いざなみさまごっこ

杏樹まじゅ

【第一章.母子】

【一.夢】

「ねえ、ひみつのあそび、しましょ」



 熾神おきがみ月子は真っ暗な部屋で、孤独という重しで圧し潰されそうになりながら眠る。時々、身体が硬直して苦しそうに顔をしかめて首を振る。あかね……あかね。うなされて呼ぶのは決まってその名前だ。そして見るのは、自分のこれまでの人生──痛みと絶望の思い出。彼女が、どんなふうに必死で息をしながらここまで延命してきたのか、少しだけ、その夢を覗いてみよう。



 くすくす、あははは。

 物置部屋は薄暗い。スチールラックにパイプ椅子、使わないデスク、ベッドのマットレス。それらはみな一様に埃を被っておやすみなさいをしている。たぶん、持ち主はもう二度と現れないに違いない、私たちを迎えに来ないお母さんと同じように。

 ははは、ふふふふ。

 けれどそこに響く笑い声は明るい。それはまるで、この世界にきらきらな明かりが灯ったかのよう。声の主は、世界で一番大切な妹と、私の笑い声。


「それで? それで?」


 ひまわりのヘアピンがよく似合う妹の茜は、私が読む物語に興味津々のようで、トパーズのようなブラウンの瞳をキラキラと輝かせている。私は優しく穏やかな声で続けた。


『いざなみは かぐつちをうんだとき おおやけどをおって しんでしまいました』


 はああ! 何度読んでも、茜はここで息を呑む。


「しんじゃったの?」

「しんじゃったみたい」


 私がそう告げると、妹は、まるで自分の大切な友達を喪ってしまったかのように、手で口を覆った。


「かわいそう!」

「わたしもおなじだよ」


 ね、ね、それで、それで? 私が柔らかく包み込むように同意すると、続きを知りたい妹がせがんだ。でも、物置部屋は暗く、絵本の文字は、絵に交じってしまって読み取れない。


「ああ、いつものねー。まってて」


 うーん。妹が人差し指を立てて力を込めると。

 ぽん。

 マッチを擦った時くらいの、小さくて優しい火の玉が、人差し指の先に暖かく灯った。


「はい、つきこおねえちゃん、つづき、よんで」


 ……。


「いざなみさまごっこ?」


 くりくりした目を見開いて、きょとんとする妹に、私は続ける。


「うん。あかねがね、しんぼうづよくいいこでいたら、おねえちゃんのわたしがね、いざなみさまになってたすけにいってあげるの」


 ……。


「泣いてるの?」


 私が「くんれんしつ」のパイプ椅子に座っていると、真っ赤なドレスに金髪のシニヨンが綺麗な、美影が話しかけてきた。


「泣いてるの?」


 何回か声をかけられて初めて、自分が気を失っていたことに気が付いた。また美影が、私の意識に介入しているのだ。


「わたし、ないてた?」

「うん。そんなに辛いなら、辞めちゃいなよ」

「だめだよ」

「どうして?」

「どうしてって……それは」


 この子はいつだって返答に困ることばかりを聞いてくる。


「茜ちゃんのため?」


 心臓を突かれた私は、自分の心を読まれたことで、体をこわばらせた。


「そう……だけど」

「任せちゃいなよ」

「えっ?」


 任せる、それはどういう意味だろう。なんだか聞くのがとても怖くて怖くて、お腹の奥がきゅうっとなる。でも、美影は構わずに続けた。


「これからのいざなみさまごっこは全部。ぜーんぶ茜ちゃんがやるの。あなたは晴れて自由の身」

「だめぇっ!」


 私は、彼女の綺麗な真紅のドレスに掴みかかった。


「そんなのぜったいだめ! あかねは、あかねだけには! こんなめには」


 ……。


「おねえちゃん、まって、まってよお!」


 私はびくんと体を硬直させた。見つかってしまった。……この子にだけは、見つかって欲しくなかった。


「いかないで、あかねをひとりにしないでえ!」


 溶けて穴の開いたフェンスの向こうで、妹が声の限りで絶叫しながら泣く。


「ごめん、あかね。いざなみさまにはなれない」


 私は背を向けたまま、泣きじゃくる妹の顔をもう見ることは出来なかった。


「おねえちゃん、いざなみさまごっこ、もうやめにする」

「ひとりはいや──っ!」


 ……。


「あっははは、これよ、これこそわたしが見たかった地獄の炎だわ!」


 美影は、笑いながら灰になっていった。けれど、彼女を消し炭にしてもなお、妹は止まらなかった。


「さあ、続きを始めよう。茜たちのいざなみさまごっこを」


 だめだよ、と私は妹に懇願する。


「お願い、茜、やめて!」

「ううん。があるから、お姉ちゃんは苦しい」


 ぎゃああ。うぁああ。あつい、あつい。「家」のあちこちから絶叫が響き始める。


「はは。こんなことだって、やろうと思えばいつだって出来た」

「茜、やめて茜! 誰か……」


 そして、本来燃えるはずのないコンクリートの壁が沸騰し始めた。


「茜、茜ぇ! 誰か、誰かあ!」


「お姉ちゃん、見て、見て。茜、いざなみさまになれたみたい」


 妹は、真っ赤に燃える部屋の中で、黒いススになりながら最期に、確かにそう言った。


 ……。


「妊娠なさってますね。おめでとうございます。三か月です」


 私は産婦人科の帰り道に、父方の叔母にスマホで電話をかける。私が教団に入信してから疎遠になって久しいけれど、誰かに伝えたかった。でも、現実はそんなに甘くはなかった。


「もしもし……うん、久しぶりだね、二十年ぶりくらいかな。……うん、そうだね、うん、命日にはお参りいくから。うん、うん。……それでさ……私、妊娠したの……うん、うん……相手? ……いないの。……うん……わかってる。そうだよね、そうだよね。ううん、気にしないで、一人で生むから大丈夫。大丈夫だから……それじゃ」


 帰り道、胸に空いた穴を通り過ぎる木枯らしが、寒くて寒くて。それは地獄に灯った小さな小さな勇気を吹き消すのには、十分だった。


 ……。


 ぴんぽーん、ぴんぽーん。


「熾神さん? 熾神さーん。市の保育士です。ちょっとお伺いしたいことがー」


 ぴんぽーん。


「熾神さーん。いらっしゃるんでしょう?」


 えーん。えーん。ぴんぽーん。えーん。ぴんぽーん。


「うるっさい! いい加減泣き止めよ!」


 びたん。

 うわーん。


 ……。


「朝陽、朝陽! だめ、だめよっ! 目を覚まして! 朝陽ぃっ!」

「まま、みて、みて。あさひ、いざなみさまになれたみたい」


 ……。


「残念。いざなみさまごっこは、わたしの勝ちね。貴女はそこで灰になりなさい。おきがみつきこちゃん」


 ……。


「ねえ、まま」

「まま」

「いざなみさまごっこってなに? あかねちゃんって、だあれ?」

「ねえ」


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