第29話

ギデオンがアイナ村の入り口にたどり着いた時、日はすでに西の森に傾きかけていた。

村は、彼の想像とは全く違っていた。荒廃した寂しい集落ではなく、全ての家から温かい光が漏れ、子供たちの屈託のない笑い声が響いている。豊かで、活気に満ちた、理想郷のような場所。その中心から、信じられないほど食欲をそそる、甘くて香ばしい匂いが漂ってきていた。


匂いに導かれるようにして、彼は一軒の大きな工房の前で馬を降りた。

そこには、小さな人だかりができていた。村人たちが、楽しそうに何かを囲んでいる。その輪の中心に、探していた男はいた。


「よし、焼きたてだぞ! 火傷するなよ!」


エプロン姿のカケルが、石窯から取り出した大きなパイを切り分けている。その周りでは、狼の耳を持つ獣人の少女と、屈強なドワーフが、村人たちにパイを手渡していた。誰もが、幸せそうな顔で、その熱々のパイを頬張っている。


追放した時と、何も変わらない。平凡で、戦闘能力もない、ただの男。

だが、その男の周りには、ギデオンが王都の玉座の前でさえ得られなかった、本物の笑顔と、温かい信頼の輪が広がっていた。


「……カケル」


ギデオンが、絞り出すようにその名を呼ぶ。

その声に、楽しかった空気は一瞬で凍りついた。村人たちは警戒したようにギデオンを睨み、フェンは牙を剥き出しにしてカケルの前に立ちはだかる。グロムさんは、いつでも動けるように、静かに腰を落とした。


カケルだけが、驚いたように目を見開いていたが、やがて、困ったように眉を下げて、静かに言った。


「……ギデオン。久しぶりだな。こんな辺境まで、どうしたんだ?」


その穏やかな声が、ギデオンの最後の理性を焼き切った。


「とぼけるな! お前がやったのか! あの兵糧も、この村の異常なまでの豊かさも、全てお前の仕業なのか!」

「……まあ、色々あってね」

「そのゴミスキルで、一体どんなイカサマを使った! 俺を、王国を、裏から操って、嘲笑っていたのか!」


怒りに任せて叫ぶギデオン。

だが、カケルは悲しそうな顔で首を振った。


「違うよ、ギデオン。俺は、ただ……みんなと、毎日美味しいご飯が食べたかっただけだ。この村と、仲間たちと、穏やかに暮らしたかった。ただ、それだけなんだ」


その時、ギデオンの腹の虫が、ぐぅ、と情けない音を立てた。

彼は王都からろくな食事もとらず、馬を飛ばし続けてきたのだ。


その音を聞いたカケルは、ふっと、昔のような人の良い笑みを浮かべた。

そして、周りの警戒も意に介さず、切り分けたパイの一切れを、ギデオンの前に差し出した。


「……腹、減ってるんだろ。まずは、これを食べるといい。今日の自信作なんだ。巨大カボチャの、熱々パイ」


差し出されたパイから立ち上る、甘く、優しい香り。

それは、ギデオンが戦場で夢見た、あの温かい食事の匂いそのものだった。


ギデオンは、差し出されたパイを、ただ呆然と見つめていた。

自分を追放した男に、なぜ、こいつは飯を差し出すんだ? 罵り、嘲笑うのが普通じゃないのか?


「……ふざけるな!」


ギデオンは、カケルの手を、思い切り振り払った。

パイは地面に落ち、ぐしゃり、と音を立てて崩れる。


「貴様の施しなど、受けるものか!」


その行為に、カケルの後ろにいたフェンが、ついに我慢の限界を超えた。

「てめえっ!」

獣のような俊敏さで、フェンがギデオンに飛びかかる。聖剣を抜く間もなく、ギデオンは地面に組み伏せられた。


「カケルの優しさを、踏みにじるんじゃねえ! このパイが、どれだけカケルの気持ちがこもってるか、お前なんかにわかってたまるか!」


泣きじゃくりながら、フェンはギデオンの胸倉を掴んで叫ぶ。


カケルは、ただ、黙って地面に落ちたパイを見つめていた。

その瞳には、怒りも、憎しみもない。ただ、深い、深い悲しみの色だけが浮かんでいた。


騒ぎを聞きつけた村長たちが駆けつけ、その場はなんとか収まった。

ギデオンは、村の空き家に軟禁されることになった。


一人、薄暗い部屋の中で、ギデオンは膝を抱えていた。

脳裏に焼き付いて離れないのは、カケルが差し出したパイと、それを振り払った時の、彼の悲しそうな瞳だった。


コンコン、と扉がノックされる。

入ってきたのは、カケルだった。その手には、新しい皿が乗っている。さっきと同じ、カボチャのパイだ。


「……また、食えと?」

「ああ。冷めないうちに」


カケルは、ギデオンの隣に静かに座ると、皿を置いた。


「ギデオン。俺は、お前を恨んでない。むしろ、感謝してるんだ」

「……何?」

「お前に追放されなければ、俺は、この村に来ることも、みんなに出会うこともなかった。料理を作ることの本当の楽しさを、知ることもなかったから」


カケルは、窓の外で心配そうにこちらを見ているフェンやグロムさんたちに目を向け、優しく微笑んだ。


「ここが、俺の居場所なんだ。俺の食卓は、ここにある」


ギデオンは、カケルの横顔と、目の前のパイを、ただ黙って見つめていた。

温かいパイから立ち上る湯気が、彼の冷え切った心を、少しだけ、本当に少しだけ、溶かし始めているような気がした。


英雄の食卓と、辺境の料理人の食卓。

二つの運命が、静かな辺境の村で、もう一度、交わろうとしていた。

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外れスキル【神々の熟成庫】で始める辺境スローライフ 〜追放料理人の一皿が、やがて世界を温める〜 Ruka @Rukaruka9194

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