第3話 影の男

 僕がまだ生まれていなかった頃のことを、宮殿では繰り返し語り合っていた。

 廊下の片隅、灯りの弱いランプの下で囁かれる声。刺繍枠を膝に置いた姉たちが、ふと手を止めて思い出す声。祈りのあとに洩れる、母の深いため息。そうした断片を嗅ぎとりながら、僕は次第にひとつの影を知るようになった。


 ――ポーランドでのこと、1912年。


 彼が八歳のとき。

 狩猟の館で遊んでいた彼は、石段から小さく転んだ。それはほんの些細な転倒に見えたのに、血は止まらず、体の奥で流れつづけた。夜ごと苦痛の叫びが部屋を揺さぶり、侍従たちは右往左往し、医師たちは処置を繰り返したが、何も効かなかった。

 母は眠らず祈り続け、父は遠い戦線から電報を送りつづけていた。

「助けてくれ」

 その言葉が帝国のどこに届いたのか、誰も知らない。

 やがて医師の一人が告げた。

「もう助かりませぬ」

 その声は鋭く、石のように冷たく響いた。葬儀の支度が始まるほどだったという。

 だがそのとき、一通の電報が宮殿に届いた。


 ――心配するな。少年は死なぬ。――


 署名は、グリゴリー・ラスプーチン。

 それから不思議なことに、出血は収まり始めた。熱もひいていった。

 母は涙を流し、「奇跡だ」と口にした。それ以来、母はラスプーチンを「聖人」と信じた。

 けれど使用人の囁きを、僕は後で耳にした。

「医者たちが与えていた薬をやめただけなのだ」

 その真偽を、犬の僕に確かめる術はない。ただひとつ確かなのは、母がラスプーチンに全幅の信を置くようになったこと。そして、その信仰が宮殿の空気を変えてしまったことだ。


 僕が初めてその男を見た日、匂いでただちに悟った。

 汗と酒と香水が混じり、さらに獣じみた、欲望と権力の匂いをまとった人間が近づいてくる。

「今日、あの方がいらっしゃる」

 母の声は昂りと畏れが入り交じっていた。

 廊下では侍従たちが身を寄せ、押し殺した声で言い合っていた。

「またあの男が」

「皇后陛下は言いなりだ」

「国が滅びるぞ」

 やがて扉が開いた。

 重い足音とともに、黒い影が差し込む。

 ラスプーチン。

 粗野に見せかけた髭、意図的に乱した衣、そしてなにより黒い目。深く沈んだ瞳は、動物を射すくめる蛇のように、見る者を逃さなかった。だが犬の僕には効かない。僕は本能で低く唸った。

「おお、これが皇太子殿下か」

 低い、ざらついた声。彼に近づき、手を伸ばす。僕は歯を剥いた。

「ジョイ」彼が僕を抱き上げて制した。「静かに」

 けれど、うなるのをやめることはできなかった。

 ラスプーチンは彼の足に手を置いた。

「痛みはあるか」

「少し」

 彼は小さな声で答えた。その頬には笑みが浮かんでいたが、目の奥に一瞬、怯えが走った。

「大丈夫だ。お前は強い子だ。だが、私がいなければ危うい。私だけが、この子を救える」

 ラスプーチンの言葉は母の心を直撃した。彼女は震えながら、「どうかこの子を」と祈るように言った。

「だからこそ、私を遠ざける者は敵だ」

 ラスプーチンは声を低くし、「もし私が追われれば、この子は――」と続けた。

 母の顔が蒼白になり、すぐさま誓った。

「あなたを守ります。あなたなしではアレクセイは生きられない」

 僕は知った。この男は彼を利用して、母を支配している。

 その支配がやがて帝国全体に影を落とすのだと。


 それからというもの、ラスプーチンの出入りは頻繁になった。

 彼の体調が悪化すれば必ず呼ばれ、母は必死に縋った。

「お願いします、またあの子が」

 ラスプーチンは祈りを口にし、額に手をかざす。彼が祈りの指を動かすとき、一瞬だけ空気が静まり、時間が止まったような感覚があった。

「奇跡だ」母は涙を流した。

 だが僕には、彼の言葉が恐怖を餌にしていることがわかった。

 彼が去った後の部屋には、母の祈りの言葉の湿った熱気が残っていた。その瞳は、蝋燭の炎を見るたびに、遠い故郷の空を思い出すように揺れていた。


 姉たちの声も変わった。

「ママはまたラスプーチンを呼ぶのね」

「本当に必要なのかしら」

「でも、アレクセイが苦しまないなら……」

 針が止まり、長い沈黙が流れる。窓辺で本を閉じたマリヤの横顔には影が差していた。

 ナゴルニーはある夜、僕を撫でながら記録するように呟いた。

「犬は正しい。君が唸るとき、私はあの男に近づくなと感じる」

 その声は忠誠の証であり、危険の告知のようでもあった。

 ナゴルニーの影が壁に長く伸びる。ジョイはそこに、言葉にできない重い疲労の匂いを嗅ぎ取った。


 台所の奥で、兵士たちの声が聞こえたことがある。

「俺の家には、小さな畑がある。ジャガイモがとれれば、冬は越せる」

 短い一言。けれどその声には、遠い生活の重さがすべて詰まっていた。

 僕は耳を伏せた。宮殿の祈りと兵士の畑の話との距離は、あまりに遠かった。


 ラスプーチンの足音が響くたび、宮殿の匂いは重く濁った。

 彼は「救済者」と呼ばれた。だが僕にとっては、牙を隠した捕食者だった。

 その黒い目は、彼を守る母を捕らえ、見えない縄でしばりつけていた。

 そして彼は、彼を――まだ無垢な少年を――盾にしながら、帝国の中枢へと入り込んでいったのだ。

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