第5話 湖のほとりで

 冷たい風が頬を撫でた。

 遠くで波の音がする。


 ——まぶしい。


 瞼を開けると、そこには見たこともないほど青く透き通った湖があった。

 雲ひとつない空を映し、光を砕いて宝石のように輝いている。


 「……どこだ、ここ……?」


 悠斗は体を起こした。

 制服姿のまま。胸のエンブレム——通学中に着ていた高校のブレザー。

 靴も、リュックも、何もかもそのままだ。


 ——事故。トンネル。トラックのヘッドライト。

 脳裏に、あの日の光景がよぎる。


 確かに、あの瞬間——死んだはずだった。

 にもかかわらず、今こうして生きている。


 辺りを見回す。湖のほとりには森が続き、鳥の声が響く。

 どこまでも自然に満ちていて、人工物の影が一切ない。

 スマホを取り出すが、当然電源は入らなかった。


 「まさか……ここが、異世界……?」


 口に出した瞬間、胸の奥がざわついた。

 ゲームや小説でしか知らなかった言葉。

 だが、今の状況を説明できる理屈は他にない。


     * * *


 そのとき、湖面が揺れた。

 中心から、光が噴き上がる。


 眩しさに思わず目を覆う。

 次の瞬間、光の中から一羽の鳥が飛び立った。

 翼が透明な水晶のように光を放ち、宙を滑空していく。


 「……なに、あれ……」


 その美しさに息をのむ。

 まるで、現実離れした神話の一幕のようだった。


 鳥が去った後、静寂だけが残る。

 悠斗はふらりと歩き出し、湖の縁にしゃがみこんだ。

 水面に映る自分の顔を見つめる。


 「俺だけ……なのか」


 声が、風に溶けた。

 母も、父も、紗奈も、直哉も——誰もいない。

 事故の瞬間、みんな叫んでいた。

 なのに今、自分だけがここにいる。


 そのとき、背後で馬のいななきが聞こえた。


 「おい、そこの少年!」


 振り向くと、荷馬車が停まり、男がこちらを見ていた。

 日焼けした顔に無精髭。背には旅の荷を積んでいる。


 「怪我はないか? まさか湖に落ちてたのか?」

 「……はい、たぶん」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 男は呆れたように笑い、手を差し出した。


 「まぁいい、運が良かったな。こんなところ、魔獣に出くわしたらひとたまりもねぇ」


 魔獣——その単語に、現実味が一気に増す。

 悠斗は手を取って馬車に乗り込んだ。


     * * *


 「俺はギド。流れの商人だ。お前さんは?」

 「……悠斗です」

 「ユウト、か。妙な名前だな。東方の出か?」


 どう答えればいいのかわからず、黙るしかなかった。

 ギドは気にした様子もなく、荷物の奥から干し肉を差し出した。


 「腹、減ってるだろ」

 「……ありがとうございます」


 口に含むと、噛みごたえがあり、塩気が強い。

 だが、妙にうまかった。


 「この辺はアルト湖の外縁だ。北の街に向かう途中で拾ったんだ、運が良かったな」


 (アルト湖……?)

 父・健二が探している場所と同じ名だとは、もちろんこの時の悠斗は知らない。


 馬車は森を抜け、道なき道を進む。

 やがて丘を越えた時、遠くに広がる町並みが見えた。

 石壁に囲まれ、煙突から白い煙が立ち上っている。


 「着いたぞ。アーレンの町だ」


     * * *


 宿屋で休んだ夜、悠斗は不思議な感覚で目を覚ました。

 胸の奥が熱い。体の内側を、何かが流れている。


 ——いや、“流している”というべきか。


 手をかざすと、空気がわずかに揺らいだ。

 光が指先に集まり、淡い球となって浮かぶ。


 「……これが……魔法?」


 思考が加速する。

 物理法則を無視するような現象。

 しかし、体の奥にある“力”を意識するほど制御できる。

 それはまるで、呼吸のように自然だった。


 彼は指先の光を見つめた。

 淡い光球がふっと消える。

 その瞬間、確信した。


 「……俺は、この世界で“力”を持ってる」


 生き延びるための希望。

 家族を探すための手段。


 同時に、その力が——彼の運命を大きく変えることになる。


     * * *


 翌朝、ギドが声をかけてきた。

 「ユウト、旅立つ前に一つ聞く。お前、魔力は使えるか?」

 「……少しだけ」

 「やはりな。目の色でわかる。東方の血を引く者は、魔に親しい。


 ちょうどいい。王都の魔法学院が見習いを募ってる。身元のない子どもでも入れる」


 「学院……?」


 ギドは地図を広げ、王国の中心を指した。

 「ルメリア王国の《アルトリア魔法学院》だ。才能があれば、平民でも生きていける。お前のような奴にはうってつけだ」


 悠斗はしばらく黙って考えた。

 この世界で生きるためには、力が必要。

 そして、知識があれば——家族の手がかりにも近づける。


 「……行きます。その学院に」

 「よし、決まりだ」


 ギドは笑い、彼の肩を軽く叩いた。

 その瞬間、外の空に二つの月が昇り始めていた。


 悠斗はそれを見上げ、静かに誓った。


 ——必ず、家族を見つける。


 たとえ、この世界の果てにいても。



---


補足:設定更新(第5話時点)


◆地名:アルト湖(Lake Alto)

北方の大湖。転界者の出現が多いとされる“境界の地”。

湖の中央には古代遺跡が沈んでいると伝えられる。


◆魔力感知

一部の人間は体内に“魔素(マナ)”を感じ取り、意識的に操作できる。

生まれつきその量が多い者は貴族階級に属することが多い。


◆ギド

行商人。実は元冒険者で、王都にも顔が利く。

悠斗にとって初めての“師匠”のような存在になる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る