第8話 “配慮”
私が振り返って走ると、後ろから風を感じた。床に大きなものが当たる音がした。京生さんの方を見る。オフィスの椅子を投げていた。背中に冷や汗を流す。京生さんはバールを持ってゆっくりと私に迫る。私は逃げた。背後から足音がして京生さんが追ってくることが分かった。
パソコンを倒し足場を悪くして、時間を稼ぐ。
こんなことなら、普段から運動をすれば良かった。
自動扉まで走る。社員証をかざしてもゲートが開かない。
「どこへ行きますか? 話し合いをしましょう。話し合って、納得して、それが“配慮”の一歩ですから」
「そんなの“配慮”じゃない。狂っている。押し付けでしかない」
「一人でも多くの人が都合のいい世界は、我慢によって生まれます。最大多数の最大幸福は、我慢と、我慢できない人の排除によってのみ成り立ちます」
「排除? それのどこが“配慮”なの?」
ゲートが開かないことには逃げ場がない。会社には施錠が甘い非常用出口が存在する。実験室で薬品やガスを搬入のための出入り口で、同時に緊急避難用でもある。オフィスに戻ってエアーシャワー(空気のシャワー)がある二重扉を越えるのは難しい。絶対に捕まる。万事休す、か。
何が“配慮”なの。
人を殺して、SNSの意見に従って、会社をめちゃくちゃにして。
悔しい。どうにか逃げ切って、京生さんを取り締まってもらいたい。
反省して、当たり前だけど許されなくて。でも間違いだったって気づいてほしい。
私の信頼していた京生さんはどこに行ったの?
会社が動物倫理への“配慮”によって生まれたことは分かってる。
動物を殺さずに、細胞から食肉を作る。
皮膚からステーキ肉を作る。立派な技術だと思う。
どうして、“配慮”の方向性を間違えたのか。もっと大事なものがあったはずなのに。
「給料を上げるためには支出を減らす必要があります。“配慮”しましょう、給料の必要ない労働力を作ります。仕事が忙しいのも“配慮”しましょう。人員を配置しましょう。白樺さんに逆らわないように教育しましょう。研究したいものがあるなら“配慮”しましょう。ほしいものがあれば“配慮”しましょう。譲れないものがあるなら“配慮”しましょう」
「……分かりました。私に“配慮”してもらう分、私も“配慮”します」
京生さん。私に豆腐ハンバーグの話をしてくれたとき、私は健康志向と菜食主義者では別の“配慮”をした食品を提供したいと答えて、京生さんは私の答えに満足してくれた。その人に合った、その人のための“配慮”が大事だって、私と京生さんの想いは一緒だった。
相手のことを考える、自分の意見を貫くとしても相手のことをちゃんと見ている、それが私たちの“配慮”ではなかったの?
満足した京生さんは振り返って、付いてくるように言う。
私は頷いて、その背中を追う。
追って、追って、追って——
——
君の間違い 私が正すの
許されないなら 私もゆくの
私の想い 全部話して
消える私を 抱き留めてほしい
——
「私の、私の大切なものを全部返せよッ!」
涙が溢れてしまって視界が悪くなった。
視界が悪くなった私は、勢いよく体当たりして、京生さんを前に倒した。うつ伏せになった京生さんに乗る。京生さんの手を踏むと、痛みでバールを離した。
私は許せなくて、バールを握りしめる。
瞬間、京生さんは暴れ出して、私は怖くなった。
拘束が解けたら、私の身体が京生さんの背中から離れたら、女性の私に勝ち目はない。
そしたら、私は殺される。
やるしかない。
「あなたが間違える前に、私が何もできなくなる前に、私はあなたと、話しがしたかったです。私はあなたの心に、あなたは私の心に、本当の意味で“配慮”したら、絶対違った結末で」
私は京生さんを殴った。私は涙でぐちゃぐちゃで、バールを握る手の感触はなかったし、そのバールの先の京生さんの頭部が、一体どうなっていたかは確かめなかった。
「こんなものか、私の人生」
自首しよう、と思ったけれど、どうにか京生さんの悪事の証拠がほしくて、京生さんならどこに隠そうとするか考えてみる。やっぱり社長室だろうか?
指紋が必要だが、今となっては簡単だろう。
私は社長室に入る。机の近くの本棚に鍵が掛かっていた箱もあったが、手に持っていたバールで叩いていたら変形して隙間ができた。その隙間にバールの先端を引っ掛けて、てこの原理をイメージしながら足でバールの持ち手を踏むと、バールが勢いよく飛んで、天井に当たったバールが私の額に当たった。痛みはなかったが、怪我はしているだろう。
「データ? USBとメモ? 再生人間名簿と注意事項? こんなふざけた名前で保存しているの?」
分からない。しかし、このUSBを持って帰ることにした。自首する前に自宅でシャワーを浴びよう。『イマジエッセン』の闇が暴かれますように。
私は研究部のオフィスに戻る。旧主任のスペースがまだ残っていたことを思い出す。
わくわくしたから『イマジエッセン』を選んだ、か。
「私も楽しかったよ、最近まで」
実験室に入る。身体の汚れを隠すために、クリーンルーム用の靴と服を着る。エアーシャワーを浴びて、二重扉を開ける。私は薬品、ガス搬入用の出入り口に向かった。深夜だからか、今日は施錠されていた。ただし、電子キーに社員証をかざすと出ることができた。
私はスマホでタクシーを呼ぶ。
クリーンルーム服で帰宅しているのだから、深夜でなければあまりに不審な姿で、自宅に辿り着く前に通報されていただろう。もしタクシーが自動運転ではなくて有人だったら通報されていただろう。
マンションに着く。
私のポストに封筒が見えた。
『布施京生』
差出人の名前を見てゾッとした。
私は何度も京生さんと夕食を食べた。タクシーでマンションまで送ってもらったこともあった。個人情報が会社に握られていることは分かっている。でも、京生さんが知っていたことが恐ろしかった。
会社のゲートを通ることができて、自宅に逃げる選択肢を取っていても、たぶん。
考えるのはやめて、USBを見ることにした。
封筒も部屋で見よう。
私は覚悟を決める。
私が背負う罪が、京生さんと違うことが寂しかった。
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