花札の香り

七川 / Nanakawa

第1話 夏柳の庭

 祖父の家の縁側から眺める光景は、とても美しいです。風に揺れるしだれ柳。仲睦まじく飛び交うモンキチョウ。私にとってこの場所は、死者の世界に最も近い場所なのかもしれません。空き家同然となってしまいましたが、ここには私と祖父のかけがえのない思い出の跡が、数多く存在しています。


 大学を卒業して、6年ほどが経ちました。小学生の時に震災で両親を亡くし、その後祖父とも死別しました。以来何度も心が折れそうになりながらも、今日まで生きてきました。今は都市近郊のとある一般企業に勤務しています。そんな人間の昔話に、お付き合いください。



 「何かの為に生きようとする必要なんて、ありません。藍之介君、命というものは、自身を謳歌するためにあると、私は思います」



 不登校だった小学生当時、私がよく言われた言葉を今でも思い出します。体格が小さく、自己主張ができなかった私は、一部のクラスメートからいじめを受けていました。先生に何度も相談をしましたが、まともに取り合ってもらえず、途方に暮れていました。原因が何だったか、もうよく思い出せません。当時のことを考えようとすると、途端に脳機能が停止したかのように、何もできなくなってしまうのです。


 小学生だった私から見た祖父は、ぶっきらぼうに優しい人でした。少し頑固なところはありましたが、身寄りを無くした私のことを、彼なりに気にかけてくれました。学校に行けなくなり、塞ぎこんでいた私に、祖父は色んな遊びを教えてくれました。天気がいい日は魚釣りをしたり、カブトムシを取りに行ったりしました。

 祖父の家は、日本海に面したとある田舎町にあるとだけ言っておきましょう。とにかく自然が豊かな場所でした。釣れた魚は、毎回祖父が料理をしてくれました。鱚の天ぷらは、今でも私の大好物です。


 一人暮らしをしていると、時々祖父の料理が恋しくなります。だし巻きに、魚のアラが入ったお味噌汁、パリパリに焼いたソーセージと、お漬物の朝食。時々記憶を辿りながら、見よう見まねで作ってみています。祖父のようにうまくはいきませんが。


 雨が降った日は、花札をしました。当時の私は外に出て遊ぶより、こういった遊びの方が好きでした。縁側で雨音を聞きながら、二人で向かい合って花札を並べている時間が、当時の私にとって何よりの幸福でした。この思い出のおかげなのか、花札を見ると胸中が温かくなります。


 日が短くなり銀杏が散り、雪が積もって桜が咲き、雨が続く季節になった頃、祖父にすい臓がんがあることが判明しました。診断を受けた時には既に病状は進行していて、他の臓器にも転移があったようです。祖父は治療ではなく、緩和ケアというものを受けることになりました。


 祖父からその話を聞いたとき、私はその事実を受け止めきれませんでした。それでも祖父は、私のことを最後まで気にかけてくれました。余命こそ教えてくれませんでしたが、私は今の自分にできる最大限の感謝と恩返しをしたいと思いました。


そして、私は再び学校に行くことを決意しました。


 最初は保健室登校から始まりましたが、徐々にクラスメートと同じ授業を受けるようになりました。学校が楽しいとは言えませんでしたが、暴力や暴言を受けずに、一日を終えることができるようになりました。その頃には、祖父はすっかり痩せてしまい、病院のベットで余生を過ごしました。


 祖父との2度目の夏休みが始まって数週間が経った頃、祖父の命は灯籠のように、緩やかに死者の国へ流れていきました。最期まで彼は威厳を保ち、私のことを心配しながらも、何かを遺そうとしていました。緩和ケアには痛みが伴うようなのですが、私の前では決してそのような素振りを見せることはありませんでした。


 祖父の穏やかな死は、夕立とともに訪れました。あの夏からずっと、私の心には空白があります。その空白は、日々の忙しさで紛れることはあっても、決して埋められることはありません。


 さて、昔話はこのぐらいにしておきましょう。蝉時雨と夏の日差しが降り注ぐお盆休みに、毎年のように私は祖父の家を訪れます。祖父が亡くなって以来、空き家同然になってしまいましたが、近所の人が時々様子を見に来てくれているようです。まずそのご近所の方にお礼を兼ねたお中元を持っていき、それから家を軽く掃除し、一日過ごします。


 祖父の家は、私が普段暮らしている1Kのアパートから随分離れた場所にあります。電車を乗り継ぎ、小さな駅の近くで車を借り、片道5時間ほどかかります。早朝から外出していたので、昼食を食べると大抵眠くなります。


 縁側で涼しい風を浴びながらうとうとしていると、気がつけば日が沈もうとしていました。お墓参りには、明日車を返却するついでに行くことにしました。

 

 中途半端に昼寝をしてしまうと、夜眠れなくなることってありますよね。そのまま何をするわけでもなく、静かな夕暮れを眺めていると、いつの間にか満点の星空が浮かんできました。

 田舎の夜は思いのほか涼しく、風の音が心地良いです。妙に頭が冴えたまま、花札を並べてみます。せっかくならと、クーラーで冷やしていた日本酒でもを飲みましょう。最近ようやくお酒が美味しいと思えるようになってきました。

 お猪口を二つ並べ、順々に注ぎます。花札の絵柄を見ていると、雨の音と祖父の声が、聞こえてくるかのようです。


 私は自身の境遇を、何度も呪いました。幼くして両親と死別し、転校先では理不尽に虐げられ、施設では孤独な青春を過ごしました。苦労の末に行った大学では、同級生たちとの格差を目の当たりにし、アルバイト漬けの日々で何度も体調を崩しながら仕事と学業に追われていました。

 社会人になった今でも、苦労性は健在です。器用に人付き合いができるわけでもなく、雁字搦めな毎日を過ごしながら、何かを消耗し続けています。給料がいいわけでもないですが、奨学金の返済もあるため、すぐに仕事を辞めるわけにはいきません。


 いっそ庭のしだれ柳で鳴いている蝉のように、刹那的に生涯を終えることができれば、どれほど美しいだろうと思うことも多々あります。ですが、私には祖父とのかけがえのない思い出たちが沢山あります。それを手放したくないがために、ただそれだけを頼りに、私はまだ生きていたいのです。

 


 花札が散らかった薄暗い縁側で、私は目を覚ましました。体の節々が痛いです。固い床で布団も敷かずに寝れば、当然の結果ですが。


 さて、いつまでも感傷に浸っている訳にはいきません。折角のお盆休みです。時間は淀みなく過ぎていきます。休日も、この先の人生も、私は謳歌する義務があるのですから。いつか、自身の人生を愛する日が来るだろうと思うことにしましょう。


 祖父の家が遠ざかっていきます。連休が明ければ、また忙しない日々の繰り返しです。早朝から夜遅くまで仕事に行き、たまに友人と会い、お盆にはこの家に帰ります。


 旗から見れば、無意味な生涯に見えるかもしれませんが、私は私の命を謳歌しています。いつか死後の世界というものがあり、天文学的な確率で祖父に会えたら、私は第一声にこう言うのでしょう。


「花札でもしましょう」と。

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