第16話

人間界とエルフの国を隔てる「霧深き森」は、噂に違わぬ神秘の場所だった。

一歩足を踏み入れた途端、背後の世界の喧騒は嘘のように掻き消え、代わりに深く、清浄な静寂が俺たちを包み込んだ。


道らしい道は見当たらない。だが、シルヴィアと彼女の護衛騎士たちが進むと、まるで意思があるかのように木々がわずかに枝を広げ、進むべき空間を開けていく。

「すごい……道が見えるのか?」

「いいえ、森が私たちを導いてくれているのです」

シルヴィアの言葉に、フェンは興奮したように鼻をひくつかせた。

「匂いが違う! アイナ村の森とも全然違う! なんていうか、空気が美味しい!」


彼女の言う通りだった。空気は澄み渡り、深く吸い込むだけで、体の芯から浄化されていくようだ。地面に自生する苔は淡い光を放ち、木々の間を飛ぶ虫は、まるで小さな宝石のようにキラキラと輝いている。ここは、世界から忘れられた、手つかずの聖域なのだ。


その日の夜、俺たちは森の中の開けた場所で野営をすることになった。

シルヴィアの護衛騎士たちは、手際よく野営の準備を整える。だが、彼らが口にする夕食は、驚くほど質素なものだった。干した果物と、石のように硬いビスケットだけ。


「エルフは、あまり食事に頓着しないのです。生命力を維持するための、ただの作業ですから」


シルヴィアは少し寂しそうにそう言った。彼女の騎士たちも、俺という「人間の料理人」を値踏みするような、どこか冷ややかな視線を向けてくる。


「……よし」


俺は静かに立ち上がった。言葉で説明するよりも、食べてもらうのが一番だ。

「フェン、少しだけ、この森の恵みを分けてもらおうか」

「任せろ!」


俺とフェンは、騎士たちの訝しげな視線を背に、周囲の探索を始めた。食材の宝庫であるこの森が、俺をがっかりさせるはずがなかった。

フェンは、芳しい香りを放つ「囁き茸(ウィスパーマッシュルーム)」をすぐに見つけ出し、俺は、大樹の幹から滴り落ちる、星のように輝く甘い樹液「星屑の蜜(スターダストネクター)」を水筒に集めた。


俺は工房から持ってきた大鍋を取り出すと、調理を始めた。

ベースにするのは、アイテムボックスで完璧に熟成させた、あの三ツ角鹿の肉。それを、この森で手に入れた食材と共に、清らかな湧き水でコトコトと煮込んでいく。


やがて、野営地には、これまで誰も嗅いだことのないような、深く、甘く、そして魂を揺さぶるような香りが立ち込め始めた。


最初は無関心を装っていた護衛の騎士たちが、一人、また一人と、無意識のうちに鍋の方へと顔を向けている。


「できました。今夜は冷えますから、どうぞ、召し上がってください」


俺が差し出したスープ皿を、騎士団長らしき壮年のエルフは、戸惑いながらも受け取った。そして、一口。


次の瞬間、彼の厳格な表情が、驚愕に凍りついた。


「こ、これは……!?」


ただ温かいだけではない。滋味深いだけではない。一口飲むごとに、旅の疲れが、体の末端から溶けていく。熟成された肉の濃厚な旨味、囁き茸の豊潤な香り、そして星屑の蜜のかすかな甘みが、口の中で奇跡的な調和を生み出していた。


それは、もはや「食事」という名の「儀式」だった。

食材に宿る生命力が、俺のスキルによって極限まで引き出され、食べる者の魂を直接癒していく。


騎士たちは、我を忘れてスープを啜った。ある者は目を閉じ、その味わいに深く感じ入り、ある者は、故郷の森の風景を思い出しているかのように、遠い目をする。彼らの間にあった冷ややかな壁は、この温かい一杯のシチューによって、綺麗さっぱりと溶かされてしまっていた。


シルヴィアは、その光景を、涙ぐみそうなほど優しい微笑みで見つめていた。

「……やはり、私の目に狂いはありませんでした」


翌朝からの旅は、まるで雰囲気が変わっていた。

騎士たちは、俺を見る目に、明確な敬意を宿らせるようになっていた。そして、誰もが食事の時間を、今か今かと待ちわびるようになったのだ。


そうして旅を続けること、さらに数日。

延々と続くと思われた森の景色が、ふと開けた。

シルヴィアが、前方を指差す。


「見てください。あれが、私たちの故郷の灯火です」


彼女の指差す先、遥か彼方の空に、巨大な樹々が放つ、オーロラのような淡く幻想的な光が見えた。


「あれは、エルドラシルの心臓たる『母なる大樹(マザーツリー)』の光……。カケルさん、フェンさん。ようこそ、私たちの国へ」


人間界の常識が、一切通用しない場所。

神秘と魔法に満ちたエルフの国を前に、俺はこれから始まる本当の挑戦に、静かに覚悟を決めるのだった。

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