いざなみさまごっこ
杏樹まじゅ
【第一章.母子】
【一.夢】
「ねえ、ひみつのあそび、しましょ」
◇
◇
くすくす、あははは。
物置部屋は薄暗い。スチールラックにパイプ椅子、使わないデスク、ベッドのマットレス。それらはみな一様に埃を被っておやすみなさいをしている。たぶん、持ち主はもう二度と現れないに違いない、私たちを迎えに来ないお母さんと同じように。
ははは、ふふふふ。
けれどそこに響く笑い声は明るい。それはまるで、この世界にきらきらな明かりが灯ったかのよう。声の主は、世界で一番大切な妹と、私の笑い声。
「それで? それで?」
ひまわりのヘアピンがよく似合う妹の茜は、私が読む物語に興味津々のようで、トパーズのようなブラウンの瞳をキラキラと輝かせている。私は優しく穏やかな声で続けた。
『いざなみは かぐつちをうんだとき おおやけどをおって しんでしまいました』
はああ! 何度読んでも、茜はここで息を呑む。
「しんじゃったの?」
「しんじゃったみたい」
私がそう告げると、妹は、まるで自分の大切な友達を喪ってしまったかのように、手で口を覆った。
「かわいそう!」
「わたしもおなじだよ」
ね、ね、それで、それで? 私が柔らかく包み込むように同意すると、続きを知りたい妹がせがんだ。でも、物置部屋は暗く、絵本の文字は、絵に交じってしまって読み取れない。
「ああ、いつものねー。まってて」
うーん。妹が人差し指を立てて力を込めると。
ぽん。
マッチを擦った時くらいの、小さくて優しい火の玉が、人差し指の先に暖かく灯った。
「はい、つきこおねえちゃん、つづき、よんで」
……。
「いざなみさまごっこ?」
くりくりした目を見開いて、きょとんとする妹に、私は続ける。
「うん。あかねがね、しんぼうづよくいいこでいたら、おねえちゃんのわたしがね、いざなみさまになってたすけにいってあげるの」
……。
「泣いてるの?」
私が「くんれんしつ」のパイプ椅子に座っていると、真っ赤なドレスに金髪のシニヨンが綺麗な、美影が話しかけてきた。
「泣いてるの?」
何回か声をかけられて初めて、自分が気を失っていたことに気が付いた。また美影が、私の意識に介入しているのだ。
「わたし、ないてた?」
「うん。そんなに辛いなら、辞めちゃいなよ」
「だめだよ」
「どうして?」
「どうしてって……それは」
この子はいつだって返答に困ることばかりを聞いてくる。
「茜ちゃんのため?」
心臓を突かれた私は、自分の心を読まれたことで、体をこわばらせた。
「そう……だけど」
「任せちゃいなよ」
「えっ?」
任せる、それはどういう意味だろう。なんだか聞くのがとても怖くて怖くて、お腹の奥がきゅうっとなる。でも、美影は構わずに続けた。
「これからのいざなみさまごっこは全部。ぜーんぶ茜ちゃんがやるの。あなたは晴れて自由の身」
「だめぇっ!」
私は、彼女の綺麗な真紅のドレスに掴みかかった。
「そんなのぜったいだめ! あかねは、あかねだけには! こんなめには」
……。
「おねえちゃん、まって、まってよお!」
私はびくんと体を硬直させた。見つかってしまった。……この子にだけは、見つかって欲しくなかった。
「いかないで、あかねをひとりにしないでえ!」
溶けて穴の開いたフェンスの向こうで、妹が声の限りで絶叫しながら泣く。
「ごめん、あかね。いざなみさまにはなれない」
私は背を向けたまま、泣きじゃくる妹の顔をもう見ることは出来なかった。
「おねえちゃん、いざなみさまごっこ、もうやめにする」
「ひとりはいや──っ!」
……。
「あっははは、これよ、これこそわたしが見たかった地獄の炎だわ!」
美影は、笑いながら灰になっていった。けれど、彼女を消し炭にしてもなお、妹は止まらなかった。
「さあ、続きを始めよう。茜たちのいざなみさまごっこを」
だめだよ、と私は妹に懇願する。
「お願い、茜、やめて!」
「ううん。ここがあるから、お姉ちゃんは苦しい」
ぎゃああ。うぁああ。あつい、あつい。「家」のあちこちから絶叫が響き始める。
「はは。こんなことだって、やろうと思えばいつだって出来た」
「茜、やめて茜! 誰か……」
そして、本来燃えるはずのないコンクリートの壁が沸騰し始めた。
「茜、茜ぇ! 誰か、誰かあ!」
「お姉ちゃん、見て、見て。茜、いざなみさまになれたみたい」
妹は、真っ赤に燃える部屋の中で、黒いススになりながら最期に、確かにそう言った。
……。
「妊娠なさってますね。おめでとうございます。三か月です」
私は産婦人科の帰り道に、父方の叔母にスマホで電話をかける。私が教団に入信してから疎遠になって久しいけれど、誰かに伝えたかった。でも、現実はそんなに甘くはなかった。
「もしもし……うん、久しぶりだね、二十年ぶりくらいかな。……うん、そうだね、うん、命日にはお参りいくから。うん、うん。……それでさ……私、妊娠したの……うん、うん……相手? ……いないの。……うん……わかってる。そうだよね、そうだよね。ううん、気にしないで、一人で生むから大丈夫。大丈夫だから……それじゃ」
帰り道、胸に空いた穴を通り過ぎる木枯らしが、寒くて寒くて。それは地獄に灯った小さな小さな勇気を吹き消すのには、十分だった。
……。
ぴんぽーん、ぴんぽーん。
「熾神さん? 熾神さーん。市の保育士です。ちょっとお伺いしたいことがー」
ぴんぽーん。
「熾神さーん。いらっしゃるんでしょう?」
えーん。えーん。ぴんぽーん。えーん。ぴんぽーん。
「うるっさい! いい加減泣き止めよ!」
びたん。
うわーん。
……。
「朝陽、朝陽! だめ、だめよっ! 目を覚まして! 朝陽ぃっ!」
「まま、みて、みて。あさひ、いざなみさまになれたみたい」
……。
「残念。いざなみさまごっこは、今回もわたしの勝ちね。貴女はそこで灰になりなさい。おきがみつきこちゃん」
……。
「ねえ、まま」
「まま」
「いざなみさまごっこってなに? あかねちゃんって、だあれ?」
「ねえ」
◇
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