母への餌付け

あれから数日。

その間、ぼくは一度もお母さんの姿を見ることはなかった。寝室のドア越しに短い会話をし、最後に簡単な食事を載せたトレーを部屋の前に置く。

「今日もスープとサラダ作っておいたよ。あと、今日は卵も使ったお母さんの得意なお粥も作ったよ。食べたら、トレーごと廊下に出しておいてね」

お母さんのやりとりはそれだけだった。


その間、今までお母さんがやっていた家事は全てぼくがすることになった。料理、食器洗い、洗濯、掃除。

今までも積極的にそれらの手伝いはしてきたが、まさかこんな形で役に立つとは思っていなかった。

本音を言うなら、こんな形で役に立ったことには、複雑さを抱いた。そうは言っても、今それらが出来なかったら困るので、文句は言ってられないのだが。


ぼくは朝昼晩ごとに料理を作り、お母さんの寝室前に行き、1時間経ったらトレーとそれに置かれた食器類を回収して洗うようにしていた。最初の頃は、容器はどれも空になっていた。ちゃんと食べてるようで安心していたが...



それから更に数日が経ったある日。

作った食事をいつものようにトレーに乗せてお母さんの部屋の前に置くと、その1時間後に訪れたのだが...


「あまり減ってない...?」

スープの容器は空になっていたが、サラダは半分ぐらい、お粥に関してはほんの少ししか減っていなかった。


ぼくはたまらなくなってドアの向こう側にいるであろうお母さんに呼びかける。

「ちょっとしか減ってないけど。味不味かった?」

案の定返事はなかった。



「今から作り直すから、食べてよね」

ぼくはそう言うと食器類をキッチンに持っていき、再度同じものを作って部屋の前に置いた。ちなみにお母さんが残したサラダとお粥はぼくが食べた。


その1時間後に来たが、やはり残ったままだった。しかも手をつけた形跡もない。


「食べてって言ったよね!?」

ぼくは苛つきを抑えられず、またあの時のように怒鳴った。

「食べなきゃ栄養が尽きるよ!こないだ心配しないでって言ったのは口だけだったの!?返事してよ!?」

返事はない。



ぼくは冷静さを欠き、中へ押し入ろうとドアのレバーを下げた。しかし鍵がかかっていて開かなかった。


「鍵を開けてよ、お母さん」

「...嫌」


久々にお母さんの返事を聞いたが、その声はあまりにも消え入りそうなものだった。


「開けてよ」

「嫌!」

「開けてってば!」

「嫌って言ってるでしょ!」


その押し問答は数分も続いた。



ぼくは一度手を引いた。一方的にまくし立ててもこの状況を打開することは出来ないと思ったからだ。


「分かったよ...今日はゆっくり寝るんだよ」

それだけ言って、ぼくはお母さんに作っていたお粥とサラダを食べ、夜もすっかり更けていたのでそのまま眠った。



今のやり方では無理だと判断し、他のやり方も探ることにした。


・ドアの前で24時間張り込み

・脅迫してムリヤリ出させる


手段を選ばなければ、お母さんを部屋から出すことは簡単だっただろうが、ぼくはやりたくなかった。しかし、そんなことは言ってられないのも確かなので、早速やることにした。



結果はどちらも失敗。張り込みはお母さんが出てくる前にぼくの疲れが限界に達し、脅迫するのは余計にお母さんの萎縮を招くだけで終わった。


この頃、春休みは既に中盤に差し掛かっており、高校生活には大して期待はしていなかったが、お母さんとの関係が気まずいまま高校生活を迎えるのも嫌だった。



しかし、その関係は思ってもみなかったタイミングでようやく終わりが来た。




その日は、いつもより早く起きた。

部屋の壁がけ時計を見ると、6時。休日の起床はだいたい朝7時半であることを考えると、あまりにも早い。しかし再度寝る気分にもならず、そのまま起床してご飯を作りはじめた。


作ったご飯を食べていると、玄関の鍵とドアが開く音がしたので、一度ご飯を食べる手を止め、玄関に行った。


「お母さん...?」

玄関にいたのはお母さんだった。久々にお母さんと会えたが、再会を喜ぶよりも恐怖や危機感のほうが勝った。


目の前の人がお母さんなのはすぐに分かったが、最後に見た時とは似ても似つかないほどにやつれていた。一瞬だけだが、病人かと思ったほどだ。

ぼくの姿を確認すると、幽霊のようにお母さんはぼくの横をすり抜けて歩いていった。そのまま自分の部屋に行こうとしたのだろう。

しかし、ぼくは腕を掴んで阻止した。


「何してるの?腕を放して。部屋に行かせて」

「嫌だよ。絶対に放さない。いいから来て」


ぼくはお母さんの腕を引っ張ってリビングに連れて行った。

「ご飯食べて。それまでは絶対にこの部屋から出さない」

そう言って周りのドアを全て閉めた。



それでもお母さんは最初、ご飯に手をつけようとしなかった。

「自分から食べないなら、ぼくが食べさせるから」

「いやっ、そんなの嫌」

「そんなやつれてちゃ、食べなきゃ死ぬよ。子供は親の顔色をうかがわなくていい、だったよね?ならば、ぼくもそうさせてもらうよ。どんだけ嫌われようが構わない」


そう言って、ぼくはお粥やサラダを食べさせていった。次第にぼくの手を借りるのに負い目を感じたのか、お母さんも嫌々ながら自分から食べ始めるようになった。

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