アレクセイとジョイ――ロシア皇太子と犬の物語

霧原ミハウ(Mironow)

第1話 温かい手

 僕が「彼」に出会ったのは、まだ世界が匂いと音と温もりでできていた頃だった。

 その日、広い部屋には見慣れぬ匂いが渦巻いていた。蝋燭の甘い煙、床に染みついた古い薬のにおい、侍従たちの黒靴から立ちのぼる革の匂い。だが、その中にひとつだけ、特別な匂いがあった。甘く、不安げで、それでいて優しい――僕の鼻先を引き寄せる匂いだった。

「ジョイ」

 小さな声がそう呼んだ。その瞬間、世界がぱっと定まった。僕はその音を、体じゅうで受け止めた。それが自分の名前になることなど、まだ知らなかったけれど。

 布団の上から伸びてきた手が、僕の頭に触れた。冷たい。けれど、奥には温もりが確かにあった。その手は小さく、震えていた。なぜ震えているのか、僕にはわからなかった。ただ、その震えごと抱きとめるように、もっと撫でてほしいと尻尾を振った。

「ママ、この子、とても静かだね」

 その声はとても高く、幼さを残していた。

「そうね。名前はジョイ。あなたに喜びをもたらす子よ」

 母の声は深く、少し哀しげに揺れていた。

「ジョイ、いい名前だね」

 彼は僕を抱き上げた。頬を舐めると、塩の味がした。それが涙の味だと知ったのは、ずっと後のことだ。

「僕はアレクセイ。皆、アリョーシャって呼ぶ。ジョイは僕の友達だね」

 僕は嬉しくなって吠えた。笑いがはじけた。


 その日から、僕と彼は離れなくなった。

 朝、目を覚ませば彼の匂いがあった。夜、眠るときは必ずそばにいた。ベッドの中、毛布の隙間、彼の呼吸の音――それが僕の世界のすべてになった。

 アレクセイ――彼の光を吸い込むような淡い茶色の髪は、太陽の下で金色の輪を作る。その空と同じ青い目は、僕を見るときだけ、王冠の重さから解放された子犬のように丸くなる。

 僕はよく覚えている。彼の白い頬は、少し熱が上がるとすぐに蝋のように黄色くなった。細い首筋からは、服の下の鼓動が触れられるほど近くに感じられた。軍服を着ていても、彼の細い肩は布の重さに負けているように見える。だが、姉たちと遊ぶときの擦り切れた膝のズボンは、世界で一番自由な土の匂いがした。

 宮殿では姉たちの笑い声がよく響いた。


「まあ、またジョイを抱いて寝ているわ」

「殿下より犬のほうが王座に近いんじゃない?」


 年上の姉さんオリガとタチアナのからかいに、彼は頬を赤くして笑った。末のアナスタシアは僕にこっそりビスケットをくれる。静かで内向的なマリヤは本を読みながら、時折僕の耳を撫でてくれた。

 父が部屋に入ってくると、軍服の匂いが一気に広がった。鉄と煙草と外気の匂い。それは外の世界の匂いだった。父は無口に僕の髪を撫で、目を細めた。ほんの数分の短い逢瀬でも、その手はいつも重たくも温かかった。


 けれど、幸せだけの日々ではなかった。


 時々、彼は苦しそうに顔をしかめ、ベッドから起き上がれなくなった。些細な転倒や打ち身が、長い苦しみに変わることもあった。侍医たちが慌ただしく出入りし、器具の金属音と消毒液の匂いが部屋を満たした。母の声は泣き出しそうで、それでも必死に祈りを重ねていた。

 僕はただ、彼のそばで丸くなり、動かずにいた。なぜそうするのかはわからなかった。けれど、じっと寄り添うことが正しいと、僕の体の奥で知っていた。

 彼が僕の背中に手を置く。その手は震えていた。でも、温かかった。

「ジョイ、君だけは変わらないね」

 僕は尻尾をほんの少しだけ動かした。


 ――ここにいるよ。ずっとここに。


 窓の外では雪が静かに舞っていた。

 白い世界が広がっても、僕にとって大切なのは彼の体温だけだった。


 ある日、母が長いドレスの裾を揺らしてやって来た。

 薔薇と香水の匂いに包まれたその人の瞳は、どこかいつも悲しげだった。

「アレクセイ、体はどう?」

「今日は痛くないよ」

 彼は無邪気に笑った。

 母は彼の額に唇を押し当てた。そして僕に目をやり、撫でながら言った。

「ジョイ、あなたがこの子を守るのよ」

 僕は尻尾を振った。それがどれほど重い言葉かわからなかったけれど、胸の奥で何かが熱くなった。

 その夜、彼は眠る前に僕の耳に囁いた。

「ママはよく泣いている。僕のことが心配だからだよね。ジョイ、僕は大丈夫だよ、ね?」

 僕は短く吠えた。もちろんだ、と伝えるように。


 季節は移ろい、窓の外には雪解けの匂いが漂った。

 けれど、僕はもう知っていた。

 彼の人生には、光と同じくらい影が寄り添っていることを。

 そして、その影の深さを和らげられるのは――僕のぬくもりと、震える小さな手の温かさしかなかった。


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