「風の残響」

詩守 ルイ

プロローグ:「語りと精霊の火」

紅蓮王国・戦術局書庫。

月光が差し込む窓辺で、ユグ・サリオンは詩集を開いていた。

椅子は硬く、背筋は伸びすぎて、もはや拷問に近い姿勢だった。


(この椅子、敵より手強い。語りの火を灯す前に、尻が滅びる予感がする。精霊が家具に宿ってくれたら、戦術設計はもっと快適になるのに)


ページをめくると、ふわりと光が揺れた。

小さな粒のような精霊が、ユグの肩に止まる。


「……また来たな、ルクス」


ユグは微笑む。

この精霊は、語りの火にだけ反応する唯一の存在。

誰にも見えず、誰にも語らず、ただユグの語りに寄り添う。


(君は、詩の虫か?それとも椅子の精霊か?……いや、僕の妄想に付き合ってくれる唯一の存在だ)


「……また詩集? 戦術士って、もっとこう、地図とか使うんじゃないの?」


セリナ・ノクティアが背後から声をかけた。

香環術を操る精霊術師。彼女の声は柔らかく、けれどどこかくすぐるような響きを持っている。


「これは戦術詩集だ。語りによる戦術設計の基礎資料。

つまり、椅子の硬さから逃げるための精神的防壁でもある」


「椅子に負けてる時点で、戦術士としてどうなのよ」


「敵より椅子の方が情け容赦ない。少なくとも、帝国兵はクッションを使うかもしれない」


セリナはくすくすと笑った。

「じゃあ、精霊に頼んでクッションでも呼ぶ? “語りの座”って名前で」


「それはそれで神話化しそうで怖い。『語りの座に宿る精霊』とか、伝承になりかねない」


ユグは詩集から目を離し、彼女を見た。

「理想は、戦より複雑だ。敵は予測できるが、君の笑顔は予測不能だ」


(予測不能な微笑み。戦術設計に組み込めるかもしれない。敵軍の士気を乱す魔導姫の笑顔……いや、味方の集中も乱れるか)


セリナは眉を上げた。

「それって、称賛?それとも挑発?」


「分析しただけだ。感情は含まれていない。あと、胃痛も含まれていないといいんだが」


「ふふ、じゃあ私は“予測不能な微笑み”として、戦術書に載せておいて。

“敵軍の士気を乱す魔導姫の笑顔”って」


「それは兵士の心を乱すだけでなく、戦術士の集中も乱す。あと、椅子の硬さも忘れさせる」


ユグは詩集を閉じた。

その表紙には、古代語で『六星の残火』と刻まれている。


「ねえ、ユグ。あなた、本当に戦いたくないんでしょう?」


セリナの声が、ふと静かになった。

彼女はユグの隣に腰を下ろし、月光の中で彼の横顔を見つめる。


「戦いたくないよ。勝ちたいだけだ。できれば、誰も死なずに。

理想は、胃痛と引き換えにしか手に入らないらしいけど」


(戦場で語りが届けば、剣は抜かれない。届かなければ、詩はただの独り言だ)


「それって、魔法みたいな理想ね」


「魔法は代償で叶う。理想は代償を払っても、椅子と胃痛しか残らない」


セリナはしばらく黙っていた。

そして、そっとユグの肩に頭を預けた。


「……あなたの理想、好きよ。叶わなくても、好き」


ユグは驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を逸らした。

「……君は、時々、爆撃より破壊力がある」


「それ、好意的に解釈していいのかしら?」


「記録上の事実にすぎない。あと、椅子より柔らかいのは助かる」


そのとき、書庫の扉が静かに開いた。

黒衣の影術士――リュミナ・ヴァルティアが、無言で二人を見つめていた。


「……戦術会議の時間です、ユグ様。セリナ殿も、そろそろ巫女の儀式の準備を」


彼女の声は冷たくはないが、感情の起伏を感じさせない。

月光に照らされた瞳は、どこか寂しげだった。


「ありがとう、リュミナ。すぐ行く。あと、椅子の交換申請も出しておいてくれ」


「……椅子の硬さは、戦術に含まれますか?」


「今のところ、最大の敵だ」


セリナは笑いながら、ユグの袖を引いた。

「じゃあ、行きましょう。予測不能な笑顔と、理想主義の戦術士と、感情を隠す影術士で」


「……戦術的には最悪の組み合わせだ」


「でも、物語的には最高よ」


ユグは小さく笑った。

その笑顔は、戦場では決して見せない、静かな安らぎの色をしていた。


その夜、語りの火が初めて灯った。

ユグの語りに、精霊が無意識に集まり始めた。

香りが場を包み、沈黙が余白を作り、光が輪郭を描き始める。


その光を描いていたのは、イルミナ・フェルナだった。

彼女は誰とも目を合わせず、式図の端に小さく座っていた。

指先は震えていたが、光の座標は完璧だった。


「……第3軌道、安定。精霊、反応……してる、かも……」


彼女の声は小さく、誰にも聞かれていないと思っていた。

でも、精霊はその声に、そっと寄り添った。


ユグの肩に止まっていたルクスが、ふわりと浮かび、イルミナの式図の上を一周して戻ってきた。


(ルクス、君も認めたのか。彼女の光は、語りよりも優しい。

精霊が逃げないのは、語りの火が彼女の光で包まれているからかもしれない)


語りは、構造ではなく、感情だった。

戦術ではなく、理想だった。

そして、精霊はその理想に、そっと寄り添った。


| 語りは、精霊の場を呼び起こす。

| 火は、構造ではなく、記憶として灯る。

| まだ、誰も知らない。

| この火が、滅びを焼く日が来ることを。

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