第9話

商業都市から来たという商人、バルト氏の突然の来訪に、俺は完全に不意を突かれていた。

彼の物腰は丁寧だったが、その瞳の奥には、俺という人間と、俺の作る料理の価値を冷静に見定めようとする鋭い光が宿っている。


「どうぞ、こんなところですが……」


俺は彼らを工房の隣にある母屋へと通し、フェンが淹れてくれたハーブティーを差し出した。バルト氏はそれに静かに口をつけると、感心したように息をついた。


「ほう……これは素晴らしい香りだ。カケル殿、あなたの手にかかると、ただのハーブティーさえも芸術品になるのですね」


お世辞だとはわかっているが、悪い気はしない。

本題は、そこからだった。


「単刀直入に申し上げます」とバルト氏は切り出した。「あなた様が作られた、あのジャーキー。我がクレセント商会が、独占的に買い取り、オリオンの街、ひいては王都で販売させていただきたい。つきましては、こちらが契約金の額です」


彼が提示した羊皮紙に書かれていた金額は、俺がこの村で一生遊んで暮らしても、まだお釣りがくるような、天文学的な数字だった。さらに、生産設備を拡大するための資金援助や、人材の派遣まで約束するという。


「……っ」


あまりのスケールの大きさに、俺は言葉を失う。ただの追放者が、一国の予算に匹敵するような大金を手にするチャンス。断る理由など、あるはずがなかった。普通の人間なら。

だが、俺の頭に浮かんだのは、金貨の山ではなく、工房で湯気を立てるシチューの鍋と、それを囲む仲間たちの笑顔だった。


俺が返答に詰まっていると、家の扉が勢いよく開いた。


「おい、クレセント商会の旦那。うちの村の宝を、安く買い叩こうって魂胆じゃねえだろうな?」


そこに立っていたのは、腕を組んだグロムさんだった。どうやら、村に停まった立派な馬車の噂を聞きつけ、心配して駆けつけてくれたらしい。

俺の隣では、フェンが不安そうに俺の服の袖をぎゅっと掴み、バルト氏を警戒するように睨みつけている。


そうだ。俺には仲間がいる。彼らの存在が、商人の提示した莫大な金額にくらんでいた俺の目を、覚まさせてくれた。


俺は一度、深く息を吸い込んだ。


「バルトさん、非常に魅力的なお話、ありがとうございます」

まず、礼を言う。そして、続けた。


「ですが、そのお話はお受けできません」

「……ほう。理由をお聞かせいただけますかな?」


バルト氏の笑顔は崩れない。だが、その瞳の光は、より鋭さを増していた。


「俺の望みは、大金持ちになることじゃないんです。この村で、ここにいる仲間たちと、毎日美味いものを笑いながら食べること。それが一番なんです。この工房の生産量を超えて品質を落とすような約束は、俺にはできません」


俺はきっぱりと言い切った。グロムさんが満足げに頷き、フェンの握る手の力が少しだけ緩む。


「……ですが」と俺は続けた。「あなたの熱意は、本物だと感じました。だから、俺からも一つ、提案があります」


俺が提示したのは、独占契約ではない、新しい形だった。

第一に、生産量は俺が管理できる範囲に限定し、品質を絶対に落とさないこと。

第二に、クレセント商会を、俺の商品の「優先的な卸先の一つ」とすること。

そして第三に、取引の利益の一部を使って、このアイナ村の他の特産品――例えば、村で採れる木の実や野菜なども、商会で買い取ってほしい、ということ。


これは、ただのスローライフではない。この村の仲間たちと共に、豊かになっていくための、俺なりの答えだった。


俺の提案を聞き終えたバルト氏は、しばらく黙考していたが、やがて、これまでで一番深い笑みを浮かべた。


「……参りました。カケル殿、私はあなたをただの腕利き職人だとばかり思っていましたが、とんでもない買い被りでしたな。あなたは、この村の将来まで見据える、長(おさ)の器をお持ちだ」


彼はそう言うと、立ち上がって深く頭を下げた。

「その条件、喜んでお受けいたします。我が商会の名誉にかけて、あなたと、このアイナ村の発展に協力させていただきます」


こうして、俺とクレセント商会の、対等なパートナーとしての契約が結ばれた。


帰り際、バルト氏は馬車の窓から、俺に意味深な言葉を残していった。

「王都では近々、年に一度の収穫祭が開かれます。もし、あなた様の商品がそこで披露されるようなことがあれば……たちまち王侯貴族の知るところとなるでしょうな。その時は、またご相談を」


バルト氏が去った後、グロムさんが俺の背中を、ゴツい手でバシン!と叩いた。


「でかしたぞ、小僧! 商人の口車に乗せられず、見事な交渉だった!」

「カケル、よくわかんなかったけど、すごかった!」


痛みに顔をしかめる俺を見て、グロムさんとフェンが楽しそうに笑う。

自分のスローライフを守りながら、村の仲間たちと共に、より広い世界と関わっていく。俺の新しい生き方が、この辺境の地で、確かな手応えをもって始まろうとしていた。

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