第7話 深夜の脱出

  僕はベッドから音もなく立ち上がり、革の鞄を背負う。隣では、バエルが既に美しい黒猫の姿に変わって、床で僕を見上げていた。彼女の金色の瞳が、暗闇の中で「準備はいいわね?」と問いかけている。僕は小さく頷き返し、破壊された扉の隙間から、そっと廊下へと滑り出した。


 月明かりが差し込む廊下は、まるで巨大な獣の肋骨の中を進んでいるかのように、不気味に静まり返っていた。僕たちは息を殺し、壁の影から影へと移動する。兄たちの部屋の前を通り過ぎる時も、僕の心は凪いでいた。もはや彼らは、僕の人生において関わる価値のない、過去の存在でしかなかった。


「……にゃ」


 バエルが小さく鳴いて、僕の足元で立ち止まった。視線の先、廊下の角から、見回りの衛兵が持つランプの明かりが揺れているのが見える。僕は咄嗟に、近くにあった甲冑の影に身を潜めた。衛兵の足音が近づき、遠ざかっていく。その間、僕の心臓は嫌というほど冷静だった。恐怖はない。ただ、計画を遂行するという冷たい目的意識だけが、僕を支配していた。


 衛兵が完全に去ったのを確認し、僕たちは召使い用の階段へと向かう。埃っぽく、きしむ音を立てる階段を、猫のようにしなやかに下りていく。一階の厨房は、冷たい竈の匂いと、残飯の微かな匂いが混じり合っていた。


 と、その時。厨房の奥から、ガタ、と小さな物音がした。

 僕とバエルは、大きな調理台の影でぴたりと動きを止める。現れたのは、眠そうな顔をした若い料理人だった。どうやら、水を飲みに来たらしい。


(まずい……!)


 見つかれば、全てが終わる。僕が息を呑んだ、その瞬間。

 僕の足元にいたバエルが、音もなく調理台の向こう側へと駆け出した。そして、棚の端に置かれていた銅の鍋を、前足で器用に床へと突き落とした。


 ガシャン!


 けたたましい音が、厨房に響き渡る。

「ひっ! ね、鼠か!?」


 料理人は完全にそちらへ気を取られ、慌てて明かりを手に物音のした方へ向かっていく。その隙に、僕たちは電光石火の速さで厨房を駆け抜け、裏口の扉へとたどり着いた。


 外からかけられた古い錠は、母から教わった簡単な解錠の魔術で、音もなく開いた。ひやりとした夜気が、僕の頬を撫でる。自由の匂いがした。


 僕たちは東の庭を抜け、屋敷を囲む生垣の切れ目から、ついに外の世界へと足を踏み出した。しばらく走り、屋敷の姿が見えなくなる森の入り口で、僕は足を止めて振り返った。


 月明かりに照らされたソロモン家の屋敷は、巨大な墓標のように、静かにそびえ立っていた。僕が生まれ、育ち、そして全てを奪われた場所。だが、そこに感傷はなかった。


「必ず、戻ってくる。そして、僕から全てを奪った者たちに、相応の報いを」


 静かな誓いを胸に刻み、僕は森へと深く踏み入った。


 人の気配が完全になくなったのを確認すると、バエルがふわりと光に包まれ、元の少女の姿に戻った。彼女は僕の隣に並ぶと、楽しそうに笑った。


「なかなかスリリングだったわね。でも、ここからは私の庭よ」

「頼りにしているよ」


 二人で森の小道を進んでいく。虫の声と、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。屋敷の息苦しい沈黙とは違う、生命に満ちた静寂が心地よかった。


 だけれども、後ろから何かの気配がした。明るい光と熱。木が爆ぜる様なパチパチとした音。

 振り返るの僕の視界に、木々の間から見える明かり。

 

 ソロモン屋敷が燃えていた。


「…………これは……」

「さて、エラン」


 ソロモン屋敷に良い想い出なんか無い。母と暮した日々は遠く、母の遺品は持ち出して来た。母への思いは僕の胸に刻み込まれ、あの家とはもはや関係が無い。

 あそこにいるのは、醜悪でしかない兄たち。

 心の奥底で火でもつけてやろうか、と思っていた。でも僕は実行に移していない。


 驚く僕の顔を楽しげに覗き込む猫耳の少女。


「この私だけじゃ、あなたの復讐の旅は心細いでしょう? もう一人紹介するわ」


 暗い森の間を走り抜けて、僕の足元に辿りついたものがいた。銀に近い灰色の毛並。

 犬……と思ったけど、どこか違う。人に飼いならされていない存在。……この獣はもしかして狼。


「アモン、上手くやったのね」

「ああ……私は口から炎を吹く獣とされている。あんな古い家に火をつける程度朝飯前だ」


 少し声のトーンは低いけれど、若い女性の声。その声は狼の喉から出ていた。

 僕の視線を受けているのを感じたのか、狼は身震いをして、その直後姿が変わった。

 それは女性だった。まだ若い女性。銀色に光る髪は短く切り揃えられ、バエルの柔らかさに比べて、硬い雰囲気を漂わせる。武人のような、と言ったら言い過ぎだろうか。


「今回はバエルに言われて、特別に参上した。エラン様に直接召喚して戴ける時を待っている」


 そう言うと彼女は姿を消した。


「彼女はアモン。エラン、彼女も含めてそろそろ、『ゴエティア』の他の子たちも呼んであげたら?」


 彼女の言葉に、僕は背負った鞄に手をやった。そこに眠る、母の遺品。七十二柱の悪魔の力が記された魔導書。


「ああ、そうだな」

 僕は夜空を見上げ、静かに答えた。

「森を抜けるまでは、君の力だけで十分だ。でも、その先では……きっと、彼らの力が必要になるだろう」


 僕の言葉に、バエルは満足そうに微笑んだ。

 僕の復讐は、まだ始まったばかり。そして僕の味方は、この世界で最も強力で、最も美しい悪魔たちなのだから。

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