決着
10月3日。
この頃になると、うだるような昼の高温多湿、夜も夜で寝るのも辛いレベルの高温多湿という夏の不快感はかなり薄れ、過ごしやすい季節に入った。しかし、秋になったらなったで良いことばかりではない。
夏には到底及ばないが、昼は相変わらず暑く、夜は夏服のままだと寒気を催すほどの冷たさをもたらす。
今度は昼夜の寒暖差に頭を悩まされる。
この日の夜、オレは心身の慢性的な不調の主因が食欲不足や栄養バランスの偏りではなく、極度の運動不足であると考え、徒歩圏内のスーパーに買出しに行った。それを裏付けるかのように、合計で10分にも満たない徒歩であったが、不調は大きく改善。夜の暑さがかなり和らいだことで、外で過ごしやすくなったことも都合が良かった。
夜9時。
夜食は玄米とみそ汁のおかずとして、40%引きのロースカツを食った。しかし美味かったのは確かだが、食後の胃もたれも普段の食事と比べると極めて辛かった。
悶絶するまでには至らなかったが、少し頭にモヤがかかったような感覚がしばらく続いていた、その時。
「ピンポーン」
あの忌々しいインターホンの音がした。またあのストーカー姫の仕業だろうと思ってドアホンの画面を見た。
予想通りだ。前回と同じミント色の姫袖ドレスで、スカートは大きく膨らんでいる。
(あのストーカー姫、あんなに警告したのにまた来たのか?)
オレは前回の家凸に遭った後、ドアホンの証拠をもとに警察に被害届を出していたが、警察の職務怠慢のせいで動いた時には既に手遅れ、というニュースを散々見てから、警察への信頼感はほとんど持っていなかった。被害届を出したのも動いてくれればラッキー、という程度のものだったが、案の定である。
だが、その事実は伏せた。
「オレは警告した上で、止めはしないって言ったよな。定職を持っていない、平日真昼間からブラブラしている男に付きまとった結果、人生を棒に振るのか、って...なのに結局、また来た。オレは、テメエはそれに人生をかけたって判断したよ。
...ってことで」
オレは玄関のドアを開け、姫をムリヤリ家の中へ入れると、彼女の両肩を両手でガシッと掴み、クローゼットに押し付けた。どうやら彼女もそのことは想定していなかったようで、顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
しかし、何故か顔を赤らめて、目もトロンとしている。公衆の面前で一般の人とはかけ離れた仕草や声にあまり恥じらいを見せず、この行為をされることに露骨な悦びや恥じらいを見せるのには疑問しか浮かばない。
この姫はマゾなのか?それともただの世間知らずなだけなのか?オレは戸惑いながらも、それまで彼女に抱いていた疑問を次々とぶつけた。
「前回、オレのことをハヤテ様と言ったが、あれは何を意味していたんだ?」
「ハヤテ様のことでしてよ」
「じゃあテメエにはハヤテという恋人か、友達がいるんだな?」
「ええ、もちろんですわ💗」
「じゃあ今すぐに会いにいけ、そいつも心配だろうに」
あえて自分の名前は伏せた。自ら手札を見せるような行為をするほど愚かではない。
「何を言ってますの?ハヤテ様はフローラの目の前にいましてよ💗」
オレはこの姫が何を言ってるのか分からなかった。どういうことだ?
「ハヤテ様がフローラの目の前?テメエは何言ってんだ?」
「そのままの意味でしてよ💗」
「テメエの恋人やら友達やらの名前がハヤテってのは分かった。でもフローラって誰のことなんだ?」
「少しだけ、拘束を解いてくださるかしら?」
「...分かった」
オレは彼女の両肩を固定していた両手を解いた。気の迷いからではない。長時間の全力の拘束で両手は愚か、両腕までもがガタガタになっていたのも理由だった。
「だが逃げ出そうと思うなよ」
そう言って、オレは玄関のドアの鍵を閉めた。
「ごきげんよう、ハヤテ様。フラワーガーデン王国のプリンセス・フローラですわ💗」
そういうと、彼女は絵本の中のお姫様がするようなカーテシーを見せた。スカートをやさしく広げ、少し恥じらいの含んだ笑み。魅力的な仕草だった。
「なるほどね、テメエはそういうキャラ設定なわけか、プリンセス・フローラ」
「こ、これはキャラなんかじゃ...」
彼女、いやフローラは驚き、慌てふためいていた。日本人の名前にフローラなんて聞いたことがない。だがあえてそれには言及しなかった。
「分かった。それに乗ってやる」
そして、オレは語り始める。
「さっきから言ってることを総括すると、そのハヤテって恋人やら友達とやらは今テメエの前にいる...この意味は分かるよな?」
「え、ええ...」
「だがオレは身分証を見せてはいないし、一度も名乗ってなんかいない。オレがハヤテって何故決めつけられる?」
「そ、それは...」
「そもそもオレのハヤテって名前も本名だとは限らないぜ。SNSのアカウントを本名だと思うようなもんだ。世間知らずも度が過ぎるぜ」
「...」
フローラは黙った。どうやら語りたくないらしい。
「なるほど、だんまりか。まあ深く追求するつもりはない。でもこれだけは聞かせてくれ。テメエほどのお姫様なら、欲しがるヤツなんてたくさんいるだろうに。なのにオレに執拗に付きまとうのは何のためだ?」
「...」
「ほとんどの人間は、これを言えばオレのもとから去って行くよ。生活保護。再起不能状態」
内心は怖かったが、オレはこう切り出した。関係をムリヤリにでも断つために。
オレは生活保護を受けている人達への憎悪はSNSでかなり見かける。実際はほとんどの人はそうではないが、一度こびりついた悪印象はそう簡単に覆ることはない。働かずに昼から酒、タバコ、ギャンブルに溺れる、国の足手まといというのがレッテルで、彼らは犯罪者以上に誹謗中傷の対象になる。恥ずべきことではあるが、中学生から大学生当時はオレも生活保護を受けている人間達を憎悪する側だった。
社会をよく知らない学生だけではなく、労働者、経営者、株主。彼らからも容赦ない罵声を浴びせられるのが受給者だ。
その受給者の一人だと言えば、彼女もオレのもとから去るだろう。そうすればオレも彼女のつきまといに苦しまずに済む。
仮に彼女を軟禁した件で刑務所行きになっても、既に人生が敗戦処理状態に突入しているオレにとっては、来るべき時が数年か数十年遅れるだけだ。まだ交流のある母方の家族は悲しむかもしれないが。
オレはフローラの軽蔑するような目と舌打ち、冷めたような罵倒を聞いたら、そのまま解放し、そして法の裁きを受けることを覚悟していた。
...しかし、彼女の反応は予想外だった。
「それでフローラがハヤテ様のことを嫌いになると思ってまして?」
「は?」
オレは呆気に取られた。
「ハヤテ様が生活保護を受けていようが、フローラには関係ないことですわ💗」
「あるだろうが!テメエがどういう目で見られるのか分かってんのか」
「むしろ、フローラには好都合でしてよ。都合のいいオモチャに巡り合えた感覚ですわ💗」
「テメエ何言ってんだ...」
彼女の言ってることは分からずじまいだったが、彼女は無邪気な子供のような笑みを浮かべていた。
「むしろ、こちらのほうがハヤテ様の弱みを握ってしまいましたわね...💗」
「ま、まさか...」
オレは冷や汗をかいた。命懸けの絶縁宣言も、今回の軟禁もまんまと脅迫材料として与えてしまったのだ。
「ハヤテ様には、気の赴くままフローラのわがままに付き合っていただきますわ。逆らったら、どうなるかは分かってまして?」
「...分かったよ」
オレはそれしか言えなかった。
結局、オレはストーカー姫を追い払うどころか、逆に脅迫材料を与えてしまい、わがままに付き合わされるという最悪の形で幕を閉じた。
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