第2話 森の魔獣と異界の言葉
小川のせせらぎが、静かな夜に溶けていく。
健二は川辺に腰を下ろし、両手で水をすくった。冷たい水が喉を潤す。
恐怖と混乱でまだ頭が回らない。だが、少なくとも理解できたことがひとつある。
——ここは日本ではない。
見上げれば、空には二つの月。
あの異様な光景を見てから、夢だと思う余地はなくなった。
「……俺は死んだのか。それとも……」
思考が渦巻く。
あの衝撃で全員即死したとしても不思議ではない。
もしこれが死後の世界だとしたら——家族もどこかにいるはずだ。
いや、そう信じたいだけかもしれない。
森の中には虫や鳥の声が絶えない。だがその音の奥に、かすかな低音が混じっていた。
地面を踏みしめるような重い足音。
「……またか」
木の陰に身を潜め、耳を澄ます。
やがて、暗がりの向こうに影が現れた。
月明かりに照らされて姿を現したのは、さきほどの獣と似た種だった。
だがそれよりも一回り小さく、背に傷を負っている。
まるで縄張り争いに敗れた獣のようだ。
健二は息を潜め、石を手に取る。
もし襲ってきたら、今度こそ逃げ切れる保証はない。
しかし、獣は彼に気づかぬまま川の水を飲み、再び森の奥へ消えていった。
ほっと息をついた瞬間、足が震えていることに気づいた。
恐怖ではない。体力が限界なのだ。
昼の事故から、もうどれほど時間が経ったのかもわからない。
「……休まなきゃ、持たないな」
近くの木の根元に寄りかかり、体を預ける。
木の匂い、土の湿り気。どこか懐かしい感覚に、まぶたが重くなっていく。
——夢を見た。
暗いトンネルの中で、家族の声が聞こえる夢。
呼びかけても応えはなく、ただ光だけが遠ざかっていく。
手を伸ばすが、届かない。
* * *
朝日が差し込む。
鳥のさえずりで目を覚ました健二は、体を起こした。
首筋が痛い。体中がこわばっている。
しかし、夜を越えられたというだけで、胸に安堵が広がった。
日差しの方向を確かめ、川沿いを歩き出す。
方向感覚はほとんどないが、水の流れに沿っていけば、いずれ人里に出られるかもしれない。
そう信じて進むしかなかった。
何時間歩いたのか。腹が鳴る。
腹痛のような空腹感が襲ってくる。
森の中を見回すと、低木の実が目に入った。小ぶりな赤い果実だ。
「まさか……食えるのか、これ」
毒の可能性はある。だが、他に食べ物はない。
覚悟を決め、一粒を口に運ぶ。
——酸っぱい。だが、食えないほどではない。
噛むたびに果汁が広がり、空腹が少しだけやわらぐ。
数個を腹に入れたところで、再び異音がした。
「……今度はなんだ?」
森の奥から、複数の足音。
人のものだ。
健二は反射的に木陰へ身を隠した。
数人の男女が姿を現す。
衣服は見慣れない布でできており、腰には刃物。
狩人のようだが、どこか粗野な雰囲気を漂わせている。
「……ニィグ・ラストゥ、ヴェルハ・グロッサ……」
聞き取れない言語が飛び交う。
しかし、声の抑揚や仕草から、会話をしていることだけはわかる。
(異国……? いや、そんな次元じゃない)
見た目は人間に近い。だが、耳がわずかに尖っている者もいる。
そして彼らの背中には、奇妙な光を放つ紋章のような模様が浮かんでいた。
「まさか、魔法……?」
健二は思わず小声で呟いた。
その瞬間、彼の靴裏が小枝を踏み、ぱきりと音を立てた。
全員の視線が一斉にこちらを向く。
「……やばい」
次の瞬間、狩人の一人が何かを唱えた。
口の中で短い呪文をつぶやいたかと思うと、掌に青白い光が集まり、矢のような形を取る。
「嘘だろ……!」
光の矢が飛ぶ。
とっさに地面に身を投げ出す。光弾が背後の木を貫き、煙を上げた。
焦げた匂いが鼻を突く。
——本当に魔法だ。
恐怖が理性を上回り、健二は再び逃げ出した。
木々の間を必死に駆け抜ける。
背後から叫び声が追うが、意味はわからない。
ただ、捕まれば命はない。直感がそう告げていた。
やがて視界が開け、崖の上へと出る。
眼下には広大な平原が広がっていた。
森が途切れ、遠くに煙が上がる。
人の営みの跡——村だ。
「……助かった……のか?」
一瞬の安堵。
だがその直後、背後から風を切る音がした。
光弾が頬をかすめ、地面が爆ぜる。
健二は崖の端で足を止め、振り返った。
追っ手が迫る。あと数メートル。
もはや逃げ場はない。
恐怖と覚悟が交錯する中で、健二の胸の奥に奇妙な熱が走った。
——ドクン。
心臓の鼓動が、何かを呼び覚ます。
体の内側で、光が瞬いた。
周囲の空気がわずかに震える。
「な、なんだ……これ……!」
次の瞬間、健二の周囲を淡い青の膜が包んだ。
狩人の放った光弾がその膜に弾かれ、霧散する。
男たちが驚きの声を上げた。
健二自身も、何が起きているのか理解できない。
——だが今は考えるな。
そのまま崖を飛び降りた。
風を切り裂き、体が宙に舞う。
下には草の茂る斜面。運に任せて転がり落ち、痛みに耐えながらも息をつく。
生きている。
腕にかすかな光が残っていた。
まるで、自分の意思に呼応して現れたかのようなその力。
「……まさか、これが……魔法?」
信じがたい。
だが、そうとしか思えなかった。
息を整え、健二は改めて遠くの村を見つめた。
家族を探すためには、まずこの世界を知る必要がある。
その第一歩が、今始まる。
青い膜の残光が消える中、健二はふらつく足取りで村へと歩き出した。
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