異世界一家離散
たこ焼き
第1話 あの日の終わり
その日、山間の国道を走るレンタカーの中には、五人の笑い声が満ちていた。
父・健二はハンドルを握りながら、久々の家族旅行を心から楽しんでいた。助手席では妻・美咲が地図アプリを眺め、後部座席では高校生の長男・悠斗、中学生の長女・紗奈、小学生の次男・直哉が、窓の外を指差して騒いでいる。
「見て、滝! すごい高さ!」
「お兄ちゃん、岩が顔みたい! ほら、芸人のあれに似てない?」
「似てるか? いや、ちょっと怖ぇよそれ」
はしゃぐ子どもたちを見て、美咲が穏やかに笑う。
健二はバックミラー越しに家族を見やり、胸の奥に温かいものを覚えた。
——これでいい。忙しい毎日も、無理に働く日々も、すべてこの瞬間のためにある。そう思えた。
車は山のトンネルに差しかかる。
長い闇へと滑り込んだその瞬間、健二はわずかな違和感を覚えた。
——ヘッドライトに照らされた路面が、揺れて見える。
「……?」
軽くアクセルを戻した、まさにそのとき。
視界の奥、闇の中から何かが飛び出してきた。
それは、中央線をはみ出した大型トラック。制御を失い、こちらへ突っ込んでくる。
「危ないっ!」
美咲の悲鳴。子どもたちの叫び。
健二は反射的にハンドルを切るが、狭いトンネルでは逃げ場がない。
金属音が世界を裂いた。
激しい衝撃。
視界が白に塗りつぶされ、重力が崩れる。
最後に健二の意識に残ったのは、家族の名前を叫ぶ自分の声だった。
* * *
——冷たい。
肌を撫でる風の感触で、健二は目を開けた。
そこは見知らぬ森の中だった。
濃密な緑の香り。湿った土の匂い。木々のざわめきと、どこか遠くで響く鳥の鳴き声。
事故現場の喧騒も、アスファルトの匂いもない。あるのは、生命の息吹に満ちた異質な世界。
「……夢か?」
思わず呟く。だが、指先に触れる土の感触があまりに現実的だった。
痛覚もある。息を吸えば肺が熱い。夢ではない。
服装は事故前のまま。体には傷一つない。
しかし、レンタカーも家族の姿もどこにも見当たらない。
「美咲……悠斗……紗奈……直哉……!」
叫ぶ。声が森に吸い込まれる。
返事はない。ただ、風が木々を揺らし、遠くから獣の遠吠えが響いた。
胸の奥に冷たいものが広がる。
——まさか、自分だけが生き残ったのか?
いや、それよりも……本当に“生きている”のか?
考えがまとまらないまま、足元の石を拾い上げる。
ずっしりと重い。指に伝わる冷たさも確かだ。
これは夢ではない。
だとすれば、いったいここは——。
そのとき、茂みががさりと揺れた。
「……誰だ!」
声を張り上げる。
しかし返ってきたのは低い唸り声だった。
現れたのは、犬に似た毛むくじゃらの獣。だがその体長は人の背丈ほどもある。赤く濁った瞳が、こちらをまっすぐ射抜いた。
唇から覗く牙は鋭く、唸りとともに唾液が飛ぶ。
狩りを前にした獣の目だった。
「……冗談だろ……?」
健二は後ずさる。
獣は地を蹴った。低く、速く、まるで矢のように迫ってくる。
「うわっ!」
咄嗟に拾った石を投げる。石は顔面に直撃したが、獣は怯まない。
怒りを増したように唸りを上げ、飛びかかってくる。
健二は本能のままに逃げ出した。
森を駆け抜け、木々をすり抜ける。
足がもつれ、転びそうになる。呼吸は荒く、喉が焼ける。
背後から、地を蹴る音が近づく。
息をするたびに、恐怖が肺を締め付ける。
(ここで死ぬのか……? こんなところで?)
崖沿いに出た瞬間、足が滑った。
重力が消え、世界が回転する。
痛みとともに地面に叩きつけられ、意識が一瞬遠のく。
気づけば、崖下の小川のほとりに倒れていた。
全身が痛むが、骨は折れていないようだ。
獣の姿はない。どうやら追ってこなかったらしい。
泥にまみれたまま、健二は息をつく。
空を見上げると、木々の隙間から夜空が覗いていた。
そこには、二つの月が浮かんでいた。
「……二つ?」
見間違いではない。
一つは青白く、もう一つは淡い赤を帯びている。
その光景を見た瞬間、健二は悟った。
——ここは、地球ではない。
恐怖と同時に、奇妙な確信が湧く。
あの事故で、自分は確かに“終わった”。
ならばここは、死後の世界か……あるいは、“別の世界”なのか。
胸の奥に微かな希望が灯る。
もし、ここに自分が来たのなら——家族も、どこかにいるはずだ。
健二は拳を握りしめ、濡れた地面に立ち上がった。
「……待ってろ。必ず、見つけ出す」
二つの月が見下ろす中、ひとりの男の異世界での旅が始まった。
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