バス停における中ボス戦について

伊藤優作

バス停における中ボス戦について

 18時を回ったところであり、この時間帯、とくに平日となると駅前のバス停にはたくさんの人々が並ぶことになる。この駅前から路線は細やかに枝分かれしていき、バスたちは人々がそれぞれに住んでいる各地域の深いところまで分け入り、やがてまたこの駅前に戻ってくるのだ。

 このうち、101系統のバスが発着する停留所はほかの系統の停留所から離れたところにあった。多くのバスは東口改札を出たところに集まるのだが、この101系統だけは、北口という、歩道橋で旧道を渡った先にある離れ小島のような改札を出たところにポツンと停留所を構えていた。他の路線とは異なり、この系統は市街の中心に背を向け、開発の歴史をなぞり、山肌を沿うようにして走っていくのだ。停留所の朽ちたベンチは風で少しばかり斜めから降り込んだだけの雨でくまなくびしょ濡れになり、そんな雨の侵入を許してしまう不親切な屋根は不親切なばかりでなく十分な長さもなかった。こうして帰途につく多くの人々はベンチを利用せず、傘を差したままバスを待つということになるのだった。

 木曜日の夜、雨に降られながらバスを待つ長蛇の列がご機嫌であるということはそうそうない。例によってこの日のもそうであり、101系統のバス停には多くの人々が列をなしていた。今ここに並んでいる人間がみな席に座れることは経験的にほとんど全員が知っていた。みんなこの時間帯の常連なのだ。だが今日は違った。列の人々のほぼ全員が、そこに尋常ならざる不穏なものが存在していることを暗黙の共通理解として保持していたのだった。

 その不穏というのは列の先頭に位置しているジジイのあたりから発せられていた。常連たちの誰一人として見たことのないジジイが列の先頭に、傘もささずにずぶ濡れながら小刻みに震えているのだ。どこかに杖を置き忘れてきたとしか思えないほどの危険な震え方であり、到底ひとりで外出させてよいと思える震え方ではなかった。何か特定の重たい病気にかかっていそうというわけではない。そのジジイはあまりにもジジイすぎたのだ。ジジイすぎるジジイの体力・極小値という言葉から想定されるものにほぼ等しい、弱々しいエネルギーがそこに体現されていた。ジジイのすぐ後ろに並んでいたサラリーマンと思しき中年男性は黒い雨傘を広げたまま両の目を伏せたまま上げることがなかった。まるでジジイの背中の目に見つめられているみたいだった。雨傘はそれなりに大きく、腕をジジイの背中に寄せればジジイは濡れずにすむように思われたのだが、中年男性のハッキリしない姿勢により、雨傘の端はジジイが入るか入らないかギリギリのところで前後に揺れ、その縁から零れ落ちる水滴がジジイの背中をさらに濡らすということになった。ジジイは振り返ることもなく、雨に混ざり背後の傘から滴る水滴をただ受けていた。この歳になると結果的に雨なら一緒ということなのだろうか。そんなわけがないと思う。

 そうこうしているうちにバスがやってきて、2、3人ばかりの乗客が前のドアから降りていった。常連たちは当然問題なく乗車できると思い込み、早くも少しずつ自分たちの前のスペースを詰めにかかっていた。ポタポタ男もいそいそと傘を畳む。乗る順が近いというだけではない焦燥感がかすかに見て取れた。不吉な情景であり、すぐにその嫌な予感は当たった。

 ジジイはフラフラと前に進んで行った。1ステップ目を踏んだまでは良かった。だがバスの乗車口へ両足をかけることに成功したジジイは、その1ステップ目に陣取ると反転し、両手を乗車口の両脇によろよろ伸ばして握りしめると、激しく咳き込みながら次のように宣言したのである。

「ここゴァッゲォッ、を通りたければ、ヒィーッ、ワシを倒してゲェホッ、っ倒してっゴゥオっ、倒してからにっ、ヒューッ、ヒューッ、しろっホッ」

 それはかつてなされたあらゆる宣言の中で最も弱々しく、最も咳の入り混じった宣言だっただろう。

 ポタポタ中年は呆然としていた。声も出なかったようだった。長い列は静かだった。まるでジジイの宣言が聞こえていなかったみたいだった。実際後ろの方には聞こえていなかった。不審な顔をして列の先頭の方を見ると前のめりのジジイが乗車口にしがみついている様子がわかるという具合だったのだ。ポタポタ中年と違い、列全体の雰囲気は「えっ」というより「あーあー」という感じに近かった。分かっていた不穏が形をとっただけで、驚きより諦めに近いものがあった。

 ジジイの挑戦を受けるものはいなかった。誰もバスに乗るために殺人の前科を背負いたくなかったのだ。ジジイはほとんどチュートリアルだった。だが何のチュートリアルなのだろうか。帰宅? これまで何度もコンプリートしてきたのに?

「早くして」とか「やめましょうよ、お爺さん」とか「何言ってんだコラァ!」とか「殺すぞ!」といった言葉は発されなかった。

 みんな、あまりにも疲れていたのだ。そういう一日だった。そして、そういう一日でない一日を、もうしばらくの間味わっていなかった。最後がいつだったかももう思い出せないくらいだった。尋ねられればみな、そのことに思い当たっただろう。

 バスの中で動きがあった。異変に気づいたバスの運転手が移動し、ジジイに後ろから声をかけたのだ。

「近くの座席にお座りください。乗る人いますんでね、たくさん」

 運転手の声もまた疲れていた。バスの運転に多少ときめいていたのは最初の1、2ヶ月くらいだった。あとはもう、記憶がなかった。バスの運転をバスに代わってほしいくらいだった。だがジジイは両手を離すこともせず、首をガタガタさせながら運転手の方へ向き直って、

「ゴホェッ、わしを、ハァッ、ハァッ倒してからっ」

とあくまで繰り返すのだ。

 ジジイだけが元気だった。いや元気ではないのだが、今日という日は彼にとって決して忘れられない特別な一日になるだろう。そして、ジジイのおかげで、あまりにも疲れ切っているみんなにとっても、今日は特別な一日になるだろう。

 運転手はすぐにバスの先頭の方へ行くと、ふたたび降車口を開け、

「みなさん、こちらからお乗りください」

と言った。

 列はみるみるうちにバスの中へ吸い込まれていき、ポタポタ男も、他のみんなも席を得ることになった。ジジイに最も近い席は空けられていた。「運賃変わりませんのでね。ICカードの方は降りる際に対応いたします」。降車口が閉まった。

 ジジイは少しの間俯いていたが、やがて何かをなかったことにしようとする目立たない能力者のような憮然とした表情で両手を乗車口から離すと、それまでとは打って変わって安定した、キビキビとした足取りでお膳立てされた空席に座ったのだった。乗車口が閉まり、バスは動き出した。

 もうお気づきだろう。

 チュートリアルがいきなりレイドバトル、それも変則的なレイドバトルであることはない。

 ジジイは中ボスだったのだ。

「次は、S公園前、S公園前です。お降りのお客様はボタンを押してお知らせください」

という女性のアナウンスの声だけが、決定的な何かが起こり、何かが解消されないままでいる車内で、動揺の色を一切見せることもなく、何事もなかったかのように明朗快活にバスの中に響き渡った。どうしてその女性にそんなことが可能だったのかといえば、その声は事前に録音されていたのである。


 

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バス停における中ボス戦について 伊藤優作 @Itou_Cocoon

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