第3話

狼の耳を持つ少女の、あまりにも率直な言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。

彼女の視線は、俺の手元にあった食べかけの皿に釘付けになっている。警戒心と、それを上回る純粋な食欲が、大きな瞳の中でせめぎ合っていた。


その時だ。


きゅるるるる〜……。


静かな夜の空気に、間の抜けた音が響き渡る。音の発生源は、言うまでもなく目の前の少女のお腹だった。少女は「はっ!」と息を呑み、さっと顔を真っ赤にして自分のお腹を押さえる。


その姿に、俺の警戒心はすっかり霧散してしまった。思わず苦笑が漏れる。


「ははっ……まあ、立ち話もなんだ。中に入りなよ」

「え……?」

「残ってるだけだけど、食べるかい? 君、お腹空いてるんだろう?」


俺がそう言って扉を広く開けると、少女は一瞬ためらったものの、再び部屋の中から漂ってくる香ばしい匂いに抗えなかったらしい。おずおずと頷き、小さな声で「……おじゃまします」と言って、家の中へ足を踏み入れた。


俺は残っていた熟成ロックバードの肉を、薪ストーブの熱で温め直して皿に乗せる。ついでに、少しだけ残っていた石カブのポタージュも。


「ほら、熱いから気をつけて」


テーブルの向かいに座った少女の前にそっと置くと、彼女はゴクリと喉を鳴らし、差し出されたフォークと俺の顔を交互に見た。まるで、毒味でもするかのように、警戒しながら肉の欠片を口に運ぶ。


次の瞬間、少女の大きな瞳が、これでもかというくらいに見開かれた。

動きが、止まる。


そして。


「―――おいしいっ!」


叫ぶような声と共に、少女は野生動物のような素早さで、再び肉に食らいついた。さっきまでの警戒心はどこへやら、夢中でフォークを動かし、あっという間に肉を平らげていく。


「な、なんだこれ! 私がいつも食べてるロックバードと、全然違う! 硬くない! 柔らかい! それに、なんだかすごく、いい味がする!」


スープ皿にも口をつけ、ふうふうと冷ましながら一気に飲み干していく。その食べっぷりは、見ていて清々しいほどだった。


追放されて以来、ずっと一人だった。

自分の料理を、こんなにも無邪気に、全身で「美味しい」と表現してくれる人がいる。その事実が、凍てついていた俺の心をじんわりと温めていくのを感じた。


「よかったら、名前を教えてくれないか? 俺はカケル」

「ふぇん!……んぐ、あたしはフェン!」


口いっぱいに肉を頬張りながら、彼女はそう名乗った。

フェンはこの森で生まれ育ち、ずっと一人で狩りをして暮らしてきたらしい。


すっかり皿を空にしたフェンは、満足げにお腹をさすっていたが、ふと我に返ったように、ばつが悪そうな顔で俯いた。


「あ、あの……ごめんなさい。あたし、お金、持ってない……」


「はは、お金なんていらないよ」


俺は笑って首を振った。そして、ずっと考えていたことを口にする。


「その代わり、一つ頼みがあるんだ」

「頼み?」

「ああ。もしよかったら、君が狩りで獲った肉を少しでいいから俺に分けてくれないか? その代わり、いつでもここに来れば、俺がそれをとびきり美味い料理にしてご馳走する。……どうかな?」


これは、俺にとっても渡りに船の提案だった。俺には狩りの技術はない。安定して肉を手に入れるには、彼女のような狩人の協力が必要不可か欠だった。


俺の提案を聞いたフェンは、数秒間ぽかんとした後、その瞳をキラキラと輝かせた。


「ほ、本当か!?」

「ああ、本当だ」

「やったあ! あたし、狩りは得意だけど、料理はただ焼くだけで、あんまり美味しくなかったんだ! わかった、約束だ!」


フェンは椅子から飛び上がらんばかりに喜ぶと、ぶんぶんと尻尾を振った。


「じゃあ、あたし、明日、すっごいのを獲ってくる! 森の王様って言われてる、グレートボアを仕留めてくるからな!」

「え、あ、いや、そこまで大きいのはちょっと……」


俺の焦りは、興奮しているフェンの耳には届かなかったらしい。彼女は「じゃあな、カケル!」と元気よく言うと、風のように森の中へと駆け出していった。


一人きりの静けさが戻ってきた家の中で、俺はフェンとのやり取りを思い出し、自然と頬が緩むのを感じていた。


そういえば、フェンに「この肉は『熟成』させてるんだ」と説明しようとしたら、「ジュクセイ? なんだそれ? 腐ってるのとは違うのか?」と不思議そうに首を傾げられた。やはり、この世界にその概念はないらしい。


まあ、いいか。理屈なんてどうでも。

「美味しい」は、世界共通だ。


孤独だった辺境での生活に、初めて「約束」という名の繋がりができた。

明日から、少し騒がしくなるかもしれないな。


確かな光が差し込んできたような温かい気持ちで、俺はこの世界に来て初めて、穏やかな気持ちで夜を迎えるのだった。

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