第18話

エルフの国の聖なる厨房は、俺が知るどんな調理場とも、根本的に異なっていた。

そこには、炎も、煙も、鉄の匂いも存在しない。

熱源は、手をかざすと意のままに温度を変える不思議な光る石。水は、磨かれた大理石の水路を流れる、清冽な泉の水そのもの。包丁や調理器具は、硬い木や水晶を削り出して作られており、それら一つ一つに微かな魔力が宿っているようだった。


あまりにも清浄で、美しい。だが、どこか無機質で、料理を作る「熱」のようなものが感じられない場所だった。

「すごい場所だな……」

「カケル、本当に大丈夫か? あのカチカチのエルフたち、みんな見てるぞ」

フェンが心配そうに俺の袖を引く。彼女の言う通り、議場の長老たちは、厨房が見える回廊から、俺の一挙手一投足を監視していた。


俺は、彼らの視線を背中に感じながら、祭壇に供えられたかのように置かれている『光の実』と向き合った。

手に取ると、驚くほど軽い。まるで、魂が抜けてしまった後の抜け殻のようだ。香りもなく、色もなく、ただそこにあるだけの、虚ろな存在。


だが、諦めるには早かった。

俺は目を閉じ、全神経を指先に集中させる。すると、その冷たい果実の中心に、まだ消えずに残っている、髪の毛よりも細い、かろうじて感じ取れるほどの微かな「生命の脈動」があった。


「……まだ、生きてる」


俺は呟き、静かに調理を開始した。


まず、水晶の刃で、慎重に果実の皮を剥いていく。中身は、乾いたスポンジのようにパサパサだった。俺はそれを薄く、薄くスライスし、温度を上げた光る石板の上に並べた。

ジュッ、という音はしない。ただ、穏やかな熱が、ゆっくりと果実の繊維を温めていく。目的は焼くことではない。この果実が持つ、最後の生命の雫を、一滴残らず絞り出すためだ。


やがて、石板の上に、数滴の、ほとんど無色透明な液体が染み出してきた。これが、この果実の「記憶」だ。

俺はその雫を丁寧にガラスの小鉢に集めると、懐から小さな瓶を取り出した。中に入っているのは、霧深き森で採取した「星屑の蜜」。


俺は、その黄金色に輝く蜜を、たった一滴だけ、小鉢の中に落とした。

すると、無色透明だった雫が、まるで心臓が鼓動を再開したかのように、ぴくん、と一度だけ震えた。


「これから、この子に『時間』を与える。自分が、本当はどんな味だったのか、思い出させてやるんだ」


俺はそう言うと、その小鉢を、俺の唯一無二の厨房――【アイテムボックス】の中へと、そっと収納した。


俺が待つ間、厨房の外では、長老たちが訝しげに囁き合っていた。

「あの人間、何をしたのだ? 食材を、空間の揺らぎの中に消してしまったぞ」

「やはり、得体の知れない邪法使いなのでは……」


彼らの不審な視線など気にも留めず、俺は残った果実の皮と繊維を、石臼で丁寧にすり潰し、きめ細やかな粉末にしていく。食材のすべてを使い切る。それが、俺の料理の流儀だった。


そして、永遠のようにも感じられた一時間が過ぎた。

俺は、すべてのエルフたちが見守る中、再び【アイテムボックス】に手を入れる。


小鉢を取り出した瞬間、奇跡は起きた。


厨房を満たしたのは、もはや香りという言葉では表現できない、生命力そのものとでも言うべき、圧倒的な芳香だった。

それは、真夏の太陽をいっぱいに浴びた果樹園の香りであり、咲き誇る花々の蜜の香りであり、そして、夜明けの森の清浄な空気の香りだった。


小鉢の中では、無色透明だった雫が、まるで溶かした黄金のように、眩い光を放つ極上のシロップへと変貌を遂げていた。


「な……なんだ、この香りは……!」

「母なる大樹が、最も力に満ち溢れていた頃の……いや、それ以上の……!」


長老たちの間に、激しい動揺が走る。

筆頭長老ヴァレリウスは、回廊の手すりを掴み、信じられないものを見る目で、俺の手元を見つめていた。


俺は、エルフたちが普段食べている、味気ないビスケットを一枚取る。

その上に、生まれ変わった黄金のシロップを、一筋、たらりとかけた。

仕上げに、先ほど作った果実の粉末を、パラパラと振りかける。すると、粉末はシロップの光に呼応するように、きらきらと金色の輝きを放ち始めた。


何の飾り気もない、ただのビスケット。

だが、その上に乗っているのは、死の淵から蘇った、果実の魂そのものだった。


俺はその一皿を、ヴァレリウスの元へと、静かに差し出した。


「お待たせしました。これが、『光の実』が思い出した、本当の味です」


ヴァレリウスは、ごくりと喉を鳴らす。

その場のすべてのエルフが、固唾を飲んで見守る中、彼は震える手で、その黄金色に輝く一片を、ゆっくりと口元へと運んでいくのだった。

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