第3話 異界の村
崖を転げ落ちた衝撃で全身が痛む。
息をするたびに肋が軋んだ。
だが、それでも健二は立ち上がった。
遠くに見える村の煙が、まるで命の証のように思えた。
何も知らないこの世界で、初めて“人の営み”を感じさせるものだった。
ふらつく足取りで草原を進む。
足元の草は日本のものよりも背が高く、刃のように硬い。
太陽は見慣れぬ軌道を描いており、空の青さはどこか金属的な冷たさを帯びていた。
村へ近づくにつれ、柵が見えてきた。
木と石を組み合わせた防壁が村を囲い、見張りらしき人物が立っている。
その手には槍。服装は麻布と革を合わせたような簡素な装備。
(……まるで中世ヨーロッパの村みたいだ)
健二は慎重に両手を上げ、敵意がないことを示した。
見張りの男が警戒の声を上げる。
当然、言葉は通じない。
「オル・ザナ? ……ラトゥ・ヴェルカ?」
「……ごめん、何を言ってるのか全然わからない」
男は首をかしげ、仲間を呼ぶ。
数人が集まり、健二を取り囲んだ。
武器を向けられたまま、どうすることもできない。
「ま、待ってくれ! 俺は——」
そう言いかけた瞬間、足の力が抜けた。
全身の疲労が一気に押し寄せ、意識が暗闇に沈んでいく。
* * *
柔らかな布の感触で、健二は目を覚ました。
藁を詰めた寝台。天井は木の梁。
どこか懐かしい匂いがする。
「……ここは?」
体を起こすと、隅の椅子に誰かが座っていた。
栗色の髪をした若い女。粗末な布の衣をまとい、青い瞳がこちらをじっと見つめている。
「……フェル・アナ?」
また聞き慣れない言葉。
しかしその声は敵意を含まず、むしろ心配げだった。
女は水の入った木椀を差し出した。
健二は一瞬ためらったが、喉の渇きに勝てず受け取る。
水は澄んでおり、冷たくてうまい。
「ありがとう」
「……アリ、ガト?」
女が小首をかしげる。
健二は慌てて笑ってみせた。
言葉は通じないが、笑顔は万国共通——そう信じた。
その後、老人が入ってきた。
灰色の髭をたくわえ、杖をついた穏やかな男。
どうやら村の長老のようだった。
老人は女と何か話したあと、健二の手を取った。
「ヴェル・マーナ・ルク……」
その言葉とともに、杖の先が淡く光る。
温かな光が健二の体を包み込み、先ほどまであった痛みがすうっと消えていく。
「……え?」
目の前の光景に、健二は息を呑んだ。
明らかに現実離れした現象。
しかし痛みが引いていく感覚は確かだった。
「まさか……魔法、か」
老人はうなずいた。
健二の言葉がわからないはずなのに、その表情はまるで理解しているかのようだった。
* * *
日が暮れるころ、健二は少し歩けるまでに回復していた。
女——名を「リナ」と名乗った——が食事を運んできてくれる。
煮込まれた根菜と肉のスープ。香草の香りが強いが、意外にも旨い。
「リナ……サン?」
「リナ。……リナ・ノ・ヴァーン」
彼女は自分を指差し、笑顔で名を告げた。
健二も真似をして、自分を指差す。
「ケンジ」
「……ケン、ジ?」
たどたどしくも、彼女はその名を口にした。
言葉は通じなくとも、互いに理解しようとする意志があれば、少しずつ距離は縮まる。
その夜、健二は村の子どもたちに囲まれながら、身振り手振りで会話の真似事をした。
笑い声があがり、久しぶりに心の底から安堵した気がした。
——この世界にも、人の温かさはある。
* * *
翌朝。
村の広場で、健二は老人と再び顔を合わせた。
彼の名は「トーガ」。この村の長老であり、同時に「癒しの司(ヒール・マスター)」と呼ばれる存在だという。
トーガは杖を地面に突き、何やら詠唱を始めた。
地面に淡い光の紋様が浮かぶ。
「ルーク・アーニャ・ス・エルド……」
耳を澄ませていると、言葉の響きが不思議と頭に染み込んでくる。
次の瞬間、健二の意識に微かなさざ波のような音が流れ込んだ。
——〈理解の加護〉が発動しました。
唐突に、意味が“わかる”。
トーガの口から出る言葉が、まるで翻訳されたかのように頭に響いてきた。
「……聞こえるか?」
「え、あなたの言葉が……わかる……?」
驚く健二を見て、トーガは静かに微笑んだ。
「神の恩寵が汝を導いたようだ。この地に来た異邦の者よ」
「神の……恩寵?」
「そう。この世界に迷い込む“異界の魂”には、まれに〈言葉の加護〉が与えられる。古くは『転界者(てんかいしゃ)』と呼ばれていた」
その言葉に、健二の心臓が跳ねた。
「転界者……?」
「遠い世界から来る者。記憶を持ち、姿を保ち、時に奇跡をもたらす。だが同時に、災厄をも呼ぶとも言われておる」
トーガの視線は穏やかだが、その奥には畏れが潜んでいた。
(……やっぱり、そういう世界なんだ)
健二は、自分がただの“迷子”ではないことを悟った。
異世界に転生した存在——“転界者”。
この世界における、その名は、伝説と恐れの両方を意味するらしい。
「トーガさん……家族を探しているんです。同じように、俺と一緒にいた者たちです」
「……ふむ。ならば〈導きの神〉の神殿へ行くとよい。この世界に迷い込んだ者は、必ず一度、あの地に辿り着くと言われておる」
希望が、胸に差し込んだ。
健二は拳を握る。
たとえこの世界の果てでも、家族を見つけ出す。
それが、唯一の目的だ。
リナが彼の傍に寄り、微笑んだ。
「ケンジ、イコ……ミラ・ハルナ?」
——一緒に行くの? そう聞かれているのだと、直感でわかった。
健二は静かにうなずいた。
「……ああ。行こう、一緒に」
二つの月が青空に並ぶ昼。
一人の異界の男と、一人の村娘の小さな旅が始まった。
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補足:世界設定メモ(第3話時点)
◆世界名:ルミナ=アルディア
二つの月を持つ惑星。文明レベルは地球で言う中世後期。
魔法と神聖術が共存する社会。国家は信仰と魔力で支えられている。
◆魔法体系
魔力(マナ)を生命エネルギーとして扱う。
発動には「詠唱(コトバ)」と「意志(イメージ)」が必要。
属性は六系統:炎・水・風・土・光・闇。
一般人は初級魔法(生活用)までしか使えない。
◆宗教・信仰
「導きの神エリシア」:迷える魂を他界から導く存在。
転界者(他世界からの魂)はエリシアの恩寵とされるが、同時に災厄の前触れともされる。
◆社会構造
村落連合と都市国家が存在。
各地に魔法ギルド・神殿・領主が支配権を持つ。
貨幣は「ルメル金貨/銀貨/銅貨」。
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