22話. 破壊の連鎖と、目覚めた恐怖

22話. 破壊の連鎖と、目覚めた恐怖

ガルドの剣が、港湾都市セルシアの空気を切り裂いた。


ドォン!という轟音は、単なる物理的な衝撃ではなかった。

それは、何千もの住人の意識に埋め込まれた永遠の待機という名の静寂を打ち破る、一つの暴力的な情報だった。

彼の両手剣が最初の巨大なクレーンの支持柱に叩きつけられた瞬間、火花が散り、鋼鉄が悲鳴を上げた。

その音は、まるでシステムのコアにウイルスが書き込まれる際の、不協和音のようだ。


しかし、街はまだ動かない。


メインストリートに立ち尽くす数万の住人たちは、誰一人として振り向きもせず、瞬きすらしない。

魚屋は魚を捌く動作を空中で止め、商人は帳簿を開いたまま。

彼らの体は温かいが、その意識は深い睡眠状態にある。

ガルドが生み出した衝撃波は、彼らの耳を打ち、鼓膜を震わせたはずだが、彼らの脳はそれを認識するに値しない、環境ノイズとして完全に無視し続けている。

彼らのプログラムは頑なだった。

「次の命令が来るまで、待機せよ。

」その一文が、彼らの存在全てを支配していた。


アルトは、立ち尽くす群衆の真ん中にいた。

彼の胸元の矛盾の欠片が、今や凄まじい勢いで熱を帯び、脈打っている。

ガルドの剣の轟音と振動を、アルトは敢えて自由への確信という自身の感情と共振させた。


(彼らの意識は、まるで分厚い壁の奥にあるようだ。

普通のノイズや恐怖は、壁の外で霧散してしまう。

ガルドの破壊は、その壁を物理的に叩いている。

俺の役割は、この叩く音を、彼らの意識の最深部にある待機ロジックの鍵穴に流し込むことだ……!)

アルトは、自分の意識を、増幅器となった矛盾の欠片を通じて、街全体に広げた。

彼は、住人一人一人の意識の隙間に入り込もうと試みる。

彼が送るのは、「次は、お前が破壊されるかもしれない」という、予測不能な情報だ。


ガルドは、狂気の戦士と化していた。

彼はアルトの冷徹な命令の意図を完全に理解していた。

これは、物流インフラを破壊することではない。

これは、依存の象徴を、住人たちの目の前で、不可逆的な物理現象によって消し去る儀式だ。


「どけ!貴様らの安全は、もう終わった!」

ガルドは雄叫びを上げ、二本目のクレーンの支持柱に、身体を回転させながら渾身の一撃を叩き込んだ。


鋼鉄は悲鳴を上げ、亀裂が走る。

その亀裂は、単なる金属の断裂ではなく、住人たちの待機ロジックに生じた最初のバグのように見えた。


ドゴン、ドゴォン!

ガルドの破壊は、効率性とは無縁の、純粋な暴力の具現化だった。

彼は剣を振り回し、重い鎧を躍動させ、クレーンの巨大な構造物を次々と打ち崩していく。

三本目のクレーンが、重力に従って港湾の地面に倒壊した。


ガシャアアアアン!!

金属が砕け散り、巨大な粉塵の柱が立ち昇る。

この物理的な大災害は、静止していた街にとって、まさに世界の終わりを意味するはずだった。


しかし、住人たちは、依然として動かない。


「くそっ!まだだというのか!」ガルドは吠えた。

彼の体からは汗が蒸発し、鎧は粉塵と油で汚れている。


セリアは、街路の影に隠れながら、唇を噛み締めていた。

彼女の心臓は激しく鼓動している。

彼女は、今にも飛び出す準備を整えていた。

彼女の有限な光は、この破壊の波の中で、最初の一歩を踏み出す勇気に変わる、唯一の希望の燃料だからだ。


(アルト様の言った通り、彼らは恐怖を感じていない。

彼らのシステムは、自己保全よりも命令の順守を優先するようにプログラミングされている。

破壊が彼らの待機を破るには、破壊が彼ら自身の役割の存在意義を直接否定しなければならない……)

アルトの分析が正しかった。

セルシアの住人の意識は、非常に洗練された形でロックされている。

彼らの待機ロジックは、クレーンの倒壊という外部イベントを、自身の内部ステータスに関係のないものとして処理していたのだ。


だが、ガルドが四本目のクレーンを、その支柱の最も重要なジョイント部から切り離した時、異変が起きた。


それは、クレーンが倒壊する直前のことだった。

そのクレーンの真下、かつて貨物の積み下ろしを管理していた場所で、手書きの伝票を握りしめたまま立ち尽くしていた一人の男がいた。

彼は元々、港湾における積み下ろし品の照合作業という役割を持っていた。


クレーンがガルドの一撃でバランスを崩し、傾き始めた瞬間、男の顔が、ほんの一瞬だけ、痙攣した。


それは恐怖の表情ではない。

「エラー」の表情だ。


彼の内部コードには、こう書かれていたに違いない。


if (役割対象: クレーン == 稼働状態) 待機ロジック: 継続 else if (役割対象: クレーン == 破壊状態) 待機ロジック: 破棄 実行ロジック: 稼働不可を報告

しかし、報告すべき中央システムは存在しない。

彼のロジックは、稼働不可を報告という最終的な実行に移ることができないまま、無限ループに陥っていた。


クレーンが、彼に向かってゆっくりと、だが確実に倒れてくる。


その時、男は逃げなかった。

恐怖に怯え、後ずさりしたのではない。


彼は、握っていた伝票を、クレーンの倒壊する方向とは逆の、安全な場所へと、放り投げた。


その行動は、「自分の命の保全」よりも、「自分の役割の成果物(伝票)」の保全を優先した、最後の役割ロジックの断末魔だった。


伝票を放り投げた瞬間、彼の待機ロジックを縛っていた最後の鎖が断ち切られた。

彼は、もはやクレーンへの依存を持つ役割ではない。


クレーンが彼の頭上 20 メートルの高さまで迫った時、彼の顔に、初めて本物の、純粋な恐怖が浮かび上がった。

そして、彼は、倒壊するクレーンとは全く無関係な方向へ、全力で駆け出した。


「逃げろ!」

その声は、何万もの沈黙の中で、初めて発せられた、意思という名の音だった。


セリアは、その男の動きを、全てを見逃さなかった。

彼女は、彼の「逃げろ」という言葉が、「生きろ」という本能的な意思に他ならないことを知っていた。


「今です、アルト様!」

セリアは、影から飛び出した。

彼女の細い手が、男が倒壊から逃れ、力尽きて石畳に倒れ込んだ瞬間に、その背中に触れた。


そして、彼女の有限な光が、灯された。


それは、アスタニアで老婆に与えた光よりも、遥かに強く、速い光だった。

セリアは、自らの生命エネルギーを燃焼させ、この光の「対価」を、男の意識の核に叩き込んだ。


光を受けた男は、全身を震わせ、そして、激しく泣き始めた。


彼の目から流れ出た涙は、何日もの間、乾ききっていた瞳から溢れ出した、本物の感情だった。


「俺は……俺は……何も……しなくていいのか……?」

彼は、泣きながら、自らの無意識に問いかけている。


「いいえ、あなたは何でもしていいのです」セリアは、顔の血の気を失いながらも、優しく答えた。

「あなたは、逃げるという、最も重要な選択を、自らの意思で選び取った。

その意思が、あなたを、この世界の定型文から解放したのです」

セリアは、その場で膝をついた。

一人の人間を救うために支払った、自らの生命力の代償は大きかった。


アルトは、セリアの消耗と、男の涙が、街に新しいノイズを発生させているのを感知した。


それは、恐怖ではなく、違和感だ。


数万の住人たちは、まだ動かない。

だが、彼らの意識の奥底で、待機ロジックが、「未定義の事象:生きたNPCが、破壊イベントに対応せずに自律行動し、かつ、泣いている」という、致命的な情報を処理し始めている。


この未定義の事象こそが、アルトがガルドの破壊で生み出そうとした、動的バグだった。


ガルドは、最後のクレーンに剣を突き立てていた。


「どうだ、アルト様!奴らの待機コードは破られたか!」

「ああ、ガルド!見事だ!だが、終わらせるな!彼らの意識が、次の待機に戻る前に、決定的な、不確定な情報を叩き込め!」

ガルドは、雄叫びを上げ、最後のクレーンを完全に倒壊させた。


ゴォオオオオオオオオオオンン!!

五本目のクレーンの倒壊は、街全体を揺るがした。

地面は激しく振動し、数十年ものの古い建物から、漆喰や瓦が落ち始めた。


この瞬間、ついに連鎖反応が始まった。


クレーンの倒壊によって、彼らの真上にあった窓枠の漆喰が、立ち尽くす元学生の頭上に落ちた。

彼は、依然として教科書を読みかけのポーズのまま。


しかし、漆喰が彼の頭にぶつかった瞬間、彼の待機ロジックは、外部からの予期せぬ傷害という、システムにとって最も優先度の高い割り込み信号を受信した。


彼は、動き出した。

教科書を落とし、頭を抱える。

そして、彼の口から出たのは、定型文ではない、純粋な呻き声だった。


「痛い……っ!」

その「痛み」の信号は、連鎖した。


隣にいた元教師の男は、彼の「痛み」の動作を見て、自身の中の役割ロジックで唯一残されていた生徒を指導するという本能的な指令に触発された。


「どうした、落ち着け!君の行動は、危険だ!周囲をよく見ろ!」

元教師の男は、立ち尽くす状態から、周囲の状況を確認するという、自律的な行動へと移行した。


アルトの目の前で、数千もの蝋人形が、まるで呪縛から解放されるように、次々と動き始めた。


彼らは、逃げ惑う者。

地面に座り込む者。

そして、破壊者であるガルドに向かって、無言で歩み寄ろうとする者。


セルシアの街は、静的平衡から無関心を経て、今、混乱(ダイナミック・カオス)へと移行したのだ。


セリアを抱き起こしたアルトは、この混乱こそが、彼らが望んだ自由の最初の代償であることを理解していた。


「セリア、よくやった。

この男の意思が、街のノイズを塗り替えた」

アルトは、港湾の岸壁に立ち、破壊の煙と、動き始めた群衆を背景に、胸元の矛盾の欠片を掲げた。


「聞け!セルシアの住人たちよ!」

彼の声は、欠片の力で増幅され、街の全ての隅々まで響き渡る。

その声は、命令でも、説得でもない。

それは、システムメッセージのようだ。


「お前たちの待機ロジックは、実行エラーにより停止した。

お前たちの役割の象徴は、破壊された」

群衆は、アルトの言葉に耳を傾ける。

彼らは、新しい命令を待っているのだ。


「お前たちが待っていた管理者は、二度と現れない。

お前たちが頼りにしていたシステムは、自壊した」

アルトは、ガルドのいる港湾の方を指さした。

ガルドは、剣を構えたまま、群衆の反応を待っている。


「ガルドは、お前たちの依存を破壊した。

彼は、お前たちに恐怖を与えたのではない。

彼は、お前たちの次の行動を、お前たち自身で決めよという、究極の選択を突きつけたのだ!」

アルトは、群衆を見下ろした。

彼らの瞳には、まだ戸惑いと不安が渦巻いているが、もはや焦点の合わない、蝋人形の目ではない。

彼らは、生きた人間の目をしていた。


「俺は、お前たちに新しい役割を与えない。

俺は、お前たちに新しい秩序を命令しない」

「お前たちの手には、自由という名のエネルギーが残された。

そのエネルギーを、略奪に使うのか? 逃走に使うのか? それとも、新しい街を創るという、最も困難な創造に使うのか?」

「それは、俺が決めることではない。

お前たち自身が、今、ここで、選択する番だ!」

アルトの演説は、短く、そして、決定的な問いかけで終わった。

彼は、彼らに空白のキャンバスを与えたのだ。


その夜、セルシアの街は、アスタニアとは全く異なる様相を呈した。


アスタニアでは飢えという原始的な本能がパニックを引き起こしたが、セルシアでは痛みと恐怖によってロジックが解除され、その後に訪れたのは、どうしていいかわからないという、深い意思の欠落による混乱だった。


ガルドの破壊によって発生した粉塵は、夜空の月明かりを遮り、街は暗闇に包まれている。


アルトは、セリアとガルドと共に、街の最も安全な高台で、その混乱の様子を静かに見守っていた。


「アルト様。

彼らは……動き出しましたが、次に何をするか、予測できません」セリアは疲労困憊の状態だが、意識ははっきりとしていた。

「彼らは、破壊者であるガルド様を敵と見なすかもしれません」

「その通りだ。

彼らの最初の意思の選択が、俺たちへの敵対である可能性は、十分にある」

アルトは、ガルドを見た。


ガルドは剣を鞘に収め、ただ静かに群衆を見つめている。

彼の顔には、この破壊がもたらした罪の意識のようなものは一切見えない。

あるのは、達成感と、次に起こる事態への覚悟だけだ。


「ガルド。

彼らがもし、お前を裁こうとすれば……」

「アルト様」ガルドは遮った。

「俺の規範は、貴方への忠誠、そして自由と責任の秩序を確立することです。

もし、彼らが破壊への報復という最初の自律的な意思を選択したなら、俺は彼らの選択の自由を尊重します。

そして、彼らがその選択によって新しい秩序を確立するまで、俺の剣が防御の規範として立ちはだかるだけです」

ガルドの言葉は、まるで彼自身の内部コードが書き換えられたことの証明のようだった。

彼はもはや、単なる戦士ではなく、生きた規範となっていた。


アルトは、静かに頷いた。

彼らがこの街で達成したのは、人々に行動を強制すること。

その後の選択は、もう彼らの手から離れている。


「よし。

俺たちは、この街が自己修正を始めるまで、見届ける」

「そして、この街が、報復ではなく、再生という選択をすることを祈ろう。

それが、俺たちがこの世界に植え付けようとしている、新しい公理だ」

夜は更けていく。

セルシアの港湾には、破壊されたクレーンの残骸が、夜明けを待つ群衆の影を映していた。

彼らが、次に何を選択するのか。

それは、この世界が熱的死から動的平衡へと向かうのか、それとも無秩序な暴力へと逆戻りするのかを決定する、最も重要な一瞬だった。

アルトは、この意思の混乱の真っ只中で、自分自身がこの世界の理を変える動的なバグであることを、改めて強く自覚していた。

この旅は、終わりの見えない、意思と選択の戦いだ。


夜明けが、ゆっくりとセルシアの街を照らし始めた時、アルトは、群衆の中に、昨日セリアが光を与えた男が、立ち尽くしているのを見た。

彼は、泣き腫らした顔で、破壊されたクレーンの残骸を、ただ見つめている。

彼の目には、恐怖ではなく、失われたものへの、深い理解が宿っていた。


その理解が、彼にどのような選択をさせるのか。

アルトは、息を詰めて見守った。

彼の旅は、まだ始まったばかりだ。

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