第19話

時が、止まった。

筆頭長老ヴァレリウスが、黄金色に輝く一片を口に含んだ瞬間、議場を監視していた全ての者たちが、息をすることさえ忘れていた。


彼の、何百年という時を刻んできた顔に、ゆっくりと変化が訪れる。

まず、硬く結ばれていた口元が、わずかに緩んだ。次に、常に厳しく細められていた瞳が、驚愕に見開かれる。そして、その白銀の睫毛に縁取られた目から、一筋の、水晶のような涙が静かに流れ落ちた。


「……あぁ」


漏れたのは、言葉にならない、深い嘆息だった。

それは、失われた故郷の風景を思い出した旅人のようであり、長い冬の終わりに、春の最初の陽光を浴びた老人のようでもあった。


「……太陽の味が、する。母なる大樹が、最も若々しく、力に満ち溢れていた頃の……あの黄金の日々の味が……!」


ヴァレリウスは、震える声でそう言うと、残りの一片を、まるで祈りを捧げるかのように、大切に口へと運んだ。

その表情を見ただけで、他の長老たちにはもう、結果はわかっていた。だが、彼らもまた、その奇跡を自らの舌で確かめずにはいられなかった。


俺が差し出した試食用のパイを食べた長老たちは、皆、ヴァレリウスと同じように言葉を失った。ある者は静かに涙し、ある者は天を仰いで感嘆の息を漏らす。

彼らが味わったのは、単なる「美味しい」という感覚ではない。食材の記憶、生命の輝き、そして、忘れかけていた「生きる喜び」そのものだったのだ。


その時だった。

厨房の大きな窓の外で、何かが変わった。

それまで都を覆っていた、どこか物悲しい静かな光が、ふわりと、温かい色合いを帯びたのだ。


「見ろ! 母なる大樹が……!」

誰かの叫び声に、全員が窓の外へと目を向ける。

都の中心にそびえる母なる大樹の枝々から、まるで呼応するかのように、かすかだが、確かに力強い黄金色の光が灯り始めていた。

それは、俺が蘇らせた『光の実』の生命力が、その親である大樹へと伝わり、ほんの少しだけ元気を取り戻した証だった。


料理が、本当に世界を変えた瞬間だった。


「……カケル殿」


我に返ったヴァレリウスは、俺の前に進み出ると、エルフの最上級の敬意を示す、深いお辞儀をした。


「我らの浅はかな疑いを、どうか許してほしい。そして、シルヴィアーナ姫。あなたの信じる心、そして、この若き料理人を我らの元へ導いてくれたその慧眼に、心から感謝する」


他の長老たちも、皆、ヴァレリウスに倣って頭を下げた。彼らの瞳から、俺たちに対する疑いの色は、完全に消え去っていた。


「カケル殿。あなたこそが、我らの最後の希望だ」とヴァレリウスは言った。「女王陛下をお救いするため、どうか、あなたの力を貸してほしい。このエルドラシルの厨房、食材、叡智、そのすべてを、あなたのために使おう」


俺は、彼らの申し出に、静かに頷いた。試練を乗り越え、ついに俺は、本当のスタートラインに立ったのだ。


「ありがとうございます。ですが、女王陛下を目覚めさせるには、一つの料理だけでは足りません」


俺は、自分の考えを述べた。

「長い眠りについている方を、無理やり叩き起こすのは危険です。前菜からスープ、メインディッシュ、そしてデザートまで。食材の生命力を込めたフルコースで、女王陛下の五感を、そして魂を、ゆっくりと、優しく呼び覚ます必要があります」


俺の提案に、長老たちは真剣に耳を傾ける。


「そのために、いくつか、最高の食材を用意していただきたい。まず、母なる大樹の根元から湧き出る『生命の泉』の朝一番の水。次に、大樹の最も高い枝に芽吹く、『陽光の若葉』。そして……メインディッシュの核として、もう一つ、今の母なる大樹が実らせた『光の実』を」


さらに、俺は付け加えた。

「それと、俺が旅で集めてきた、外の世界の食材も使わせてください。女王陛下に必要なのは、エルドラシルの清浄な力だけではないはず。時には荒々しく、しかし力強く生きる、外の世界の生命力もまた、目覚めのきっかけになると思うんです」


俺の言葉に、ヴァレリウスは力強く頷いた。

「わかった。すべて、用意させよう。エルドラシル全土が、あなたの料理のために動く」


その日のうちに、俺が求めた全ての食材が、聖なる厨房へと運び込まれた。

国中のエルフたちが、期待と祈りの眼差しを向ける中、俺は静かに準備を整える。


目の前には、女王陛下の寝室へと続く、月光が彫り込まれた荘厳な扉。

その向こうに、俺が料理を届けるべき、たった一人の人が眠っている。


俺は、最高の食材が詰まったバスケットを手に、深く、一度だけ息を吸った。

隣では、フェンとシルヴィアが、固唾を飲んで俺を見守っている。


「よし、行こうか」


俺は、仲間たちににっこりと笑いかける。


「女王陛下、お待たせしました。最高のディナーの時間ですよ」


料理人として、そして、この世界に生きる一人の人間として。

俺の人生で最も重要で、最も心を込めた料理が、今、始まろうとしていた。

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