった。
そういえば、ちゃんと大学の人と話すのはこれが初めてかもしれない。
少し間があって、なんとなくそのまま雑談になった。
「最近この授業、眠くなるよね」
「あ、うん……そうだね」
「ノート……ちょっと写してもいい?」
「え、あ、うん。全然」
会話は続いているのに、どこかぎこちない。
互いに相手の反応をうかがうような、間の多い会話だった。
でも、妙に居心地が悪いわけでもない。
沈黙が訪れても、それを埋めようと焦る感じはなかった。
山崎さんは少しタイミングを外したような笑い方で、でもその分だけ本物っぽかった。
見ているうちに、私はなんとなく力が抜けた気がする。
会話が切れたタイミングで私は
「じゃ、また……」
といって立ち上がろうとした。
その様子を見て山崎さんが
「じゃあ……」
呟いたが、続けて
「あ、えっと……良かったら、連絡先とか……」
そう言いかけた瞬間――
「松田さん!」
振り返ると、谷原さんが駆け寄ってきた。
淡いグレーのジャケットに、光を受けて揺れるピアス。
相変わらず全体から漂う都会的な香り。
周りの空気ごと明るくしてしまうような笑顔だった。
「さっきの授業、眠かったねー。あの先生、毎回声が小さいんだよ」
「……あ、うん。確かに」
「松田さんってノートきれいに取るね。私、いつも途中で飽きちゃうんだ」
「あ、そう……なのかな」
谷原さんは笑いながら、私の机の上を軽く覗き込んだ。
その距離の近さに、思わず体が固くなる。
話すテンポが軽くて、間がない。
言葉がポンポン飛んでくるたびに、私の返事はワンテンポ遅れる。
「あ、そうだ。今度の土曜日さ、学科の友達と買いもの行くんだけど、松田さんも行かない?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
“みんな”という言葉が、まるで別の世界から投げられたように聞こえる。
テンパった私は「えっと、分かった」と半ば無意識に答えていた。
谷原さんは私の反応が予想外だったのか、少し間を空けてから
嬉しそうに「じゃあまたね」と手を振って去っていった。
はぁ、と息を吐いて私はふと隣を見る。
そこに山崎さんの姿はもうなかった。
いつの間にか帰っていたらしい。
机の上にペンだけがぽつんと置き忘れられていて、私はなんとなくそれを見つめた。
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