第20話
女王陛下の寝室は、母なる大樹の最も神聖な場所に位置していた。
部屋全体が、淡く優しい光に満ちている。その中心に置かれた、生きた蔓と花々で編まれた寝台の上で、エルフの女王アレクシアは、まるで美しい石像のように静かに眠っていた。長い銀髪は寝台から滝のように流れ落ち、その顔立ちはシルヴィアによく似ているが、どこか儚げな印象を受ける。
部屋の隅には、ヴァレリウスをはじめとする長老たちと、シルヴィア、そしてフェンが、息を殺して俺の様子を見守っている。
俺は、運び込んだ小さなテーブルの上に、純白のクロスを敷いた。これから始まるのは、ただの食事ではない。眠れる魂を呼び覚ますための、神聖な儀式なのだ。
まず、一品目。【前菜:生命の泉と陽光の若葉のジュレ】。
母なる大樹の根元から汲んだばかりの「生命の泉」の水を、俺はアイテムボックスで数分だけ、そっと熟成させた。すると、ただの水だったものが、まるで極上の出汁のように、深い滋味と生命力を帯びた液体へと変化する。
それを、陽光を浴びて芽吹いたばかりの柔らかな若葉と共に、水晶の器の中で優しく冷やし固めた。
完成したジュレは、まるで夜明けの森の雫そのものだった。
俺はそれを小さなスプーンですくい、シルヴィアの手を借りて、女王の唇へとそっと運んだ。
ジュレが女王の舌に触れた瞬間、ほんのわずかだが、彼女の指先がぴくりと動いたのを、俺は見逃さなかった。
次に、二品目。【スープ:囁き茸と熟成鹿肉のポタージュ】。
霧深き森で採れた囁き茸と、アイナ村から持ってきた熟成鹿肉。エルドラシルの清浄な力と、人間界の荒々しくも力強い生命力。その二つを、一つの鍋の中で調和させる。
完成したスープからは、大地そのもののような、温かく、力強い香りが立ち上った。
再び、スープが女王の口元へと運ばれる。
すると今度は、それまで穏やかだった女王の寝顔に、かすかな苦悶の色が浮かんだ。眉がひそめられ、浅く、速い呼吸を繰り返す。
「母上!?」
シルヴィアが不安そうな声を上げる。
「大丈夫だ」と俺は言った。「眠っていた魂が、外の世界の力強い刺激を受けて、目覚めようと戦っている証拠だ」
そして、いよいよメインディッシュ。【光の実を添えた、月光兎のコンフィ】。
俺が料理人として持つ、全ての技術と心を注ぎ込んだ、究極の一皿。
死の淵から蘇らせた『光の実』のソースは、黄金色に輝き、生命力に満ち溢れている。極低温でじっくりと火を通した月光兎の肉は、触れるだけで崩れてしまいそうなほど、柔らかく、しっとりとしていた。
ソースをまとった一欠片の肉が、女王の口の中へと消える。
その瞬間だった。
部屋中が、目を開けていられないほどの、眩い黄金の光に包まれた。
母なる大樹が、都全体が、まるで歓喜の歌を歌うかのように、力強く輝き始めたのだ。
光が収まった時、俺たちは信じられない光景を目の当たりにした。
それまで石像のように眠っていた女王アレクシアが、ゆっくりと、その瞼を開いていたのだ。
その瞳は、最初は虚ろに宙を彷徨っていたが、やがて、目の前に立つ娘――シルヴィアの姿を捉える。
「……シルヴィ……アーナ……?」
か細い、しかし確かな声。
数年ぶりに、その声を聞いたシルヴィアは、わっと泣き崩れた。
「母上……! お母様……!」
女王は、まだおぼつかない手つきで、涙にくれる娘の頬を優しく撫でた。そして、その視線は、静かに佇む俺の方へと向けられる。
「……温かくて、美味しい……夢を、見ていました……。あなた、は……?」
俺は、女王の前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
「はじめまして、女王陛下。俺は、カケルと申します。ただの、料理人です」
俺の言葉に、女王アレクシアは、シルヴィアによく似た、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、カケル。私の魂を、呼び戻してくれて……」
その言葉を合図にしたかのように、エルドラシルの民たちの、地鳴りのような歓声が、寝室まで聞こえてきた。
追放された料理人が起こした、夜明けの奇跡。
それは、やがて大陸中を駆け巡り、一つの伝説として語り継がれていくことになる。
だが、そんな未来のことなど、今の俺にはどうでもよかった。
ただ、目の前で涙を流して喜ぶ親子の姿と、自分の料理が成し遂げた確かな手応えに、俺は料理人として、そして一人の人間として、これ以上ないほどの幸福を感じていたのだった。
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