for/seasons

くまいぬ

本文

 エピローグ 

 

 想い…。

 色んな想い…。

 誰かへと向けられた、色んな人からの、色んな想い…。

 その想いは、向けられた“相手”に届く事もあれば、届かない事もある。でも、どんな想いにも必ず“希望”はある。その、ほんの少しの希望を求めて、人はまた誰かを想い、誰かに想われる……

 

 俺がまだ物心付いて間も無いような頃、婆ちゃんがそんな話をしてくれたと思う。俺はその話を聞いていた時、必死に婆ちゃんの膝に顔を埋めながら泣いていた。その話が昔話なのか、それとも何かの逸話なのか、詳しい事は覚えておらず、記憶の欠片として、ほとんど塵のようなものとなって埋もれてしまっていた。

 だから、なんで急にこんな話を思い出したのか分からない。あの頃の記憶なんて、あまり思い出したくもない。

 電車にガタガタと揺られながら俺は、気持ちを落ち着かせるため、同時に自らの頭もブンブンと左右に揺さぶって、パッと車窓から外の景色を眺めた。

 ちらほらと雲の浮かぶ、それでも広く青の澄んだ空模様に、一種のコントラストを育む、山々に聳えた紅葉が、俺を迎えた。電車内では、暖房機から発せられるポカポカとした空気が対流し、静かに俺の手足の先を融解しているのに対して、景色の手前に広がる草原には、肌寒い風にゆらゆらとその身を揺らめかせながらも、あくまで、そんな自然の持つ強靭さを示すかのように、心地良さそうに眠り続ける草や花々があった。

 「もう、秋の季節だな」

 秋。秋は、悲しい。

 なぜだろう、秋を思って最初に浮かんできた言葉は、それだった。

 視線を、手元へと返す。

 先ほどまで俺の視界に広がっていた広大な秋の季節。なぜか、その情景の裏に孕む、静かに身を刺すような肌寒さまでもが、胸の内側からじんわりと想起されていくように、俺は、秋を心へと浮かべた瞬間から、あの切なさを思い返していた。

 

 ……婆ちゃんの話…俺の人生にだって、誰かを“想い”、誰かに“想われる”事があるのか、もしくは、あったのか。今まさしくどこかで、名前も知らないような誰かさんが、そんな体験をしているのだろうか?

 分からない。

 婆ちゃんの話は、あまりにも漠然とし過ぎていて、俺なんかには、それが分からない理由が、俺にとって近過ぎるからか、遠過ぎるからかも、測ることはできなかった。

 ……でも、もし、その“想い”が、“希望”が、やがて実を咲かせたとしたら、それはとても、とても素敵なことなんだろう。

 なぜ、そう思えたのかも、もう分からないけれど…。

 

 もう、長いこと電車に乗っている。あと数分で、目的地だ──────

 

 〜初秋〜

 

 1

 

 「それでは、これで授業を終了する。起立」

 無機質なチャイムの音に呼応するかのように、号令が掛かった。

 教室の生徒達はそれに応えるため、それぞれがガタガタと椅子を引く音を教室全体にこだまさせながら、席を立つ。

 ただ、一人を除いては。

 「……起立」

 二回目の号令を受けても、その生徒はまだ立ち上がらない。

 

 コツ、コツ、コツ……

 

 一人から発せられる足音は、空間を飽和した静寂の渦に律するかのようにゆっくりとその場を流れ、やがてある生徒の机の前で止まった。

 足音の主は、目の前で席に座ったまま、机へと突っ伏してしまって、外界への一切の応答を遮断した状態にある生徒の姿を視認すると、呆れた様子で目頭を押さえながら軽くため息を吐いた。それから、ほんの一秒ほどの時間を掛けネクタイと姿勢を正し、声を張り上げた。

 「おい、起立しろ!【菊永紫苑きくながしおん】っ!」

 声を荒げる彼の片手には、先ほどまで授業で使用されていた教科書が、現在の彼の心情を示めすように荒っぽく握りしめられていた。

 「………スゥ…」

 「いい加減にせんかっ!」

 

 バシィッ!

 

 突如、後頭部を劈くかのような大きな衝撃が俺を襲った。

 「ってぇ!なんだなんだぁ!?」

 あまりの衝撃に、俺は思わず椅子の上で飛び跳ねた。それに伴い、椅子と机はガタンと、互いに大きな衝突音を鳴らす。

 「なんだもクソもあるか!いつまで寝とるつもりだっ!」

 頭上から全身にかけガンガンと響く、覇気のついた怒号に、俺は身を竦ませ、目を細めた。教師によるものだった。チラと視界の端に、彼の片手に先ほどまで授業に使用されていたであろうぶ厚い教科書が握られていたのを見た。

 「もう授業は終わりだ、早く起立して挨拶しろっ!」

 教師は言い残すと、ぶつくさと愚痴を漏らしながら、教壇へと帰っていく。

 周りを一瞥してみる。未だに席を立っていない生徒はどうやら俺一人だけのようだった。

 俺は、教師の指示に従い渋々立ち上がった。

 その頃になると、クラスのそこかしこから、クスクスと堪えるような笑い声が響いていたのに気付いた。

 まぁ、今更それについて、特に何を思うも無いのだが…俺は、そんな領域はとっくに過ぎてしまっている。

 何はともあれ、俺達は一人の異分子のせいで無駄に延長されてしまった授業の終わりを、ようやく迎える事が出来た。

 教師はそそくさと教室から退出していき、俺達には束の間の休憩時間が与えられる。

 俺は改めて無造作に席に座り込むと、まだズキズキと強烈な痛みを残すタンコブ頭をそっと撫でから、大きな溜め息を吐いた。

 あの鬼畜教師、本気で叩きやがったな…。

 しかも、この後を引く鈍痛…奴の所持していたブツから察するに、多分教科書の角、つまり教科書という、本来は勉学のために用いられるはずである道具の、よりにもよって一番殺傷能力の高い箇所で攻撃されたのだろう。

 これには、自らが開発したダイナマイトを、本来の意図したところとは異なる形で軍事利用され、その後悔からノーベル賞を設立したノーベルも、この遠く離れた辺境の島国、日本において、同じ過ちが繰り返されてしまったという事実に、あの世で苦悩しているに違いない。

 「まったく、授業中につい居眠りをかましてしまう事なんて、誰だって一度は経験したことのある些細で可愛らしい過ちでしょうが…何もあそこまで本気になって叱りつけなくても…けしからん」

 やり場の無い鬱憤が、知らぬ間に愚痴となって口から漏れ出る。

 そして、俺の後頭部には、今もなおそんな俺の醜態をありありと自らに晒しあげるかのように、痛みの余韻を残し続けたまま腫れ上がった皮膚の隆起があった。

 ……しかし、時間が経つに連れ、そんな不の感情達も次第に言葉と共に口から抜け出してしまったのか、やがて落ち着きを取り戻しつつあった俺は、教師に叩き起こされる前まで体験していた、あの現象によって引き起こされたのであろう、一つの違和感を味わされていた…そう、それは例えるなら、今この教室で、俺がこうして席に座ってたんこぶ頭をさすりながら愚痴を溢していたという、その確かな気の抜けた現実であるはずの現状すらを、どこか批判的に、客観的に受け取らせてしまう、一種の浮遊感のようなもの。

 とても曖昧で不確かな、概念そのものとも言える。

 脈絡はない…だが、確かに、その奇妙な非現実感を味わっていたのだ。

 …寝ぼけてしまっているのか、頭部への外傷が元となって一時的に脳の機能がどうかしてしまっているのかは定かでは無い。が、一つ確かな事があるとすれば…

 「なんだか、不思議な夢、だったよな…」

 「そりゃ、毎日性懲りも無くあんだけ寝まくってたら、変な夢も見るでしょうよ…」

 その時、ノートや教科書の乱雑に並べられた机の上を意味も無く眺め、俯いていた俺の真横から、少し怒っているような、呆れているような…いや、かなり呆れ返っているような口調の、少女の声が響いた。

 俺は、その声の方へ、彼女へと顔を見上げた。

 「まったく…あんたはいつになったらその授業態度改めるわけ?」

 教室の窓から侵入してくる日差しと、蛍光灯の光とが入り混じり、乱反射する事で光沢を帯びた黒い瞳、その前をサラサラと流れたのは、彼女の鮮紅の長髪だった。

 「何を言うか、毎授業あんな訳じゃないぞ!特に、体育の授業は誰よりも真面目に取り組んでるし、実際成績も毎回5だ!」

 俺は彼女にパーのような形で、手のひらと5本指を見せつけた。

 しかし、彼女は未だ俺の目の前で腕を組んだまま、その小さな顔に不釣り合いなほどの大きな瞳が収められた、少し吊り上がった瞼をじっと細め、鋭い眼差しを送り続けていた。

 「…じゃあ、それ以外の教科は?」

 

 ギクリ

 

 「…テ、テストの点は悪くないぞ?」

 「それで許されるかーっ!」

 その怒声を浴びせられた刹那、俺はスローモーションの世界に存在していた。気が付けば、下方からスラリと、透き通るような純白の物体が、俺の視界に飛び込んだ。

 彼女の頭の位置は、座った状態の俺が少し見上げる程度。身長は小さいはずなのに、遥か上方へと飛翔し、やがてこちらに向け一直線に伸びてくる彼女の足は、驚くほど長く、そして鮮やかさで、俺は時間感覚の麻痺した世界の中で、その一瞬の所作に目を奪われた。

 …が、同時に、あるモノも、俺の視界の端に飛び込んできた。

 それは、一種の秘境とも形容できる、人類の神秘が込められた聖地。通常であれば厳格に守護され隠匿されているはずのそれは、年頃の男にとって、そして例に漏れず俺にとっての特別であり、未開の地…つまり、その“モノ”の正体とは…。

 ……くまさッ…

 

 ドガァッ!

 

 俺の頭上で、いや、頭蓋骨から直通で鼓膜までを、よく聞き慣れた、そして、とても苦い思い出の詰まった衝撃波が貫いた。

 「まったく、あんたと先生とのやり取りを見てると、いつしか先生に同情して、こっちまで可哀想な気持ちになってきたわよ…」

 どの口が言ってやがる…。

 うたた寝中無防備となっていた後頭部を、思い切り教科書の角で殴打され、さきほどまで痛みに悶えていたはずの男に、更に容赦なく全力の踵落としを喰らわせることの出来る彼女に、果たして同情するという人間味のある思考回路が備わっているかどうかは、甚だ疑問が残る。

 事実、そんな彼女の手に掛かった今の俺はと言うと、見るも無惨な体勢だ。

 彼女は一応こちらの顔色を確認しに、俺の視界が広がる椅子の反対側へと移動して来たが、相も変わらず、その生まれつきだと言う鋭い目付きを携えたまま、ひっくり返った俺を見下ろしていた。

 そんな、その動機から見れば温厚篤実…?いや、そんな訳は無い。お節介焼きの、行動から見ればまさしく傍若無人という言葉の似合う彼女。

 しかしながら、これでも彼女のスペックは中々に申し分ないものなのだ。成績優秀、スポーツ万能、教師からの評価良し、一目見れば分かる、学内でもトップクラスに秀でた容姿。加えてカリスマ性に富み、後輩、先輩、同級生に関わらず、生徒全体からの支持も厚く、学内の裏番長との呼び名も高い…文面だけ見ると、とても優秀で、生徒の模範的な存在だと評するのすらおこがましく思えてしまうほどの超人女子高校生。

 そんな彼女の名は…。

 俺は、ひっくり返った亀の体制のまま、改めて、彼女をジッと見つめ返していた。

 ………そうだ、彼女の名は、“彼花”。

 【岸辺彼花きしべ ひばな】だ。

 「あわわ…だ、大丈夫?手、貸そうか…?」

 と、そんな風に改めて脳内で彼花への再評価を下していると、背後から、俺の耳によく馴染んだ、心地の良い響きを持った天使の声が舞い降りてきた。

 「あぁ…優しさと、暖かさに包まれた、安らぎに満ちた声が聞こえる…神様、俺はこれから、この天使に導かれ、天国へと旅立つのでしょうか……」

 「どうやら、まだ寝ぼけてるみたいね。もう一発ぐらいイっとく?」

 今度は、握り拳をもう片方の手でパンと、ミットのように打ち鳴らしこちらを脅迫する、悪魔の姿が目に写った。

 「ごめんなさい調子に乗りました、それでは本当に旅立ってしまいます」

 「あ、あははー…」

 そんな悪魔の隣に、なんとも言えない苦笑いを浮かべながら肩を並べた、その天使とやらの正体は【白藤芽依しらふじ めい】。

 しかし、語弊があってはならないのでここで訂正しておくと、実は、芽依は天使なんかではない。

 芽依は、俺と幼馴染の女の子だ。互いの住む家が隣同士で、同い年。幼稚園も小学校も、中学校も、ずっと一緒だった。

 高校の最初の頃は少しの間離れてしまったが、結局はこうして、同じ高校で二年生の秋の始まりを、共に過ごしている。

 ちなみに、岸辺彼花と白藤芽依、この二人の名は、この学校に在籍している身であるのならば、よく耳にする名だった。

 特に、男子であれば。

 なぜなら、彼女らは校内の有志によって秘密裏に取り行われた、校内美少女総選挙において見事に選出された、トップ2の女子コンビだからである!

 俺はずっと一緒に過ごしてきた芽依の容姿を今更見返してみたりする事などほとんど無かったため、その結果を見た時は正直驚いた。しかし、それから直ぐに納得してしまった。

 なぜなら、重要事項として芽依の胸部は他の女子生徒より発達していたのだ。

 芽依は俺の元へと近付いてきた。下から見上げていると、その事がさらによく理解させられた。

 「にしても、本当に大丈夫?すごい格好だけど…」

 言いながら、自らのスカートを膝裏から畳みながら膝を曲げ、こちらに手をのばしてきた芽依は、そのまま人差し指をぴょこんと起き上がらせると、俺の生存確認かなんかのつもりか、俺の頬をちょんちょんと突きだした。

 

 ふにふに、ふにふに…

 

 「…紫苑の頬っぺたって、意外と柔らかいんだよね」

 芽依は、まるで物珍しい動物への好奇心を露わにした子供かのように、無邪気な笑みを浮かべながら、幾度となく俺の頬を人差し指で圧する。

 「ん、どれどれ、私も…」

 すると、忽ちその隣で様子を観察していた彼花までもが、俺の頬の具合を確かめにきた。

 「ほぉ、これは中々…」

 

 ふにふにふにふにふにふにふに

 

 両横から、両頬を、名実共に美少女である二人組の思うがままにツンツンされ続ける。

 そんな右の文字面だけを見れば、何とも至高で幸福な時間を送っている、羨ましい、許さん!と、あらぬ嫉妬を向けられそうな状況だが、そこに辿り着くまでの経緯を実際の目で眺めていた者に限っては、決してそのような評価は決して下せないはずだった。今の俺は間抜けで悲惨な亀なのだ。

 「……ええいっ!いい加減止めんか!」

 「「わぁ!」」

 やがて痺れを切らした俺は、身を捩り、声を張り上げ、その二人組を俺の両頬から遠ざけた。

 「はぁ…お前ら、俺のことを都合の良いおもちゃかなんかだと思ってるだろ」

 「い、いやぁ…なんだか気持ち良くって、つい」

 芽依は、少し頬を紅潮させながら、恥ずかしげに言う。

 「あら、おもちゃじゃなかったのね、これは失敬。次から気を付けるわ」

 彼花は、一切悪びれた様子も見せず、あくまでツラッとした態度で言い放った。

 てかその物言い、今まで俺のこと人間として認識してなかったって事じゃ…いや、もう良い、深く考えるな。これは気にしたら負けなんだ、きっと。

 ひとまず、そろそろ起き上がろう。流石にいつまでもこの体勢だと色々と持ちそうにない。

 俺は意気込むと、頭の両側の地面に手のひらを置いて、思い切り力を込めた。

 それを起始とし、体幹も動員させ重心を移動させると、その遠心力を利用することにより身体全体をしならせ、勢いのままにピョンと両手のひらで跳躍して、さながら体操選手の演技のようにスタッと両足底を綺麗に地面と重ね合わせ着地した。

 あとは、背中に付いた埃をサラサラっと払い除けておけば、完璧だろう。

 俺は、胸を張って仁王立ちした。

 「おいおい、今更格好付けた所で、華奢な女子に踵落とし喰らってずっこけてた失態は拭えねーっての」

 「うるさいっ!俺には俺の、男子としてのプライドというものがあるんだ」

 そうでないと、彼花と話す上で、自分を保てそうにない。

 と、そんな風に俺たちの繰り広げる会話劇の中にしれっと混入し、まるで最初からずっとそこに居ましたよとでも言いたげな気の抜けた表情を浮かべている彼の名は【井草霞真いぐさ かずま】。

 身長は俺を軽く見下ろすほど、つまり、男子としても結構な高身長の部類に入り、その身体付きも、制服の上から見ただけで、他の一般的な男子とは一線を画すほどの弾力性と丸みを有しているのが分かる。

 実際、運動神経もかなりのものだ。

 そして、一応言うと、俺の親友。

 「まぁ、二人の繰り広げるコミュケーションが少し特殊…なのはみんな知ってることだから、そんなに気にする必要無いよっ、紫苑」

 両手を身体の前でグッと握り締めて、いつも通りのおっとりした声質ではあるものの、俺を元気付けるためかはっきりとした口調で、俺のことをフォロー…になっているのかもイマイチ分からないが、とりあえず声を掛けてくれた芽依。

 「はぁ…お前は優しいな、どっかの誰かさんと違って」

 そんな、どっかの誰かさんとやらからの鋭い視線を感じるような気もしないが、とりあえず、今は無視しておこう。俺は、芽依の小さな頭の上に、そっと手のひらを乗せた。

 それから、腕全体の重力に対する抵抗力を弱めていく。芽依のふんわりとした髪の束の中へ、指の間から、手のひら全体が芽依に包まれていった。

 いつも、こうやって芽依の頭の上にそっと手を乗せていると、まだ俺達が幼かった頃を思い出す。

 芽依は、ずっと泣き虫だったからな…。

 芽依の持つ体温が、手のひら越しに、俺と同調していく。

 暖かい。

 あの頃と、同じ暖かさだった。

 「もう…渚ったら。私、もう高校生だよ?」

 芽依は、自らの頭上に伸びる腕をそっと両手でもたげて、横にずらすと共に、ぴょんと上半身を飛び出して、俺の腕に隠れてしまっていた顔を見せた。

 「変わらないよ。昔から、ずっとな」

 俺が笑い掛け、それを受け取り応えた芽依の笑顔は、昔の、あの頃の思い出に刻まれた情景と、そっくりそのまま同じに見えた。

 俺の笑顔は、あの頃と同じままか?芽依。

 「はーい、そこで終ぅ了!」

 すると、俺たちを引き離すため、いつの間にか俺たちの背後へと忍び寄っていた二人組、俺には霞真、芽依には彼花が、一斉にバシッと俺達の背中から腕にかけてを拘束した。

 いや、正確には、芽依は単純に後ろから彼花に抱き付かれていただけで、真に身柄を拘束されているのは俺だけなのだが。

 「急がねーと、次の授業に遅れちまうぞ」

 随分と騒がしくしていたが、今は、放課後や昼休みでも無ければ、ただの授業間の短い休憩時間。

 周りを見渡すと、先ほどまで教室にいたはずのクラスメイト達の過半数が姿を消していた。

 そういえば、次の授業は体育だったか。

 「それに、あんたみたいな人間に、こんな純粋でキュートな芽依ちゃんと、これ以上のスキンシップは許せないからね。汚れちゃうわ、まったく」

 彼花は言って、芽依の脇から潜るように顔を覗かせた後、微妙に頬を膨らませながらちょろっと舌を出して、こちらを威嚇した。

 一応俺は、その純粋でキュートな芽依と誰よりも長く過ごしてきた幼馴染なんだがな…。

 「はいはい、分かりましたよ……まぁ、とりあえず、一旦離せ霞真。さっきからお前に締め上げられた関節がギチギチと悲鳴を上げている」

 「ん?あぁ、悪い悪い」

 こいつ、無意識でやってたのか…IQと一緒に筋力を制御する脳のリミッターまで生まてきた場所に置き去りにしてしまったのだろうか。

 「でも、次の授業は、紫苑の好きな体育だね。良かったね、紫苑」

 「おう、俺の力の見せ所ってやつだ、彼花をギャフンと言わせてやるぜ」

 「いや、女子は体育館で男子はグラウンドだから、その力の見せ所って奴、私たちは見れないわよ」

 

 ガーン

 

 俺は、膝から崩れ落ちた。

 「まぁまぁ、その分俺が見ててやるよ。もちろん、一番活躍するのは俺だがな」

 フォローするのかしないのかはっきりしろ!

 「とりあえず、もう教室の鍵閉めなくちゃだから、ほら、さっさと行った行った。このままだと本当に遅れちゃうわよ?」

 「あぁ…しゃーなし、行くか、霞真」

 俺は立ち上がると、霞真の肩をトンと叩いた。

 「おうっ」

 二人でやる気になると、その様子を見守っていた彼花と芽依は、フッと笑った。

 「二人とも、頑張って来てねー」

 「お前らもなー」

 やがて俺たちは男組と女組に別れ、互いに軽く手を振りながら教室を出ると、反対向きに廊下を歩き始めた。

 

 2

 

 「ふぅー、やっと一休みできる」

 体操着の裾で汗を拭いながら、背の低い雑草が茂ったグラウンドの隅の日陰へと逃げ果せ、勢いよく腰を下ろす。

 俺に続いて、似たような様子の生徒達も、次々と腰を下ろしていった。

 「夏も終わって少しは涼しくなって来たかなと思ってた矢先にこれだもんな、勘弁して欲しいぜ」

 やがて俺の隣を陣取った霞真は、言いながら汗に濡れ肌に張り付いた体操着を指で摘んで引っ張ると、少し嫌な表情を浮かべてから、それをパタパタとはためかせて、体温を放散させている。

 「あぁ、まったくだ」

 もうすぐ九月の下旬にもなるというのに、夏の強い陽射しはまだその底知れないパワーを遺憾無く発揮し続け、特に動きの激しいサッカーなんかをした際には、体操着が汗でびしょびしょになってしまうのだった。

 「俺、サッカー自体は好きなんだけど、汗かいてベタベタになった後の授業が苦手なんだよな」

 独り言のように、感想を溢した。

 ちなみに、そもそもの授業が苦手だという問題を考慮しても、だ。

 「逆に汗でベタベタになった後の授業が好きな奴なんていんのかよ」

 なんだ、この感覚は共通認識だったのか。これはまた一つ、学びを得た。

 それからも二人して、そよ風に身を任せながら、体熱を時間経過と共に少しづつ自然の持つ大気へと還元させていくのと並行しつつ、俺たちは、いつもと何ら変わらない世間話を繰り広げていた。

 しかし、俺はふと会話のリズムが途切れた瞬間に、立ち上がる。

 「ちょっと冷水機まで行ってくる」

 動機は単純明快。喉が渇いたから、それだけだ。

 「おう、行ってらー」

 霞真は、既に持参していた水筒を片手に、俺を見送った。

 俺は少し小走りに、グラウンドの校舎側に設置された冷水機へと足を運んだ

 「げっ」

 ……のだが。

 

 ワイワイガヤガヤ

 

 なんと冷水機は、既にクラスメイトの他の男子達によって占領されてしまっていた。冷水機から、まるで蟻が綱渡りをしているかのように、一本の長い列が出来てしまっている。

 これじゃあ、しばらく待たないと空きそうにもないな…。

 困った。

 俺は今、猛烈に喉が渇いているというのに。

 「はぁ…仕方ない。少し遠いが、体育館側のを使うか…」

 俺は諦めて、グラウンドとは反対側に位置し、移動により時間の掛かってしまう、体育館の横に設置された冷水機へ向かうことにした。

 休憩時間の終わりに間に合わせるため、俺は先ほどよりも足の運動を早め、タッタッタッ…と校内を掛けて行く。時折り口内に溜まった唾を飲み込むと、咽頭部がカラカラに干上がっていたのが分かる。乾いた粘膜同士がペタと、擦れ合うように引っ付いて、なんとも不快な感覚だった。

 しかし、目的地も、もうすぐそこだ。

 あの曲がり角を曲がれば…もう……………

 「………彼花」

 ポツリとその名前を溢すと、前屈みとなることで、重力に従ってその顔を隠そうとする自らの鮮紅の長髪を、そっと耳に掛け直す、一輪の凛として咲いた、可憐な花の少女が、こちらの存在に気付き、口を開いた。

 「あれ、紫苑じゃない。こんな所でどうしたの?もしかして、授業サボってる最中だった?」

 開口一番、なんとも彼女らしい発言だった。

 「そういうお前も、授業サボってる最中なのか?」

 「違うわよ。ただ水分補給に冷水機まで来ただけ…って、あんた本当にサボってたの!?これは、もう一発お叱りが必要なようね…」

 メラメラと瞳の奥に業火を燃やしながら、握り拳になんからのパワーをチャージし始めた彼花。

 「いや、違う違う、冗談だって!」

 「本当にぃ〜?」

 俺が慌てて訂正しても、彼花は疑いの目をこちらから逸らそうとしなかった。

 俺は、身から出た錆、ということわざを密かに心の中に思い浮かべながらも、その疑いを晴らすための弁明として、ここまで来た経緯を説明し始める。

 「で、かくかくしかじかってことで…だから、俺の前でそのポーズを取るのはやめてくれっ」

 まるで、彼花のその構えから醸し出されるオーラに、彼女の髪の毛までもが逆立っているかのような錯覚に陥る。そう、そのままじゃんけんの掛け声と共に、拳一本で何もかもを破壊してしまうのではないかと言うほどに。

 「……まぁ、今回のところは見逃してあげるわ」

 が、彼花は俺の早口な説明を訝しげにだが聞き入れ、そっとその拳を降ろしてくれた。

 ホッ…ひとまず、鉄拳制裁の危機からは免れたようだ。

 「なら…」

  彼花は、後ろに一歩下がった。

 「ほら、どうぞ」

 どうやら、俺に譲ってくれようとしてくれた。

 「良いのか?」

 「ええ、もちろん。喉カラカラなんでしょ?」

 「でも、お前の方こそ、俺のせいで飲み損ねたんじゃ…」

 「良いの、良いの。私、実はそんなに喉渇いてたって訳でも無かったから。ただ、念のため軽い水分補給しに来たってだけなの。だから、気にしないで」

 「……そっか。だったら、まぁ、遠慮なく…」

 喉の渇きが訴え掛けて来たのもあり、俺は彼花の好意に素直に甘える事にした。冷水機の前に移動し、前屈みになって、ボタンを押す。やがてじゅわじゅわと勢い良く噴射口から溢れ出てくるその恵みを渇いた口内に受け止めると、俺の口元はつい綻んでしまう。

 「美味しそうに飲むわね」

 そんな様子の俺を、俺と同じような表情で見守っていた彼花を横目に、俺は、ゴクゴクと喉から胃にかけてを清涼感でいっぱいにしてから、ぷはーっと顔を上げた。

 「そのままCMに起用されてもおかしくないぐらいだわ」

 「まるで舌の上で冷えた水がシャッキリポンと踊るようだっ!」

 「……それは意味不明よ」

 俺は、たまらずもう一度前屈みになって、冷水機の水を堪能した。

 「ふー…生き返ったぁ」

 口元に付着した水滴をおもむろに体操着の裾で拭う。

 俺の体温は腹の底から急速に冷却され、次第に汗も引いてきた。

 「ありがとな、彼花」

 「大したことしてないわよ」

 二人はそれから、言葉の間に自然と生まれた沈黙の中へと身を置いて、互いの視線を引き込んだ。

 しかし、やがて遠くから響いてきた教師の休憩時間の終わりを告げる号令が、二人を二人きりの心地良い沈黙の世界から、忙しなく進む変わり映えのない、単なる学校の授業時間の只中と引き戻した。

 「あーあ、もう休憩は終わりか…もうちょっとだけ、涼んでいたかったな」

 俺は、名残惜しさを包み隠す事なく口に出した。

 「そうね」

 彼女にしては珍しい素直な相槌。でも、彼女はいつものように腕を組むと、何気無く、さりげないように明後日の方向に顔を向けて、俺にその純白の横顔を晒した。

 二人は、またもや沈黙の世界に足を踏み入れかけていた。互いが、それを求めていたのが分かった。互いに、分かっていた。

 「でも」

 その一言は、湖から一羽の鳥が羽ばたいて去り際に残したような、謂れのない虚しさを孕んだ細波と同義だった。その波が俺の足元をかすめたかと思うと、極度に張り詰められ、外界から訪れる一切の接触や干渉をも許そうとはしなかったはずの沈黙の湖は、一瞬にしてその存在の証明を為す事が不可能となって、崩れ去ったのだった。

 「みんなを待たすと悪いし、早いとこ行っちゃいなさい」

 俺に向き直って、笑顔を浮かべたままの彼花。

 「うん…知ってるよ」

 言葉とは裏腹に、俺は身動き出来ずにいた。

 なぜだかは、分からなかった。

 「……ほら、さっさと動きなさい!」

 「おい、押す事ないだろっ」

 彼花は、そんな俺の肩をグイグイと強引に押して、無理矢理グラウンドへと続く道の方向へ、俺を振り向かせた。

 「分かった、分かったっての!行きます、行きますよっ…たく……」

 

 トントン

 

 「また後でね」

 「……ああ」

 去り際、彼花は俺の肩を少し強めに叩いた。

 ……なぜだろう。

 ずっと、疑問が疑問の形のまま、俺の中で消化されず残り続けていた。

 あの時から。

 彼花と接触している間、授業中居眠りした時に見た、あの不思議な“夢”の断片は、ずっと思考の裏側からこちらを覗き続けていた。

 しかし、先ほど彼花からも忠告されたように、いつまでももたもたしてみんなを待たすと悪い。俺は走った。やがてグラウンドに戻ると、既に教師の周りをぐるりと囲み塊となっているクラスメイト達の姿があった。

 その塊の中で、物理的に頭一つ抜けていた男が、こちらの存在に気付き、手を振った。

 俺は駆け寄った。

 「おぉ、紫苑。水分補給だけにしては随分遅かったな、なんかあったのか?」

 やはり、時間を掛け過ぎてしまったか。

 「いや、近くの冷水機が埋まってて使えなかったから、体育館の方まで行ってきたんだよ。それで、偶然そこに彼花もいてさ…」

 

 ギラッ

 

 殺気。

 刹那、背後から感じ取ったのは、俺に対する、明確な殺意の込められた視線だった。

 「貴様…今、なんて言ったんだ…?」

 振り返れば、そこには虚な瞳を浮かべたクラスメイトの一人が、一直線に俺を睨み付けていた。

 「え?いや、だからただ冷水機で偶然彼花と遭遇して…」

 「お前ぇ…ただでさえ普段から白藤さんとイチャイチャしてるってのに、俺達に隠れて、彼花さんにまで手出そうってのかっ!」

 は、はぁ?

 ものすごい剣幕で迫られる。

 「そうだぞ!お前ばっかりチヤホヤされて…許せんっ!ふざけんじゃねぇ、こんちくしょう!」

 ゾロゾロと、殺気立つクラスメイトの男子達に、四方を囲われていく。

 おいおい…こいつら、俺が今まで彼花達から一体どんな仕打ちを受けていたのか、実際にその目に焼き付けていたはずだろ!?

 「ちょ、ま、待てお前らっ」

 やがて、俺は数人の男子の手によって、集団の頭上へと担ぎ上げられていく。

 「待てっ、話せば分かる、話せばーッ!」

 まるで押し寄せる荒波かのように迫り来る手のひらに、俺は成すすべなく揉まれ、身を打ち付けられ、嬲られるばかりであった。

 「うおーっ!俺も蹴られたかったのにーっ!」

 「俺も罵られたかったーっ!」

 な、なんなんだこの変態どもはっ!もはや、手の施しようすらない化け物っ…!誰か、誰か助けてくれぇええええ!

 「コラッ!お前ら授業中に遊ぶな、早く列に並べ!ったく…」

 せ、先生っ…!

 その鶴の一声に、獣のように怒り狂っていた男子共は牙を抜かれたが如く、途端にその威勢を失った。同時に、津波のような濁流に拘束されていた俺は、解放と共にまるで無機物のようにグラウンドの上にほっぽり出された。

 あぁ、先生…俺、今、あなたの姿が輝いて見えるよ。俺、ずっと生意気だったけど、ずっと授業中も居眠りばっかりだったけど!てか、多分これからもそうだけどっ!今回ばかりは、今までの自分を悔い改めて、貴方様に感謝致します!俺の命を救ってくれてありがとうっ!

 俺は、ボロボロになった姿のまま座り込んで、感謝の念を込めながら人生の恩師に対し合掌していた。

 「いやぁー、大変だったな、紫苑」

 そこに、何食わぬ顔をした大男が近付いてくる。

 「てめぇ霞真っ、どの面下げてノコノコと!少しは助けてくれても良いじゃんかよ!」

 俺は我を忘れ霞真に詰め寄った。

 「わりぃわりぃ、面白くてついな…それに、自業自得みたいなもんだし」

 どこが自業自得、だ。一方的な嫉妬心による加害、暴力だ。

 「ま、良いじゃねぇかよ。お前が充分この学校に馴染んだってことの証みたいなもんだ」

 そう言ってしゃがみ込んだ霞真の大きな背中が、遮られた日光から俺の元へと、大きな影を作り出した。

 「それもこれも、彼花のおかげってことだし…なっ?」

 ………彼花。

 「分かってるよ、そんなことぐらい、自分で…」

 何を言うでもなく、二人同時に、手を出す。

 手を取り合うと、霞真は、その自慢の腕っぷしで俺を地面から引っこ抜いた。

 俺たちは、そういうものだった。あの日、互いに拳を交わした、あの時から、そういうものになっていた。

 「でも、勘違いすんなよ!俺は、お前に対してだって、彼花と同じぐらい、ずっと感謝してるんだから」

 俺は思っているままの気持ちを、霞真に伝える。

 「なっ……お、お前、中々小っ恥ずかしいこと言ってくれるじゃねぇか…別に、そういうの、嫌いってわけじゃねーけどよ…」

 霞真は、顔を赤くしながら、人差し指でポリポリと頬をかいた。片側の口角が、微妙に上がっていた気がした。

 俺は、そんな霞真の様子を見て、思い切り笑顔を作った。

 「よし、お前ら全員集まったな」

 それから教師が、組分けや、ルールなどについての事項を改めて述べていった。俺達は、ぼーっと突っ立ったまま、静かにそれを聞いていた。たまに欠伸もした。

 「それじゃ、各自配置に付けー」

 やがて退屈な話から解放されると霞真は、大きく伸びをしてから、両頬をパチパチと叩いて、よしと気合を入れ直した。

 彼の運動神経、そして運動に対する熱量は目を見張るものがある。

 例えば、体育の授業などでも、その種目の部活動に属している生徒達をも差し置いて、一人でにエース級の選手としての地位をもぎ取り、無類の活躍を見せてしまうほどに、彼は運動において、とても恵まれた才能を持っていた。

 そのため、入学当初からずっと数多の運動部から入部の勧誘を受けていたらしかったが、ずっと部活動には所属しないまま過ごしていた。理由は単純に面倒臭いからと。どうやら身体を鍛えるのは彼の趣味、もとい生き様のようなものであるらしく、特定のものに執着はしたくないらしい。

 「っしゃー!目指せ二百点っ!目指せ日本初のバロンドールっ!待ってろ世界どもぉー!」

 しかし、その優れた身体能力の代わりと言っても差し支えないほど、この気の抜けたアホ面からも察せられる通り彼は、ダチョウともよく性質の似た頭の悪い生き物なのである。

 「特に紫苑、お前にだけは、ぜってぇ負けねーからなっ!」

 闘志の籠った瞳を見せつけられる。

 ちなみに、霞真にはライバルとも言える人物が存在した。

 「ふん、望むところだ!」

 俺もまた、そんな彼の熱量に当てられ、共に燃え上がってしまう部類の人間なのであった。

 

 ピーーッ!

 

 甲高い笛の音と共に、中央に設置されたボールが勢いよく弾かれた。

 

 3

 

 「今日も一日頑張った…」

 俺はため息を吐いて椅子に座ると同時に、腰を机側の奥の方へと滑り込ませて、リラックスできるポジションを陣取った。

 学校に拘束されていた時間は、ほんの数秒前に鳴ったチャイムと共に終わりを告げ、今はもう放課後。

 やっと解放された…。

 最近になってようやく、学校に対する苦手意識は和らいできたものの、やはり好きにもなれない。と言っても、特に好きになれない理由があるという訳でも無いのだが。

 さすればこれも、思春期に起こるとされる反抗期とやらの、一種の典型的な症状なのかも知れないな。

 俺は、帰宅時間となったのにも関わらず、何をするでも無くただ一人でに意味のない考え事に耽り、ぼーっと頭を休ませていたが、その内、段々と教室から、廊下の方までがざわざわと騒がしくなってきた。

 生徒同士の談笑、足音、扉の接触する摩擦音、色んな音が混じり合って、一つの環境音を形成している。

 しかし、今日はそんな雑音の響きが、いつもよりはっきりと校舎全体にこだましているような気がした。

 まぁ、無理もない。いつもと変わらない日常、いつもと変わらない一週間、退屈で変わり映えしない日々…そんなありふれた学校生活の中でも、学生達にとって今日は、ほんの少しだけ特別な日だったからだ。

 そう、学生であれば誰しもが密かに待ち望んでいる曜日、金曜日である。

 金曜日、という響きには、土曜日や日曜日という言葉の宿すものとは、隔絶された心地良さがある。色々と言い換えようとすれば長く語れるのだろうが、簡単に言えばそれは、希望的観測のみを宿すか、もしくは悲観的観測をも宿すのか、という違いにあるんだろうと思う。特に日曜日の夜は、なんとも憂鬱な心持ちになる。

 つまり、金曜日には希望が詰まっているのだ!

 かく言う俺も、例に漏れず、いつもより少し軽い心持ちでいる。

 今日は、彼花達との“例の団”の予定もないしな。

 さーて、帰ったら何をしようかなぁー。

 どうせ数分後には全て忘れているであろう未来予想図を設計しながら、教科書等を鞄の中に突っ込み、席を立った時、足元でふりふりと踊り揺れるスカートを抑えるように、両手を前に鞄を携えた少女が、俺の視界に立ちはだかった。

 「紫苑、この後予定ある?」

 芽依だ。

 「特にない、このまま家に帰ろうとしていた所だ」

 「そっか」

 芽依は、にっこりと無邪気な笑顔を浮かべた。

 「今日は部活オフだから、一緒に帰ろ」

 「そういうことか、いいぞ。ご近所さんだもんな」

 「近所というか、隣だよっ」

 「まぁな」

 俺は笑いながら答えた。

 どうやら今日は、帰り道に同伴者が一人増えたようだ。

 「さ、行こ!紫苑」

 意気揚々と駆け出していく芽依。

 「おう。今日はかけっこでもしながら帰るか」

 「え〜、それはやだよー」

 二人で教室を出る。やがて人混みを抜け、二人きりになる頃には閑静な住宅街が俺たちを出迎えていた。立ち並ぶブロック塀を乗り越えはみ出した、長い木の枝に生えた豊満な葉は、まだ夏の面影を色濃く残したまま、差す日光を二人に散らしていた。

 「紫苑、学校楽しい?」

 何気ない会話を交わしていると、ふと芽依が訊ねた。

 「あぁ、楽しいよ」

 当たり前だと言わんばかりに、即答する。

 「そう…なら良かった」

 やっぱり、今でもこいつには、心配を掛け続けているんだろうな。

 普段は、いつも柔らかな表情を浮かべ、おっとりとした印象の強い芽依だが、昔から、根っこの部分ではものすごく強い奴だ。

 「本当に、良かった」

 …数え切れないほどの面倒と迷惑を、芽依には強いてきた。

 俺が、不甲斐ないばっかりに。

 「…ありがとな、芽依」

 「もう、今更そんな畏まらなくたっていいのに」

 それでも、こいつは俺を見限ることなんてしなかった。ずっとずっと、俺の隣に寄り添って、その温もりを分け与え続けてくれたんだ。

 「本当に、彼花ちゃんには感謝しなきゃだね」

 …やっぱり、また、彼花の事だった。

 「あぁ、もちろん」

 でも、例え誰かに言われなくたって。俺が彼花に対する感謝の気持ちを忘れることは、絶対にない。

 本当の、人生の恩人だ。

 「…でもさ。私、紫苑がこっちの学校に転校するって事になった時、実は嬉しい気持ちもあったんだ」

 足取りに追随して揺れる二人の鞄。

 「小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたのに、高校になって離れ離れだなんて、寂しいでしょ?」

 芽依とは、まだ物心すら付いていないような頃からずっと、親交があった。と言うのも、俺の両親と芽依の両親は、互いに同じタイミングで隣同士に家を建て、自分達の子供(つまり俺と芽依)も同じようなタイミングでもうけたのだった。

 そんな偶然が重なれば、逆に関わりを持たない方が難しくなるだろう。俺の両親と芽依の両親はそれらの接点から意気投合し、俺と芽依もまた、その当事者だった。

 なので、俺は芽依の両親からは、普段からすごく良くしてもらっている。晩ご飯のおかずや、妹の面倒など、日常のあらゆる部分で助けてもらってきた。

 芽依の家庭には、感謝してもしきれない。

 でも、何よりも、芽依自身にだ。

 「ごめんな」

 芽依の歩調が、動悸のようにズレた。

 「…謝らないで、欲しいな」

 俺は当初、今のように芽依や彼花、霞真達と共に通っている〇〇高校とは、違う高校に入学していた。その高校は、自宅から通うには少なくない数の駅を挟んだほどの距離にある、地域では一番の進学校だった。

 元々、勉強は不得意ではなかった。それだけに生活のリソースを割いていれば、俺なんかでも充分通用する程度の場所だった。

 しかし、それは文字通り、あらゆる日常生活を犠牲にした上での話だった。毎日が勉強漬けの日々。勉強して、寝て、朝起きて、学校に行って、帰ったらまた、勉強して、寝る。

 比喩も誇張も無く、本当にただそれだけの生活を送っていた。体力には自信があったので、その生活を継続すること自体は、あまり苦にもならなかった。むしろ、毎日死んだように眠ることの出来たその環境は、当時の俺にとってすればまさに理想郷だったと言える。

 しかし、それは裏を返せば、ただ空虚な努力に身を置いて、闇雲に疲労する事で自らを麻痺させていただけ。何も考えないで済むように、何も見ないで済むように。まるで路頭を彷徨う薬物中毒者のように、逃れられない現実に、眼を瞑って臨んでいただけに過ぎなかった。

 ある日、ある時、なんてことのない日常で、現実として起こった出来事を目の当たりにした時、俺の心に貼り付けられたその粗末な仮面は、一瞬にして崩壊した。

 俺は、俺が、俺として生きるために一番大事だった、絶対に目を逸らしてはいけない、本当に守らなければならなかったはずの大切な人からも、逃げていたのだ。

 それに気付いた時、同時にあることも知れた。結局は、目を開けても閉じても、そこには変わらず暗闇があるということ。

 ただ一つだけ違いがあったのは、その暗闇が、俺の内面だけに反映された虚構である無限か、どこまでも続くように思われる地平線の有限かというだけであった。

 今の俺は、地平線の先に立っている。

 「お前には、謝らなきゃ足りないんだ…いや、足しにもならないんだ。だって、俺は結局、一人じゃ何もできない、ただの弱むっ…」

 「それ以上はだめだよ」

 芽以は、強引に俺の唇に人差し指を押し当てて、俺の言葉を遮った。

 「……歩こっ」

 それ以上何を言うわけでもなく、言葉通り芽依は、歩き出した。立ち止まったままの俺を横目に。でも、少し進むとこちらに振り返り、にこっといつものような優しい笑顔を浮かべて、まるで、その道を指し示してくれているかのように、俺を見た。

 「…あぁ」

 …情けない男だな、俺って。

 また家路を辿り出した俺達は、それまでと同じように、なんてことのない、至って変哲のない日常会話を再開した。

 焦りや、気まずさなどの感情は、一切持ち合わせずに。

 だって、俺達の関係は、そこまで浅くも、綺麗でもない。

 俺達は、いや、俺はずっとそうやって、芽依の暖かさにばかり甘えて生きてきたのだから。

 だから、せめて心の中では言わせてくれよ、芽依。芽依は、そんなどうしようもない、あまりにも惨めで、弱虫な一人の男のことを、見捨てようとはしてくれなかったのだから。

 「じゃあまたね、紫苑」

 「おう、またな」

 別れを交わし、俺は芽依が玄関の中へと帰宅していくのを見届けてから、自分の家の扉に手を掛け、足を踏み入れた。

 家の中は、少し騒がしかった。

 下方を確認すると、玄関に置かれている靴が、一足多い。形状そのものはただの革靴と遜色ないのだが、サイズが一回り小さい分、可愛らしい印象を受ける。

 しかし、その靴の隣に、もう一足同じ種類の、ほとんど同じ大きさのものが並べられていた。つまりは、片方は妹の靴で、もう片方は家に遊びにきている、妹の学校の友達のものだということだろう。

 

 キャーーっ!

 

 よほど盛り上がっているのか、廊下にまで笑い声と叫び声が響いてきた。

 特に、あいつの声はよく通る…というか、あいつの声しか聞こえなかった。

 俺も妹達同様、靴を脱いで適当に玄関の縁に沿って並べて置いてから、リビングの扉を開けた。

 「ただいまー」

 「あっ、お帰り!お兄ちゃん」

 ゲームのコントローラーを握りしめたまま、やはりよく通る、威勢のいい声で俺を迎えたのは、わざわざ苗字まで出す必要性もない気がするが【菊永加菜きくなが かな】。

 普段はお調子者で、というか調子の良すぎる時が目立つが、陽気な性格の、遊ぶのが大好きな、ただの一般女子小学生。しかし、肝心なところは余程俺よりもしっかりしている、俺の自慢の妹。

 そして、この家に残された、俺の唯一の家族。

 「どうやら、今日はお客さんがいるみたいだな」

 俺は、先ほどから妹と同様に、テレビの前で、加菜と並んでちんまりと座ったまま、俺を見上げている少女に目を向けた。

 「どうも、はじめまして。お邪魔させていただいてます」

 お、おぉ…。

 なんとその少女は、俺に挨拶の言葉をかけるだけでなく、わざわざ立ち上がってから、整然とした口調と姿勢で、なんと最後にはお辞儀までやって見せたのだった。

 すごい子だ。

 それに、よく見ると彼女の容姿も、なんだかどっかのテレビドラマにちゃっかり子役として出演していても全然違和感のない、というか、もはや主役に抜擢されていてもおかしくないほどに整っていた。そのせいか俺が彼女に受けた第一印象は、良い所のお嬢様、という感じだった。

 「そんな堅くならなくたって良いのに。お兄ちゃん顔は怖いけど、そういうところは全然厳しくないし、とっても優しいお兄ちゃんなんだよ」

 おい、顔が怖いは余計だろ可愛い妹よ。

 「そうでしたか。でも、初対面ですから、挨拶はしっかりしておかねばと思いまして…もしかして、そういうのは嫌、でしたでしょうか…」

 少し肩を落とし、申し訳なさそうな上目遣いの、いたいけな少女。

 「いやいやいやいや!そんなことないよっ!」

 なぜだか、ものすごい罪悪感に駆られてしまった俺は、全力でその事を否定する。

 「むしろ、すごく感心したぐらいだ。俺が言うのもなんだが、今時こんな礼儀正しい子、あまり見たことなくてさ」

 というか、そんな彼女の醸し出す高貴なオーラに気圧され、ただの一般庶民の身分である俺は思わず一歩後退りしてしまいそうになったほどだったのだが…何はともあれ、誤解が解けると、彼女の表情はパッと明るくなった。

 「そうでしたか…良かったです」

 ……俺は、再度驚いた。

 それは、満面の笑みだった。

 まだ出会って数十秒だと言う関係で、人は人に、こんな素直で、真っ直ぐな、素敵な笑顔を向けられるものなのか。

 そして、まだ互いに名前も知らないような関係で、人は人から受けた笑顔に、こんなにも心が晴れ渡るものなのだろうか。

 綺麗だった。

 俺が色んな感想を胸の内に抱いていたら、彼女は突然ハッとした顔をして、口を開いた。

 「そうでした、自己紹介をまだ済ませていませんでした。失礼致しました」

 彼女は、改めて姿勢を整えた。

 「私の名前は【立花桂香たちばな けいか】と言います。呼び方はどうぞご自由に、以後お見知り置きを」

 そうやって、スカートの端を両指でそっと掴んで持ち上げながら、優雅にお辞儀した。

 「そっか…よろしくな、桂香ちゃ…桂香」

 妹の友達とはいえ、流石にちゃん付けは恥ずかしかった。

 「俺の名前は菊永紫苑。俺も呼び方は自由でいいが、みんなからは普通に紫苑って呼ばれてるぞ」

 「承知致しました。よろしくお願いしますね、お兄さん」

 

 グホッ!

 

 「お、お兄さ…んっ!?」

 な、なんだこれは!未知の脅威かっ!こんなの俺のデータにはないぞ!

 「もしかして、この呼び方はダメでしたか?だったら、お兄ちゃん、とお呼びした方が良いのでしょうか、お兄ちゃん?」

 

 グハァアアアッ!

 

 「お、お兄…ちゃん…だ、とッ!」

 なんなんだこの感覚は!自分の肉親であるところの妹とは違う、言ってしまえば赤の他人である少女から発せられた、絶妙な純粋さと魔性の背徳感を纏わせたその四文字の言葉の羅列…俺は、知らぬ間に心に掛かっていた謎の正体不明の眼鏡が、バリバリとその衝撃によってぶち壊されていくのを想像させられた。

 これはまずい、まずいぞ。あまりにも瞬間破壊力が高すぎて、俺なんかには対処できない代物だ!危険物すぎるッ!

 「……何やってんの、お兄ちゃん…」

 ハッ、まずい。俺が胸を押さえ込み、片膝を突いて倒れ込んでいるその横で、俺の事を年中お兄ちゃん呼びしている、お兄ちゃん先輩である妹の加菜から、ある種軽蔑の眼差しを向けられている気配がする。

 く、くそぉおお!負けるな、負けるんじゃない俺ぇ!今までの人生で築き上げてきた、妹の俺に対するお兄ちゃんとしての威厳のため、今こそ立ち上がるのだっ、俺ぇえええ!

 「ぐふっ…お、お兄ちゃんは加菜がいつも使ってるから、名前で呼ばないのなら、せめてお兄さん、って、呼んでくれるか、な…」

 俺は、どくどくと血の涙を流し、その赤血球に通う鉄の味を静かに噛み締めながらも、限界ギリギリ、男の意地で言ってのけた。

 「はい、お兄さんっ」

 嬉しそうに、その破壊力満載の名詞を、早速活用してのける桂香。

 …しかし、いくら言葉遣いや立ち振る舞いが大人びていると言っても、やっぱり笑った表情の桂香は、当たり前だが、一人の無邪気な女子小学生以外の、何物でもなかった。

 「はぁ、まったく、お兄ちゃんはやっぱりお兄ちゃんだね。でも、挨拶も自己紹介も済んだことだし、これで桂香ちゃんにまた一人、友達が増えたね。それじゃあ、三人で遊ぼーっ!」

 俺に対する謎の恐怖の評価を下しつつ、おっー!と、拳を天高く掲げ意気込んだ加菜。

 「おいおい、まだ出会って一分も経ってないってのに、俺達もう友達になったのか?」

 色々と急展開すぎて、流石の俺も置き去りにされてしまいそうになる。

 「そんなの気にしなーい気にしなーい」

 こいつ、本当にこういう所は子供らしいんだから…。

 「あのなぁ…そもそも、まだ桂香の承諾だって取ってないだ…」

 「え?私はてっきり、もうお兄さんとはお友達になったものだとばかり思っていました…もしかして、私とお友達になるのは、嫌、でしたか…?」

 「ぐ、ぐぬぬぬぬぬ…」

 頼むから、俺をそんな上目遣いで見ないでくれ、良心に心が押し潰されそうになる。というか、なんならもう一人妹が欲しくなってくるから。

 「…あぁもう!分かった分かった、俺の負けだよ。今日から俺と桂香は、お友達だ」

 なんて、仕方ないなと、大人の余裕風の空気を醸し出しつつも俺は、実は桂香とお友達になれたということを、密かに心の内で嬉しがっているのだが。

 「いぇーい!やったねっ」

 俺の言質を引き出して加菜は、まるでミッションクリアとでも言わんばかりに、いたずらにウィンクとピースをして見せた。

 やがて、俺達はテレビの前に三人、ぎゅっとなって並んで座ると、最近話題の新作ゲームであり、俺と妹の中で勝負し競い合うのがブームとなっていた、新進気鋭の対戦ロボットゲーム、バルジ◯ーノンに、時間の感覚も忘れて熱中するのだった。

 どうやら、桂香はこの手のゲーム、というより、今までゲームというもの自体一度もプレイしたことがなかったらしいのだが、意外な才能を見せ、桂香が門限のため帰宅する頃になると、ある程度熟練した実力を持つはずであった俺達兄妹に迫る勢いを見せていた。桂香、恐ろしい子っ!

 

 トントントントンっ…

 

 桂香が去った後のリビングには、包丁の刃先が物体を通過し、まな板に小刻み良く、どこか安心するようなリズムで叩きつけられている音と、てきとうに付けた雑多なテレビ番組の音とが、似た性質を持って互いに混じり合い、空間に垂れ流されていた。

 「そういえば、加菜と桂香は、どういう関係なんだ?クラスメイトとか?」

 「んー?桂香ちゃんとは、残念ながら同じクラスじゃないんだー。話すようになったのも最近だから」

 「最近?」

 「うん、最近。実は桂香ちゃん、ちょっと前に転校してきた子なの」

 ………転校、か。

 「……あ、いっけない、お豆腐買うの忘れてた」

 やがて包丁の音が止まると同時に、加菜がポツリ呟いた。

 「必要なのか?」

 俺は、ソファの上からむくりと起き上がる。

 「うん。お味噌汁に入れようと思ってたんだけど…」

 「そっか。なら、俺が買ってくるよ。帰る頃には外は暗くなってるだろうし、女の子一人だと危ないからな」

 どうせ制服から着替えてもなかったから、このまま出れば丁度良いや。

 俺は財布と鍵を手に取りポケットの中に突っ込むと、玄関へ出て靴を履いた。

 「本当にいいの?お兄ちゃん」

 リビングへと続く扉から、ひょこっと身体を出し、縮こまったまま姿勢のままこちらを覗いている加菜。

 「あぁ、いいんだよ。お前は、テレビでも見ててきとうに休んでろ。じゃ、行ってくるわ」

 玄関の扉を開けると、気圧の差で、生温い風が俺の身を押すと同時に、家内に侵入してくる。

 「あ、そうだそうだ、お兄ちゃん、これっ」

 「ん?」

 ほとんど家を出かかっていた俺を静止し、何かチラシのようなものを渡してきた加菜。

 「ここのスーパー、他の所よりも安くなってるんだー。お願いできる?」

 「…ふっ、おうよ」

 抜け目のない奴め。

 外に出て扉の鍵を閉めると、俺はそのチラシを元に、歩き出した。

 とは言っても、やはり俺の妹も鬼ではない。最寄りのスーパーとは少し離れているものの、徒歩でも全然苦にならない距離にあるスーパーだった。

 決して潤沢とは言えない家計のために、普段から節約節約と躍起になってはいるものの、やはりあいつはお兄ちゃん愛に溢れた優しい奴だからな。そもそも、そうやってできる限り無駄な出費を抑えようとしているのも、他ならぬ家族のためであった。

 なので、俺も一家の主として、頼られるべきお兄ちゃんとして、今晩の味噌汁に入れるための、特売の豆腐を買い求めるという大きな使命を果たさなければならないのだ。

 と、なんとも立派な目標を掲げ、町中を闊歩していく俺だったが、道中、住宅街を抜け坂道を登り始めた。そこは、ある公園へと続く道なのだが、実はこの道を使うと、今回の目的の場所だと、普通に行くよりも少しだけショートカットできるのである。これは、この町の地域住人として、知らぬ間に会得していた、ほんの少しだけ役に立つ便利な知恵であった。

 「……ん?あれって…」

 しかし、公園へと差し掛かろうとした時、俺は立ち止まった。

 既に夕方ということもあり、視認性はあまり良くなかったが、今確かに、どこか見覚えのある少女が、少し遠くの茂みの中に入っていったのが見えた。

 何をしているんだろうか?純粋に気になった。

 俺は、そもそもその少女が一体自分とどういった関係性の人物かという見当すらも付かないままに、ある種衝動に駆られたかのように、その後を追って茂みの中へ入った。中腰になって、わさわさと生い茂る緑を手で掻き分け、その度に放たれる濃い草の香りを浴びながら、向こう側へと出る。

 すると、少しひらけた場所、そこは…墓地であった。

 ハッとして、振り向く。

 その時、俺の鼻腔をふわりとくすぐったのは、いつまでも俺の脳裏に染み付いて、片時も離れようとはしなかった、そんな、秋の訪れを告げる、爽やかで芳醇な甘い香り。

 「……桂香?」

 名前を呼んで、夕陽に重なった少女は、振り返った。

 ゴールドに、濃厚なオレンジを身に纏った、無垢な花。

 「お兄さん…」

 

 グハッ…

 

 奇襲を喰らってしまったものの、やはり、桂香だ。

 「ご無沙汰ですね」

 「いや、ご無沙汰というか、さっきぶりというか…」

 桂香は、ふふっ、と目を細めながら微笑むと、ちょんちょんとこちらを手招きした。

 俺は、妙なぐらい素直に、それに従って、桂香の隣までスタスタ歩いていった。

 「……これって…」

 「私、この場所が、大好きなんです」

 この公園には、幼い頃から、何度だって来たはずだった。芽依や加菜、それこそ、両親なんかとも共に。

 「お兄さんは、今まで一回でも、ここからの景色を眺めたことはありませんでしたか?」

 「…うん、ないと思う…これが初めてだよ」

 なぜか、ここにだけは、一度たりとも立ち入ったことがなかった。

 「…そうでしたか」

 桂香は言い残して、また視線を下方へと移し、町を眺める。この町全体を見下ろす事の出来る、とびっきりの絶景を全て独り占めしてしまっていた、この丘から。

 「それなら、お兄さんは…」

 今度、桂香は振り向かずに言った。

 「お兄さんは、この町が好きですか?」

 それでも、桂香の顔に写る、その輝かしいオレンジ色の夕焼けが投射された、細ばめられたまぶたや、照った頬や、鼻筋からなぞるように上る口角は、まるで一枚の演出された絵画のように、何もかもが重なって見える。

 その微笑は、ずっと、いつまでも、何もかもが変わる事のないように、そこにあり続けた。

 「この町…か。好きだよ、今では」

 「私もですっ」

 桂香の瞳は、まるで我が子を見守る母親のようでいて、言葉は、見守られている子供のようだった。

 「この町には、思い出があります」

 思い出。

 そうか、思い出。

 俺にも、あったはずなんだ、沢山の思い出。この場で、この町で、知らず知らずのうちに重ね続けていた、大切で、ありふれた、そんなかけがえのない思い出。

 「お前は、どうやってこの場所を見つけたんだ?」

 「……どう、やって、ですか…」

 桂香は、その問いに答えあぐねた。

 「…物心ついた頃からずっと、ここでこの景色を眺めていましたので…あまりこれといったきっかけは、ないんです」

 「…ずっと、ここで?」

 「ええ、ずっと」

 そのやり取りを最後に、俺達は少しの間口を紡いで、やがて桂香が、両親が心配するといけないのでそろそろ、と別れを告げるまで、二人でこの広大な景色を眺めていた。

 しかし、俺は桂香が去ってもなお、この場に残り続けている。

 俺は気付かなかったのだ。

 あの時、居眠りから叩き起こされた直後から、ずっと俺の心を覆っていたモヤモヤが、桂香と出会い、話し合ってからは、まるでそれが通り雨だったかのような、一時的な曇り空だったかのような、そんな、人と似た、お天道様の気まぐれとやらの、なんとでもないような事象であったと直感し、そう理解してしまっていたこと。

 厳密には、桂香とこの丘で出会い、別れるまで、ずっとそうだった。

 俺は、光差す晴れ渡った空に、なぜか、曇り空や雨を思い浮かべたりなんかしなかった。

 いつかは、そんな青い金色の空でさえも、大きな雨雲が覆い隠してしまう日が来るというのに。

 本来ならば、まさしくその雨雲にこそ、希望が詰め込まれているはずなのだ。

 一度空が覆い隠されてしまえば、後は晴れるのを待つばかりである。それこそが、真に希望と言える何かであるはずだった。

 なのに、俺は…俺は、その事を忘れてしまっていた。そして今になってようやく、忘れていた事に、気付かされていた。

 草と花々の丘に浮かんだ空から雲は散り、その隙間から、すでに落ちかかって、山肌から滑り込むようにして差し込む斜陽があった。

 おかしいな、今日は、ずっと晴れ模様の、猛暑日だったというのに。

 なぜこの空には、丘には、こんなにも物悲しくて、澄んだ、包み込まれるかのように穏やかな秋風が吹き付けるのだろうか。

 そして、なぜ俺は、こんなにも心動かす崇高な人々の営みを反映した、この丘からの、この景色を、今の一度たりともだって見たことがなかったのだろうか、見逃し続けていたのだろうか。

 もしこの丘に立ったことさえあれば、俺は加菜の友達としての桂香ではなく、ただ一人の俺として、ただ一人の彼女である立花桂香と、邂逅していたのだろうか。

 そんな世界を想像せざるを得なかったのは、一体なぜなのだろうか。

 透き通った情景が、ただそこに漂うばかりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

for/seasons くまいぬ @IeinuLove

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る