第12話
収穫祭の朝。
王都の空は、雲一つない快晴だった。
まだ夜明け前の薄暗い時間から、俺たちは会場に入り、小さなブースで準備を始めていた。
「よし、グロムさん、石窯の火、お願いできますか」
「おう、任せとけ! ドワーフの火起こし術を見せてやる!」
「フェンは、パイ生地を伸ばすのを手伝ってくれ。均等な厚さにするんだ」
「わかった! 粘土遊びみたいで楽しいな、これ!」
俺たちの間には、もう緊張はなかった。あるのは、最高の料理を最高の状態で客に届けるという、心地よい集中力だけだ。
グロMさんが熾した力強い炎が石窯の温度をぐんぐんと上げていく。その隣で、俺とフェンは息の合った連携で、次々とパイ生地を準備していく。
工房で何度も練習を重ねた作業。それは、もはや体に染み付いていた。
アイテムボックスから取り出した、完璧に熟成された猪肉のミンチと木の実のフィリングを、冷たく保たれたパイ生地で手際よく包んでいく。
俺たちのブースから、バターと肉が焼ける、暴力的なまでに食欲をそそる香りが立ち上り始めた頃、広場に祭りの開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。
祭りが始まると同時に、広場はあっという間に人の波で埋め尽くされた。
王都の人々の目当ては、やはり有名店だ。王宮御用達の『金獅子亭』のブースには、開店と同時に長蛇の列ができている。彼らの看板商品は、虹色に輝くソースがかかった「七色鶏のロースト」。見た目も華やかで、いかにも貴族が好みそうな料理だ。
他の店も、巨大な海竜の姿焼きや、宝石のように飾り付けられたデザートなど、派手な料理で客の注目を集めている。
それに比べて、俺たちのブースは悲しいほどに閑散としていた。
クレセント商会の看板はあれど、その隅で営業している俺たちの店など、誰も気にも留めない。時折、物珍しそうにこちらを見る客はいても、地味な見た目のパイに興味を示す者はいなかった。
「……くそっ、見た目が派手なだけで、味もわからん連中が!」
グロムさんが、悔しそうに唸る。
「カケル、あたし、ちょっと客引きしてくる!」
フェンが飛び出そうとするのを、俺は慌てて止めた。
「待つんだ、二人とも。焦るな」
俺は、静かに焼き上がったパイを一つ取り、ナイフで切り分けた。
サクッ、という軽快な音。
立ち上る湯気。
そして、凝縮された旨味の香りが、一気に周囲へと解き放たれる。
「匂いだ。俺たちの武器は、この香りだ。腹を空かせた人間の本能に、直接訴えかける」
その時だった。
一人の少年が、母親の手を振り払って、俺たちのブースの前に駆け寄ってきたのだ。
「お母さん、こっち! こっちのお店、すっごくいい匂いがする!」
母親は「こら、行儀が悪いですよ」と少年をたしなめながらも、漂ってくる香りに、思わず足を止めていた。
「……本当ですわね。なんて、食欲をそそる香りなのでしょう」
俺はにっこりと笑い、試食用に切り分けた小さなパイを一つ、少年に差し出した。
「お一つ、いかがですかな?」
少年は嬉しそうにそれを受け取ると、大きな口でパクリと頬張った。
次の瞬間、少年の目が、驚きで大きく見開かれる。
「―――おいしいっ!」
子供の、嘘偽りのない純粋な叫び声。それは、どんな呼び込みの声よりも、雄弁にこのパイの価値を物語っていた。
母親も、つられるように試食のパイを口にし、はっと息を呑む。
「信じられない……! サクサクの皮の中から、お肉の旨味が、こんなに溢れてくるなんて……!」
その母子のやり取りが、最初のきっかけだった。
「なになに?」「そんなに美味しいのか?」と、興味を惹かれた人々が、一人、また一人と、俺たちのブースの前に集まり始める。
試食した誰もが、その場で驚きの声を上げ、我先にとパイを買い求めていった。
最初は一人、次は二人、そして五人、十人……。
気づけば、俺たちの小さなブースの前には、いつの間にか黒山の人だかりができていた。
「おい、どうなってんだ、あの隅の店は?」
「すごい行列じゃないか。一体何を売ってるんだ?」
それまで俺たちを侮っていた他の店の職人たちが、信じられないものを見るような目で、こちらを窺っている。
辺境から来た無名の挑戦者たちの反撃の狼煙は、一人の少年の「おいしい」という一言によって、今、確かに上がったのだ。
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