第7話
燻製器の中で三日三晩、じっくりと煙で燻された肉は、完成の時を迎えていた。
俺が燻製器の扉を開けると、凝縮された燻煙の香りが、森の澄んだ空気の中へと解き放たれる。
「……できた」
網の上に乗っていたのは、もはやただの干し肉ではなかった。
十日間の熟成によって、肉の繊維は旨味のアミノ酸へと変化し、深く美しいルビー色に輝いている。燻製によって余分な水分は抜け、表面には飴色の艶が浮かび、まるで宝石のようだ。
これが、俺の知識とスキルが生み出した最初の作品――【熟成猪肉(フォレストボア)の燻製ジャーキー】。
ゴクリと喉を鳴らし、俺は完成したばかりの一枚を手に取った。薄いのに、ずっしりとした手応えがある。そっと口に運ぶと、まず桜に似たチップの華やかな香りが鼻を抜け、次いで熟成された肉の濃厚な旨味が舌の上で爆発した。
「……うまい」
噛めば噛むほど、だ。
硬すぎず、柔らかすぎない絶妙な歯ごたえ。その度に、閉じ込められていた肉汁と脂の甘みがじゅわっと溢れ出し、燻製の香りと一体となって口の中に広がる。そこらのステーキなど足元にも及ばない、味の暴力。これ一枚で、パンの一斤や酒の一瓶が軽々と空になってしまいそうだった。
「カケル! できたのか!?」
匂いを嗅ぎつけたフェンが、森の方から駆け寄ってくる。俺が「ああ、試作品第一号だ」と一枚手渡すと、彼女は大きな口でガブリと食らいついた。
そして、ピタリと動きが止まる。
「……こ、これ……今まで食べたカケルの料理の中で、一番おいしいかもしれない……!」
目をまん丸くしたフェンが、衝撃の言葉を口にした。温かいシチューや焼きたてのカツレツよりも、この小さな肉の欠片の方が上だというのか。
「一口食べただけで、体の中から力が湧いてくるみたいだ! これがあれば、一日中森を駆け回っても、全然疲れなさそう!」
フェンの言葉に、俺は確かな手応えを感じた。これなら、グロムさんも満足してくれるはずだ。
俺は完成したジャーキーの半分を革袋に詰め、アイナ村の冒険者ギルドへと向かった。
昼間のギルドは、酒と汗の匂いが入り混じる、荒々しい男たちの社交場だ。俺のような、いかにも戦闘とは無縁そうな男が入っていくと、好奇と侮りの視線が突き刺さる。
「よう、兄ちゃん。ギルドに何の用だ? まさか冒険者登録でもあるまいし」
カウンターで酒を飲んでいた屈強な冒険者が、ニヤニヤしながら絡んでくる。俺が返事に困っていると、その男の頭上に、巨大な影が差した。
「そいつは俺の客だ。手ェ出すんじゃねえぞ」
地響きのような声。ギルドマスターのグロムだった。彼の登場で、騒がしかった酒場が水を打ったように静まり返る。
「グロムさん。頼まれていたもの、できました」
「おお、待っていたぞ。して、出来栄えはどうだ?」
俺が革袋からジャーキーを一枚取り出して差し出すと、グロムはそれを指でつまみ、あらゆる角度から吟味し始めた。まるで、伝説の鍛冶師が打った剣を鑑定するかのような真剣な眼差しだ。
彼はジャーキーを光にかざし、その色艶を確かめ、次に鼻を近づけて深く香りを吸い込む。そして、満足げに一度頷くと、分厚い唇で、その端をゆっくりと噛み切った。
ギルド中の視線が、グロムの口元に集中する。
彼の屈強な顎が、二度、三度と動く。
次の瞬間、グロムの動きが完全に止まった。そして、その閉じられていた目が、カッと見開かれる。
「……馬鹿な」
絞り出すような、信じられないといった声。
「ただの干し肉だと? 違うな……これは、凝縮された『食事』そのものだ。噛むほどに味が変わり、力が腹の底から漲ってくる……こんな携帯食料、見たことも聞いたこともねえぞ!」
グロムは天を仰ぐと、カウンターを拳でドンと叩いた。
「よし、カケル! このジャーキーを、正式にアイナ村ギルドの推奨携帯食料とする! 望むだけの対価を支払おう!」
その場で、銀貨が唸るほどの額の契約が結ばれた。
グロムは、まだ信じられない顔をしている他の冒険者たちにもジャーキーを一切れずつ分け与える。最初は半信半半疑で口にした彼らも、次の瞬間には誰もが言葉を失い、自分の舌の上で起きている奇跡に驚愕していた。
この日、辺境の村で生まれた一つのジャーキーが、やがて大陸中の冒険者の常識を、そして食文化そのものを塗り替えていくことになる。
俺と、俺の「外れスキル」は、まだその伝説の始まりに立ったばかりだということに、気づいていなかった。
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