森の向こうに
岩田わくも
第1話 旅人
「その森は、何処にあるの?」
「この先の分校の裏だ」
「分校って?」
分校がどこにあるかなんて、聞かなくてもわかっていた。
でも、ぼくには…それしか答えられない。おびえて飛び上がりそうなのを我慢して、とぼけたふりをした。
あそこには、今は誰も近寄らない。
門はカサブタのように赤黒くさび付いて傾き、「立入禁止」の看板は読むのも難しいほどペンキが剥げ落ちている。そこからは呪いがただよう。割れ放題に割れて一枚のガラスも残っていない窓は、もう長い間空を映さない。聞くところによるとその昔学校の先輩が忍んで行っては肝試しとやらで石を投げてガラス窓を壊したらしい。そんな罰当たりな事、最近の小学生はやらない。そいつらの怨念も引き受けてただひっそりと佇んでいる。
誰も寄せ付けない空間が、静かに時を止めていた。
「廃校になってから十年だ。
いくらも時間が経ってないのに恐ろしいほど蔦が絡んでしまって、人間の世界はなんとも脆いもんだな。
あれじゃ全くの廃墟だ。この辺りもすっかり変わってしまった。
子供の頃は楽しかった…今じゃこんなになっちまったオレもあの頃は怖がりで、そのくせ向こう見ずで…
サミってやつがいてな、そいつは何より釣りが好きで、すぐに約束を破って跨ぎ橋まで行く…大人は何でも頭ごなしに駄目って言う…そのくせ、何で駄目なのか説明しようともしない。本当のわけを自分達だって知らないんだ。オレ達は駄目って言う声を気にしながら…内緒で何度も潜り込んだものさ」
そう言うと、どういう訳で隣り合わせて座ることになってしまったのか、一風変わったなりをした、ここらで見かけない旅人がゆっくり目を閉じて、懐かしそうに深呼吸した。
歳がわからない。大人ぶって話しているのに、大人を嫌っている。そんな話し方だった。
「約束って、その跨ぎ橋は行ってはいけないところなの?」
たいした興味もないくせに、話の腰を折るのが嫌で合いの手を入れた。
「跨ぎ橋どころか、森に、橋渡しの森に入るだけでこっぴどく叱られたもんだ。
今じゃ行く奴もいないか?
あの頃は、人間じゃない生き物も平気な顔してそこら辺にいて、同じ物を飲んだり食べたりしていたから、下手をすると喧嘩になる。けんかにならんように上手に境界線を引いて、そこから踏み込まんように注意していたのさ。この世界も異界のものが住まなくなって、すっかりつまらなくなった。
人間だけの世の中なんて、まったくくだらんさ」
吐き出すような独り言に、息は詰まり、目ばかりがギョロつきながらも、怖がっていると見られたくないホンのちょっとの意地で平気な顔を作って返事をしてみた。
「何処に行ってしまったの?その、異界の者って?それって人間じゃないの…」
僕は聞いた。
「人間とは違う、ぜんぜん違う、人間より知能が高く、空を飛んだり、消えたりできる。
驚く事は無い、この村じゃ昔からそいつらと上手く付き合ってきたんだ。
今ごろはどっかで美味いもんでも食べて、愉快に暮らしてるんだろうよ。窮屈に暮らしている俺達を高みの見物さ…あいつらはさ、明るく生きる事が天才的に上手いんだ」
彼はそう言うとギロッとあけた目を急に細めてケラケラと笑った。
そして、厄介そうに腰をあげると、カバンの中から何やら取り出し、うれしそうに見せてくれた。
それはセピア色に染まった古い写真。
少年と、釣竿を持った子供、その二人の横に取り澄まして写っている狐顔の老人と小ぶりな巻き毛の男。巻き毛の男の背中には八手の葉のような羽がパタパタと動いてフワフワ軽そうに宙に浮いていた。写真を見て目をギョッと見開いた僕の様子を見つけて、
「風の使いが見えるか?」
迷わず指をさすと
「そうか、見えるか」
そう言ってその男は嬉しそうに笑った。
冗談なわけが無い。こうやって羽をパタつかせた『風の使い』とかいう、頭の痛くなる巻き毛の男が見えてしまうんだ。そうじゃなくても嘘を言っているとは思えない、彼が放つ圧倒的なオーラ。
ぼくは吸い寄せられる魅力にドキドキしながらも…正面に回って顔を見るのは恐ろしくて横目で様子をうかがっていた。
「この羽はな、誰にでも見えるってもんじゃない。
死ぬまで見える奴もいるし、お前の歳でももう見えない奴もいる。
覚えておきたいことは心に刻んで、無くしてしまわないように必死にならなくちゃ綿菓子のようにしぼんで忘れてしまうんだ。
オレは必死に忘れないでいる。だからこうやって、写真の中のみんながいつまでも笑ってくれるんだ」
その時、気味悪がっていただけの僕の心に小さな灯りが点った。今じゃこの辺りにいないと言う、異界の生き物達に遭ってみたいと思った。
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