第2話 布施京生
私は今年で二十六才になる。オートロック式のマンションに一人暮らしで、普段から朝食は菓子パンとお湯で溶かして食べるコーンスープを牛乳で流し込んで済ませる。家事は、洗濯物は洗濯機で乾燥まで行い、部屋と風呂の掃除は移動式の掃除ロボットに任せている。床の掃除ロボットは昔からあるそうだが、風呂の掃除ロボットは比較的最近の商品みたいで家事が苦手な私のために母が選んだものを使用する。
私の部屋は座り続けることでの健康被害を懸念して、高さを変えることができる机、重心を計算して部分ごとに硬さと弾力を変えるベッド、そして、数少ない服が入っているクローゼットがあるだけでシンプルだ。一見ミニマリストのようだが、実家暮らしの時に部屋で散らかった資料に埋もれて潰れかけたことがあるので、母に言われて物を減らして生活している。
研究が趣味のようなものだったので、勉強用の資料を電子書籍にするだけで、物を減らすのは簡単だった。
「で、芽亜ちゃんはいつも惣菜を買ってくるか、外食か、カップラーメン、冷食を食べていますと。今は健康を気にした食品も多いから、料理しなくてもいいかもね」
「京生さんは料理しますか?」
「うちは食品メーカーだからね。細胞レベルでエンジニアリングして、食材を作っているけど。食品のことを考えるためには、外食をして外から情報を得ることも大事で、同じくらい自炊して自問自答するように内から情報を得ることも大切にしている」
若手が少ない職場で働く私は、何度も京生さんと夕食を共にしていた。
奢ってほしいわけではないが、いつも知らないうちに会計を済ませている。
若手エリートの私のために次期社長として尽くしている、なんて京生さんは冗談っぽく言う。本音は分からない。
私たちが普段行くのは、品数が多い半個室付き居酒屋か、昔から家族で切り盛りしているような地元で愛される定食屋などだ。
今日は、居酒屋で鉄板デミグラスハンバーグを食べながら、桃の香りがするビールを嗜む。私は研究室時代から酒豪とからかわれるほどお酒が強いので、京生さんは調子よくお酒をたくさん頼んでくれる。そして、お酒を飲んだ京生さんは楽しそうに饒舌になるのだ。
私は京生さんの話が好きで、半個室の居酒屋を選ぶのは、話に集中したいからだった。
「豆腐ハンバーグって知ってる?」
京生さんは顔を赤くして、眺めていた鉄板の縁を指でなぞそうとする。まだ冷えていないので火傷をしてしまう。私が指を手に取って鉄板から離すと、京生さんはとろんとした表情で微笑む。動きが遅くて、眠そうで、私の膝に頭を載せるのではないかと思ってしまう様子だった。
京生さんは頬をテーブルに触れるように、顔を載せた。
鉄板が近いので、少し離しておく。
「低脂肪で、植物性たんぱく質があって、ダイエットや健康に良い。また、菜食主義者も食べている」
「はい」
「僕らは、『イマジエッセン』はそこにある二つの需要にアプローチできる」
楽しく飲んでいても仕事の話に移ってしまうのは、流石は次期社長である。
京生さんはこの場で試すような人ではないけど、私の意見に興味を持っているのは間違いない。私も充実した議論が好きだ。
「研究職の芽亜ちゃんなら、その需要は言えるだろう?」
「健康への関心と宗教上の理由、それぞれ別の需要ですね」
「同じ食品でどちらも満たすか、それぞれ別の食品で叶えるか。芽亜ちゃんならどうする? ハンバーグを作るとして」
同じ食品で二つの需要を満たすことができれば、大量生産が可能で、価格設定にも有利になる。ただし、ターゲット層の満足度が減少して、ターゲット層から取り込める客数の割合が少なくなってしまう。
「満足度と価格設定、私なら別々の食品にします」
健康に対して興味を持つ客に対しては、動物性の細胞を用いて食肉にし、それでハンバーグを作る。細胞レベルの制御を行うことができる『イマジエッセン』であれば健康を考慮した肉を生産することが可能だ。宗教的な理由を持つ客に対しては、植物性の細胞を用いて食感や味を豊かにすれば良い。
「研究好きの芽亜ちゃんは共感してくれると思っているけど、僕は、“配慮”は技術発展の一つのベクトルだと思っている。“配慮”が生み出す需要が、技術への要求を見出す。ハンバーグを見ると考えさせられる」
私も社会の“配慮”を満たすことが、『イマジエッセン』の存在意義だと思う。
今の技術なら、“配慮”できる。今の時代の特権だ。
「京生さん?」
議論に満足した京生さんはそのまま眠ってしまった。私はビールとつまみを注文して、京生さんの穏やかで優しい寝顔を肴にする。私は京生さんの端正な顔立ちをもっと見たくなって、宝石みたいな光沢を持つ銀色の前髪を避けてみる。京生さんは目を覚まさない。
店が閉まる時間になって、ようやく京生さんを起こす。
「もう遅い時間だね、送っていくよ。タクシー代は全部持つから」
「悪いですよ」
「僕の話に付き合わせたから。車は一台でいいよね?」
「分かりましたよ」
「……僕、芽亜ちゃんに気を遣わせている?」
私が渋々了承したように見えたのかな。
「そうではなくて、明日も仕事なのに、京生さんの帰りが遅くなってしまうので」
「大丈夫、大丈夫。気を遣わせたわけじゃなくて良かった」
京生さんはスマホを開いてアプリを操作する。
タクシーを呼ぶと、十分ほどで店の前に来た。
母は「昔はタクシーも有人で運転していたのよ」と言っていたことを思い出した。
私が「飲酒運転になってしまうけど」と聞いてみると、「運転手がいたの」と呆れる。知らないことは仕方ないのに。私が運転するわけじゃなくて、タクシーには運転手がいて、運転手が運転してくれるそうだ。
でも人の手で、人の認知と反応能力で道路を使用するより、人工知能に任せた方が安心じゃない?
タクシーに乗って、タブレットの操作をする。私の行き先と京生さんの行き先を入力した。次にルート選択で、簡単に使用する道を決める。私のマンションに行って、次に京生さんの自宅に向かうことになった。お金はこの時点で表示されるので、京生さんが全額払った。
それから、談笑して、私と京生さんは分かれる。
研究を頑張って、京生さんと夕食を食べる。
この日々が大好きだったし、京生さんの気持ちは考えても分からないけど、私はずっと京生さんのことが――。
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