第29話 空を見上げる者たち

 鐘の音が止んだあと、街はしばらく静まり返っていた。

 その静寂は、まるで呼吸を潜めるようだった。

 だが、やがてその沈黙を破るように、遠くで太鼓の音が鳴り始めた。


 ——ドン、ドン、ドン。

 軍の行進を告げる音。


 直哉とリュミナは、教会の屋根からその光景を見下ろしていた。

 黒い鎧をまとった兵士たちが、教会を取り囲む。

 胸元の紋章には、燃える剣と翼の印。

 それはグラウナを支配する《聖戦団(セイレア)》の紋章だった。


「……やっぱり来たか。」

 リュミナの声が震えていた。

「この街で鐘を鳴らすのは、禁じられてるの。神への反逆だって……。」


 直哉は唇を噛んだ。

 あの音は、希望の証だったはずだ。

 それなのに、人を裁く理由にされるのか。


 ヴァルグの影が彼の足元で揺れた。

『少年。敵の気配は二十……いや、三十を超える。逃げるか? 戦うか?』


「……逃げられない。」

 直哉は小さく首を振った。

「リュミナを……この祈りを、奪わせるわけにはいかない。」


 その目は、もう“恐怖”を知らなかった。


     * * *


 兵士たちが扉を破壊して雪崩れ込む。

 火矢が飛び、古びた木壁が燃え上がった。

 直哉は影の中に手を伸ばす。


「ヴァルグ、お願いだ!」

 狼の影が弾け、黒い霧となって広がる。

 霧が床を這い、敵の足元を絡め取った。


 悲鳴が上がる。

 闇の中を駆ける影狼の群れ。

 ヴァルグの力は、怒りに呼応するかのように強くなっていた。


 直哉はその中心に立ち、震えるリュミナを背中にかばう。

 火の粉が降る中、剣を構えた兵士が迫る。


「子供だと? 異能か! 捕らえろ!」


 剣が振り下ろされる瞬間、直哉は地を蹴った。

 ヴァルグの影が彼の動きを包み、獣のような反射神経を与える。

 刃が風を裂き、兵士の腕を弾き飛ばした。


「……僕はもう、逃げない!」


 叫びと同時に、蒼い光が胸元の紋章から放たれた。

 その光が空へと昇り、灰の雲を割る。


 瓦礫の街に、青い光柱が立ち上がった。

 その光を、地下にいたカイたちも見上げていた。


「……直哉?」

 カイの呟きに、周囲の子供たちがざわめく。

 久しく見なかった、“空を見上げる”という仕草が、そこにあった。


     * * *


 戦いの火は、やがて鎮まった。

 兵士たちは撤退し、教会は半壊していた。

 直哉は肩で息をしながら、倒れたリュミナに駆け寄った。


「リュミナ!」

 彼女の額には血が滲んでいる。だが、目はまだ光を失っていなかった。


「……鐘の音、届いたね。」

 かすれた声が笑う。

「外の人たち、見てた……空を見上げてたよ。」


 直哉は言葉を失った。

 涙が頬を伝い、手が震える。


 ヴァルグが静かに呟いた。

『この子の祈りが、街の心を動かした。

 お前の光が、それをつないだのだ。』


「……僕、まだ何もできてない。」

「でも、始まったよ。」

 リュミナが微笑む。

「“誰かを守る”ってことは、祈りを続けることだから。」


 外では、再び灰色の雨が降り始めた。

 だが、教会の鐘楼には、確かに光が宿っていた。

 崩れかけた女神像の頭上に、青い炎のような灯が揺れている。


 ヴァルグがそれを見上げる。

『この街は、まだ終わってはいない。』


 直哉は、雨の中で静かに誓った。

「僕がこの街を守る。……みんなが空を見上げられるように。」


     * * *


 その夜。

 遠く離れた森の中、焚き火を囲む一人の青年が、灰色の空を見上げていた。

 長男・悠斗だった。


 空の彼方に、青く瞬く光を見つけて彼は小さく呟く。


「……誰か、まだ、生きてる。」


 風が、祈りの鐘の余韻を運んでいた。

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