第3話

 図書館から帰った私を、稑は笑顔で迎えてくれた。

「姉ちゃん、大丈夫だったよ。一人でもできた」

 稑の表情は自信に満ちて見えた。昼食も自分で用意して食べ終わっていた稑は、これから友達の家へ遊びに行くという。午前中から遊んでいる友達と合流するのだとはりきっていた。


 祖母がデイサービスから戻るのは夕方だったため自由になった私は、家の掃除をした。窓から差し込む夏の光に照らされながら、雑巾を絞るたびに掌にひやりとした感触が残った。汗ばんだ頬に流れる風が心地良くて、少しだけ救われた気がした。無心で掃除をしていると、ふと佑のことが思い浮かんだ。ブランコから降りる時のこと……。

 

 今も赤面する。佑の背中に触れた瞬間、固くなっていた心がゆるんだ。広くて、頼れる背中だった。佑は、私の弱さをそのまま受け止めてくれる。その温もりに包まれると、また歩きだそうとしている自分に気付く。


 幼馴染みは、時に家族よりもそばに寄り添ってくれる。佑は、夏休み中に一緒にどこかへ行こうと誘ってくれた。その約束が実現することを願う。私は洗面所を掃除しながら、鏡に映った自分の顔を見た。鏡の向こうで、思いがけず微笑んでいる自分と目が合った瞬間、胸の奥がほんのり温かくなった。こんな顔は、母や祖母には見せられない。本当の気持ち、本当の自分を見せられる相手ではなかった。


 掃除を終えて、リビングのソファに体を預けた。「幼馴染みのままでいいのだろうか?」という疑問は常に私の中にあって、佑との距離感を測りながら過ごしているところもある。でも、考えても仕方のないことかもしれない。自然な流れに任せてみようか......。 

 リビングに、太陽の日差しが差し込んできた。柔らかな光に包まれると、心の奥に少しだけ余裕が生まれたように感じられた。また自分のために、少しでもいいから時間を作りたい。


 どこかの専門家の言葉を思い出す。

「認知症は、退化ではなく進化です。忘れたいことは忘れ、忘れたくないことだけを覚えている」  

 認知症の当事者やその家族からしたらとんでもない言葉だが、その専門家は続けてこんな例を話していた。

「奥さんが認知症になった時、一番先に忘れるのは旦那さんの顔らしいです」

 祖母は、祖父の顔を覚えているだろうか? きっと真っ先に忘れてしまったのかもしれない。もしも、私が認知症の当事者になったとしたら、真っ先に忘れてしまいたいのは「母の顔」なのだろう。必要最低限の愛情をも与えてくれない母親の顔は、忘れてしまいたい。


 認知症が退化なのか進化なのかは分からなかった。けれど、家族の体力と気力を消耗させるものには違いなかった。介護と切り離した時間を作らないと、自分の人生そのものが嫌になってしまいそうだ。介護という解き方のわからない「問い」に日々、直面している。誰かに私の人生を救出して欲しいと願う。


 気付いたらソファの上で眠っていた。大人のように疲れがたまっている中学生なのだ。深い眠りに落ちていた。


 目覚めた時には、窓の外では蝉が鳴き止み、夕暮れの気配が忍び寄っていた。ほんの数十分の眠りだったのに、夢から覚めたように頭が冴えて、心も少し軽くなった。今のうちに夕食を準備しよう。今日は、簡単にサラダうどんにしようかな。シーチキンとコーンとカットしたレタスを混ぜて、麺つゆで味付けをする。茹でたてのうどんをさっと冷やして、先ほど作った具と混ぜるだけで出来上がり。一皿でたんぱく質と野菜をたくさん摂ることができる。


 家の前で車のドアが閉まる音が聞こえる。そろそろ、祖母が戻って来る時間だ。玄関の呼び鈴が鳴り、祖母がデイサービスの職員の送迎で帰って来た。玄関先まで付き添ってくれる職員が、施設でどんなことをしたのか手短に説明をしてくれる。最初は、中学生の私に報告することがためらわれたようだった。でも、今では顔見知りとなり、こちらの必要な情報も与えてくれる頼れる存在だった。


「今日もいいお湯だったわ」 

 祖母が目を細めながら言う。デイサービスを利用することは祖母にとっては欠かせない大切なものなのだろう。介護は専門家の手を借りなくては成り立たないものだと中学生にして知る。 デイサービスに通った日、祖母はぐっすり眠ることができる。いつもは寝付くまでに時間がかかるのに、この日はすぐに眠ってしまう。


 体の機能訓練になるようなレクリエーションを楽しんだり、久しぶりに同世代の友達に会ってお喋りができたりして良い気分転換になるようだ。中でも楽しみにしているのは入浴だ。家では、風呂に自分で入ることも、私たち家族が介助して入ることも、安全面の心配からしていない。だから専門スタッフによる入浴サービスは本当にありがたい。中学生の私と小学生の弟の二人で祖母を入浴させるのは至難の業なのだ。 


 夕食前に稑は友達の家から帰って来て、珍しく食事の準備を手伝ってくれた。いつもは小食なのに、今日はサラダうどんを大盛りにして食べている。

「一人で介助がんばったよ」

「稑、ありがとう。助かったわ」

「姉ちゃん、母ちゃんはあんなふうだけど、僕は少しでも役立ちたいと思ってるんだ」

「そうなの? 稑」

 稑の目は凛とした真っ直ぐな視線を送ってきた。

「僕だって来年は六年生になるんだから、大抵のことはできるはずだよ」

「ありがとう」

 

 私は、稑の言葉を聞いたら涙が止まらなくなった。私は、一人で孤独に頑張ってきた。こんな身近に理解者がいるのだと気付かなかったのだ。これまで稑は、母の愛情を独り占めする末っ子でしかなかった。だけど、今は、介護に明け暮れる私に、協力しようとしてくれている。とても心強かった。「私は、もう一人じゃない。佑はもちろん、わかってくれている。稑だって理解しようとしてくれている」

 とても穏やかな気持ちになった。

「そうだ、今度、眞由子にも話してみよう」

 顔を、くしゃっとさせて微笑む眞由子の顔が浮かんできた。

 これまで心がすり減ってきたのは、自分自身の闇に飲まれて、一人でがんばり過ぎていたのかもしれない。


 夕食の片付けをしていると、母が帰って来た。

「うの、今日の図書館はキャンセルできたの?」

 開口一番に聞いてきた。私は黙っていた。母は、私が答えないことに苛立ちを感じたのか

「ねえ、うの! 聞こえてるでしょ」

大きな声で罵ってきた。私は、大声を出す人は嫌いだった。嫌な気持ちになる。

「ねえ、母さん。稑は一人でも大丈夫だったって言ってたよ」

「それは、うのがそう言わせたんじゃないの? まだ、小学生なんだから、介護の手伝いをさせるなんて気の毒よ。どうなの? 稑」 


 稑は、黙ったままうつむいてしまった。こんな時、稑は言い返したりしない。母に言い返すことは、反抗しているのと同じだと見なされるから。

「お母さんは、私に介護をさせるのは平気なの? 中学三年生で受験生なのよ」

 私はいつになく、本音を露わにした。稑には言えない言葉だろう。

「だって、うのは中学生なんだから、もう介護ぐらいできるでしょ」

 大声で捲し立ててくる母の声は、頭に響く。

「お母さんは、ひどい! いつも稑ばかり子供扱いして!」

 涙が後から後から溢れて止まらなかった。


「ダイッキライ!」

「うのちゃん……。お母さんも大変なのよ」

 母の言葉は、胸の奥に冷たい鉛を落とす。。こういうのを「毒親」と言うのだろうな。さらにひどい言葉が返ってきそうだったから、すぐに自室に戻り鍵をかけた。


 今日も、夜の介護をするのはやめよう。母は、祖母の夜中のトイレにつきそったりできるだろうか? 祖母は、万が一に備えておむつをしているが、まだおむつに排泄するのは抵抗があるらしくできるだけトイレで排泄をしたいのだ。

 おむつから排泄物が外に漏れ、処理をすることだってある。母にだってやってもらいたい。夜中に何度も起こされることがどんなに大変か、母にも知って欲しかった。

 

 その夜、母が祖母のトイレに付き添って大きな声で怒鳴っているのが聞こえてきた。祖母も、いつになく大きな声でわめいている。祖母には気の毒だが、私はもうその親子げんかに加わる気はなかったし、誰もそれを止めることはできなかった。


「あんたなんか、老人ホームにでも入ってよ。もううんざりよ」

 母がひときわ大きな声で言い放った。普段は私に任せきりにしているのに、たまに介助をすると大騒ぎをして周囲を嫌な気持ちにする。どこか子供っぽさが残っていた。だから、私に介護を任せておいても平気な顔をしていられるのだろう。私はベッドの上で布団にくるまりながらいつしか眠っていた。 


 翌朝、眞由子にLINEを送った。誰かとつながりをもっていないと平静を保てない気がした。眞由子は、部活動で最後の大会を終えて引退したところだった。午後から、久しぶりにうちに遊びに来てくれることになった。家に来るのは、中学一年生以来の気がする。うちに来たら、私が今置かれている状況がひと目で伝わるのではないかと思う。午前中のうちに、昼御飯と、夕食の準備を済ませておくことにした。そうすれば、眞由子にゆっくりしてもらえそうだ。家事をやりくりすると余裕が生まれる。

 冷蔵庫にある食材で料理をすることにした。こんな時には、簡単な野菜炒めにしよう。ピーマンをカットして、豚細切れ肉と炒め、そこにモヤシを投入した。ちょうど作り終わったところに玄関の呼び鈴が鳴った。


「うの、こんにちは。お邪魔します」

 眞由子が玄関で靴を揃えて、廊下を歩いて来るのが見えた。私は祖母が突然トイレに行きたいというので、移動するのを介助することになった。

「おばさん、こんにちは」

 祖母は、昔聞いたことのある声に反応したのか、眞由子のいる方向に顔を向けて微笑んだ。眞由子は祖母のトイレが終わり、部屋まで介助をする様子を黙って見ていた。


「ねえ、眞由子、おばさんは、ひょっとして……」

「そう、認知症なの。要介護1をもらっていてデイサービスを週二回、訪問介護も週三回利用してる」

「介護をしていて大変だったのね。何にも気付かなくてごめん」

 眞由子は俯いて、唇をぎゅっと噛みしめた。

「眞由子が謝ることじゃないよ。私が黙っていただけだから」


 私は、眞由子にリビングのソファに座るよう促した。

「心配掛けたくなかったからね」

 眞由子の隣に座った私は、今の状況について話した。祖母と母の関係が良くないことや、そのため孫の私が主に介護をしなくてはならないこと、そして、自分自身も母親とうまく接することができていないことを伝えた。母と自分との関係は、佑には伝えていなかった。眞由子は、私の伝えたいことを受け止めながら聞いてくれた。目には涙が滲んでいた。


「うの、私の家もね、母と義理の母の関係がうまくいってなくて......」

 真由子の表情が曇った。

「間に挟まれて大変なことがあるの。だから少し、うのの気持ちが理解できるような気がして。介護まで入ってくると本当に大変なことなんだろうなって」 

 眞由子はそう言うとしばらく黙ってしまった。

「何か、私にできそうなことがあればいいんだけど。ねえ、今度一緒に雑貨屋に行ってみない?気分転換にはなると思う」


 眞由子の気持ちが嬉しかった。介護を一人で頑張ることは不可能に近いのではないだろうか? 誰かに話を聞いてもらったり、時には、一緒にどこかに出掛けたり気分転換をしないと息が詰まりそうなのだ。

 

 私の心の闇に、眞由子が手を差しのべてくれた。私のパレットには、まだ明るい優しい色が残っていたのだ。あたたかい、まるで紅梅色のようなほんのりした桃色。


 人に頼りたくない性格で、大変なことがあってもそれを何事もなかったかのように振る舞うことが美徳だと思っていた。ましてや自分が抱えている負の部分、心の内側や闇の部分をたとえ親友だったとしても絶対に見せたくなかったのだ。



 でも、今の私の闇は、一人では抱えきれないところまで達してしまったのだろうか。誰かを頼らずにいたら、人生のパレットから好きな色が一色ずつ消えていくように、私自身が消えてしまうより他はなかった。













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